科学的真理の探究というのは、現象の背後にある秩序を探るということだが、禅仏教における真理というのは現象そのものを指す。
いわゆる禅問答のテーマとして「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか?」というのがある。設問の仕方が少々稚拙かもしれないが、一応これは科学的な分析を意味しているのである。この場合、「鐘が鳴る」と答えても、「撞木が鳴る」と答えても正解ではない。種目で鐘をつけば「ゴーン」という音が鳴り響く、その「ゴーン」と鳴っていることだけが現実であるということに気づきなさい、という公案なのである。
われわれの思考というものは一般に因果関係という枠組みにはめ込まれている。現代人はとかく現象を分析し単純な要素に還元しようとする。それに対して禅仏教では、ただ虚心坦懐に「見つめよ」というだけである。因果関係にとらわれると原因の方に目が奪われがちであるが、この世界の「本当の」意味というのは結果の方にある。現実にあるのは現前している現象の方であって、原因というのは実は頭の中で推論によって組み立てられたものである。つまり、それは虚像に過ぎない。
「強いものが勝のではない、勝ったものが強いのである」という名言があるが。因果的思考法に慣れた人は、「強いから勝つ」と考えがちであるが、実は逆で「強さ」というものは勝ち負けの中にしかないのである。言い換えると、私達は現実の勝ち負けから「強さ」というものを推論しているのであって、「強さ」はその推論の中にしか存在しないので実在のものではないとも言える。現象の予測には科学的分析というものは必須であるが、それにとらわれ過ぎると現実の世界の実相を把握しそこなう、という面もあるのである。
昔、徳川無声氏との対談で薬師寺の橋本凝胤師が、天動説が正しいと主張して世間の耳目を集めたことがある。あくまで地動説が正しいとする徳川無声に対し、「日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。」と受け付けない。
橋本凝胤師は東大卒のインテリ僧である。もちろん科学的には地動説が正しいと知っている。ここではあくまで唯識学者としての見識を示しているのだろう。しかし禅家の場合はもっと徹底している。六祖恵能大師ならこの場合、「太陽が回っているのでも、地球が回っているのでもない、あなたの心が回っているのだ。」というだろう。
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新緑のカツラ