禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

できないことや知らないことについては考えるこも語ることもできない

2020-01-22 08:20:42 | 哲学
 ここで言う「できないこと」とは力が及ばないからできないという意味ではなく、論理的に不可能なことという意味である。

 以前、次のような子供のやり取りをご紹介したことがある。(「パラドックス)

A:「ドラえもんのポケットって何でも入るんだよ。家でも自動車でも」
B:「どんな大きなものも入るの?」
A:「そう、どんなものでも」
B:「じゃあ、世界も入るの?」
A:「そう、なんでも入るから、世界も入るよ。」 

ここで私が「へぇーっ、世界が入ってしまったら、その時ドラえもんは一体どこにいるの?」と横やりを入れたら、残念ながら答えてはもらえなかった。

 一般に、「なんでも」、「あらゆる」、「無限の」、「永遠」というような、われわれの経験が到達し得ないような言葉は要注意である。自分の知らないことやあり得ないことがらまでもが暗に含まれている、というようなニュアンスのある言葉だからである。上掲の子供Aの言葉「ドラえもんのポケットって何でも入るんだよ。」の「何でも」の内容を実はAは承知していない。だから、すべてがドラえもんのポケットに入ってしまったら、そのポケットをもつドラえもんがどこにいるかを言えないのだ。
つまり、Aは「ドラえもんのポケットには何でも入る」と自分で言っておきながら、その自分の言葉を理解していないのである。

 われわれはなんでも考えることができ、なんでも語ることができるように錯覚しがちだが、実はそうではない。円い三角について考えることができるだろうか、できないはずだ。円い三角についていくら語っても、その内容は自分にも理解できないような内容になるだろう。「ネッシーは体重30トンである。」という言葉は何について語っているのだろうか? 「ネッシー」という記号の指示対象に該当するものがなければ、それは空疎な言葉と言うしかない。
「私は君に永遠の愛を誓う」という言葉は文学的な表現である。せいぜい「今のところは、ものすごく好きです」というくらいの意味しかないのは、みんな知っている。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする