大乗仏教では、あらゆるものは自性をもたない、すなわち空であると説く。自性というのは、他のものと関係なくそのものがそのものであり得るような本質を意味する。ギリシャ哲学でいうところのイデアである。人間は一人々々みな違っているのに、それぞれが人間であると分かるのは、人間としての本質というものつまり人間のイデアが存在するからである、とプラトンは説く。だとすると、人間のイデアというのは人類誕生以前から、そして人類滅亡後も永遠に存在するということになる。
一方、大乗仏教はそのような永遠不滅かつ固定的なものは存在しないと説く。もし人間のイデアが存在するなら、進化の過程で人間以外から生まれた人間が存在することになり、その境界が明瞭でなければならない。誰がその境界を見定めることができるだろうか? そのようなものはありはしない。無常なる世界では、すべてのものは偶然的で過程的であり、完成形あるいは最終的なものは存在しない。私たちはみなそのダイナミズムのさなかに生きるものである。色即是空とはそのような理を説く言葉である。絶対的な本質というものがない限り、我々は固定的な位相に執着する根拠を持たない。どのような力をもってしても無常を押しとどめることはできない、そのことを見極めることが仏教的諦観である。どのように美しい人と雖もいつかは老いる。どのように愛しい人もいつかは死ぬる。はかないと言えば儚いが如何ともしがたい真実でもある。
それで、大乗仏教の祖である龍樹は「すべては陽炎と看よ。」というのであるが、この言葉をそのまま「すべてはまぼろしである。」というような意味に受け取ってしまうと、それはニヒリズムになってしまう。「色即是空」というのは前回記事(「現実があって理論がある」)に照らせば「理論」である。その正しさは超越的な視点から見た客観的な正しさでしかない。すべては無常であり、我々はそれを受け入れなくてはならないことはその通りであるが、私たちの「現実」というのは、このありありとした世界を実存的な視点からとらえねばならないのである。「空即是色」というのはそのことを言うのである。
あなたが恋人を抱擁しているとする。その時、あなたは「君の体はほとんどが水素、酸素、炭素、カルシウムでできている物体に過ぎない。」と呟いたら、あなたは張り倒されても仕方がない。別に間違ったことを言ったわけではない。析空観(参照=>「析空観と体空観」)に従えば、あなたの言ったことは正しい。ただし、その正しさは「理論」だけを見ているのであって「現実」を見ていないのである。色即是空の観点だけでは無味乾燥のニヒリズムに陥るだけである。(参照=>「婆子焼庵」)
彼女の体は柔らかく温かい、そして息づいている。それがありありとした「現実」である。理論は正しい見通しを立てるためには必要であるが、最後には必ずこのありありとした現実に立ち還らなくてはならない。「柳は緑、花は紅。」というのはそのことである。
江ノ電の車窓から七里ガ浜を見つめる仲の良い姉弟。これも無常の中に現出した現実である。