禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人はなんのために生まれてきたのか?

2019-07-05 06:32:19 | 哲学
私が参加しているSNSで上記タイトルについて議論されています。私たちは無意識のうちに、なんにでも理由があると思っています。ならば、私達が生まれてきた理由もあるはず、それを知りたいというのは人情でしょう。

あなたがキリスト教徒ならこんな問題に頭を悩ます必要はない。すべては神様の思し召しだからである。神のみ心に従って生きればいいだけのことです。しかし、あなたが仏教徒ならどうか? 仏教にはそんな神さまはいない。したがって、自分の外部から与えられる使命というようなものは存在しない。他人に迷惑かけない限り、思いのまま自由に生きていけばよい。仏教ではそれを「自然(じねん)」と言います。

しかし、何事にも理由があるはずという人間の思い込みは強い。どうしても生まれてきた理由が欲しい人は、それを人間の本性の中に見つけようとする人が多いようです。たいていそういう人は進化論の中からそれを見つけ出そうとします。人間の進化を俯瞰しますと、成し遂げられたあまりにも精妙な結果に、そこになにかの「意志」が働いているとしか思えなくなるようです。その結果、そこから、「我らはみな種族繁栄のために生きている。」という目的というか、与えられた使命のようなものをくみ取る人が少なからずいるようです。

「種族繁栄のため」という思い込みも、「だから人のためになる生き方をしよう。」程度におさまっておればいいのですが、「LGBTは種族繁栄に貢献しない」などと言い出すと、ちょっと問題です。時々政治家の方にもそういう人がいて、わざわざそれを公言したりする人もいます。

私達の本能が「種族繁栄」を志向しているかのように見えるのは当然と言えば当然で、子を産みそして育てる、そういう本能がなければ現在のわれわれもいなかったわけです。だからと言ってそれは誰かが仕組んだことでもない。いわばなるべくしてなった偶然の結果であります。

イギリスの偉大な哲学者であるデイヴィッド・ヒュームは、「現実にそうであるからと言って、そうであるべきであるとは言えない。」と述べています。これは「ヒュームのギロチン」と呼ばれる哲学の法則です。人間の本能が「種族繁栄」を志向しているように見受けられるからと言って、それが人間の生きるべき目的であるとは決して言えないのです。

コメント
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