禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

言葉の拘束力と中庸ということ

2021-06-30 06:56:12 | 哲学
 私はいつもブログを書いた後振り返ってみて、「私は初めからこういうことを書こうと思っていたのだろうか?」と思うのである。人間は言葉で考える。だから言葉にして見なければ、自分が何を考えているかも分からない。言葉にしてみて初めて自分の考えていることが分かる。

          果たしてそうなのか? 

 これは、私たちの思考が言葉に支配されているということではないのかという気がする。 約半世紀前、私が学生であった頃の若者の多くは左翼思想に染まっていた。持てるものが持たざる者を搾取する、その社会的不公正は明らかであり直ちに是正されるべきものである。「マルクス・レーニン主義は正しい。」と私たちは思ったのである。
 しかし、当時の左翼運動はことごとく挫折した。確かにこの資本主義の世界は不公正である、その事自体は間違っていない。しかし、「正しい」思想を性急に社会に押し付けようとすれば、より大きな矛盾を生み出すのである。
 理屈が正しいからと言って、それを押し付けようとすれば反発が起きる。それを克服しようとすれば、運動はさらに過激化する。その行き着いた先があさま山荘事件である。理屈の正しさを信じすぎると必ず独善になる。革命に成功したソ連や中国や北朝鮮を見ればわかるように、思想を前面に出した社会はほとんど失敗している。思想(言葉)に支配されるからである。

 禅仏教では不立文字と言う。おそらく言葉では真実を表すことが出来ない、そういう諦観が仏教にはあるのである。一切皆空というのはあらゆるものは本質を持たない、ということは、どのような概念も本質などなくて恣意的な思い込みに過ぎないということである。(参照==>「即非の論理」

「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(ソシュール『一般言語学講義』) 
 
 ここで言われていることは、概念のよって立つ絶対的な視点などなくて、究極的には恣意的ならざるを得ないということである。明らかに仏教における空観と通底している。そのような観点に立てば、言葉によってものごとを断定することには用心深くなくてはならない。仏教において、中庸というのは左右の真ん中を選ぶというような意味ではなくて、言葉に支配されることによる思想の先鋭化を用心しなければならないということなのである。

観音様の美しさを表現できる言葉はない。

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