禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

中道について

2016-03-30 11:07:42 | 哲学

中道というと右でも左でもない真ん中というような意味にとられがちであるが、本来は偏りのない真正な道という意味である。この中道を最も徹底的に追及したのがインドのナーガルジュナという哲学者で、日本では龍樹菩薩と呼ばれる大乗仏教の祖師ともいうべき人物である。

龍樹の思想の特徴はその徹底性にあり、彼のいうところの中道も偏りのなさというものも徹底すると、言葉によって表現できなくなるところまで行きつく。言葉により規定すると、概念による固定化が避けられないからだ。結局、龍樹を中心とする中道派は自らの主張を立論することがないという立場に立つのである。

彼の主著である「中論」はすべて帰謬法で論じられている。帰謬法というのは、ある前提を仮定すると矛盾が導けることによりその前提を否定するという論法である。中論においても自ら議論を開始するのではなく、論敵である説一切有部という小乗仏教の学派の主張することを前提とすれば矛盾が生じることを示す形になっている。(この辺の事情については、中村元先生の「龍樹」を参照していただきたい。)

「中論」が帰謬法で論じられているという前提は忘れてはならないことである。帰謬法であるから結論はすべて矛盾となっているわけで、例えば「去るものは去らない」などという表現も、説一切有部の言うことを前提とするとこのような矛盾した結論が導かれる、ということを示しているのである。

「去るものは去らない」というのは端的な矛盾なのだが、中にはそれを龍樹の主張であると勘違いして、神秘的な境地をあらわしていると誤解する人もいるようだ。禅の初心者の中には「去るものは去らない」という言葉を、自分の得た境地に無理やりすり合わせてしまう人もいる。確かに禅家の言う「無分別智」を文字通りに解釈すれば矛盾を受け入れることができるが、それでは単なる混沌に陥ってしまう。なによりそれは龍樹の意図したこととはかけ離れているのである。

大乗仏教における「中道」の難点は理解するのに非常に難しいというところにある。言葉による伝達は畢竟「有無の邪見」を生む、しかし我々は言葉による以外に伝達の手段をもたないのである。

以上に述べてきたことを踏まえて、もう一度「狗子仏性」の公案を振り返ってみよう。

「犬に仏性が有るのか無いのか」と問われて、趙州は「無い」と答えた。有無の邪見を排除する立場から言えば、本当は「有る」と言っても「無い」と言ってもいけないのである。あえて「無い」と答えた趙州の胸中をおもんぱかって、無門禅師は全身全霊で「箇の無の字に参ぜよ」と云うのである。

この辺が絶妙というしかないが、結果的に「無」の一字に集中することによって、無の意味が剥落した<無>に到達するのである。そのことを通じて一切のものが無自性であることを見出す。それが空観である。

理屈から言うと、無字を通じて有無を超越した無に到達したというなら、有字を通じて有無を超越した有に到達してもよいのではないか、つまり趙州は「有る」と答えても良かったのではないか、という疑問が起こるのは当然である。

やはり「無」字のもつ否定のニュアンスが必要だったのだと思う。「有」と云ってしまえばどうしても「有」に偏ってしまう。趙州は「無」と言いながら同時にその「無」をも否定していたのである。やはり「無」というしかなかったのだ。


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