クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

管峰・万騎峠コース H-16-9-8

2004-09-08 17:15:47 | 吾妻周辺
失敗の侭の管峰の始末を付ける為、再度須賀尾に向かう。同じルートでとも考えたが、気になる万騎峠からのルートで挑戦することにした。万騎峠へは須賀尾峠手前3㌔にある矢竹林道万騎線に入らなくてはならない。この林道は峠を越えて「狩宿」を通過して北軽から来る国道146線に繋がるものである。
林道分岐には、「憩いの宿・須賀尾の里」と「万騎峠まで 5.6㌔」との看板があるが、須賀尾の里は僅かの距離を行って左折したところにある。ところがこの左折の反対側に予想もしないものを発見した。それは江戸時代の道標で「右 くさず道 左 志ん州道」と読めた。確かに林道から右方向に一本の山道が伸びている。そこは昔の信州街道と草津道の分岐点であった。信州街道に沿って林道は整備されているようであり、ぴったり5.6㌔で万騎峠につくが、蛇行が激しく落石跡もあってノロノロと運転したら24分も掛かった。

街道のこと
群馬に街道と名の付くものは実に19本もあり、関東の交通の要所であったことが覗える。高崎以西の住人にとって最も馴染みの深いのは「中山道」であるが、東海道126里に対して139里と距離も長く峠も多い難点があったが、逆に混雑の渋滞も大河増水による川止め等の不便もなかったので、女道と言われて大いに利用されてきた。国道18号に車を走らせると旧道が見え隠れしているのに気付く。この板橋宿を発する中山道は、碓氷峠で群馬を抜けると「佐久路」と言われて軽井沢・追分・望月を経て西南に急旋回して諏訪に向っている。諏訪路では塩尻を通過して「木曾路」に入り馬篭を通り、美濃から関ヶ原に向かい、近江草津まで続くが東海道と一緒になって京都までと言うことになっている。
中山道が急旋回する追分からは北国街道が上田・篠ノ井・善光寺・野尻と繋いで35里走って高田に至り、北陸街道と繋がる。この街道は大きく西を回っているので松代・飯山・須坂各藩を始め北信の各藩が江戸までの距離を短くするために、特に商品輸送路の短縮のため、使われたのが「信州街道」である。
信州では「大笹街道」と言われている。高崎下豊岡に里見への道が分岐しているが、これが信州街道の起点。この道は北部環状線を越えると国道406号となり、通称里見街道を室田に向かい、下室田交差点から倉渕にはいり、三の倉・権田を北進して吾妻町の大戸から西進し須賀尾峠手前から林道に入って万騎峠を越える。私が見た江戸時代の道標は林道を入ったところにある信州街道と草津道の分岐点であった。
草津道とは須賀尾峠を越えて北進し、長野原に出て草津に向かうもので、徳川吉宗が草津の湯を江戸に運ばせた「献湯の路」であるとも言われているが、草津の湯治客や善光寺参りの人達が利用したものであろう。
さて、肝心の信州街道は、管峰登山道がある筈の万騎峠を通って狩宿・鎌原・大笹を通過して鳥居峠を越える。現在の144号線沿い。そして菅平の辺りから北上して一気に須坂に向かい、北国街道のバイパスのような「松代道」と言われる「東脇往還」の「福島」が終着でこの地は集荷地として賑わったとのこと。
福島は信越高速道路「須坂長野東インター」と千曲川の中間に位置している。いつか、林道の分岐から草津路を辿ってみようと思っているが、現在の万騎峠の南の山中にも古道が
見え刈宿方面に下っているので、其れが信州街道の旧道かも知れない。

9/9 、もう何回も来て馴染んだ国道406号の須賀尾地区、峠の手前から万騎峠に入る。道は狭いがしっかり舗装され、落ち葉と区別しにくい落石に注意しなくてはならないが、行き交う車も無く20数分で峠につく。
そこは長野原と吾妻の境界でもあり、車数台を停められるほどの広さがある。峠の南側には峠の由来を説明する大きな看板があり、1193年に頼朝が牧狩りのため、大軍を率いてこの峠を通った事に由来して「万騎」と付けられたという。長野原側には「狩宿」と言う地名があるのでそこは頼朝の宿泊の故事があるかも。こう言う謂れに耳を傾け、自分の立つ場所に往時を重ね合わせるのも感慨深いものである。
坂本から山岳地帯を行く中山道の古道も、東山道時代からの遺跡が多いので、一瞬タイムスリップしてそこを通過したであろう武士達の姿が偲ばれる。貞盛を追った将門も奥州阿部・藤原一族に翻弄された頼義・義家、宇都宮から関が原に急行した秀忠、上州に頻繁に侵入した真田幸隆ほか武田の武将達、峠で独り瞑目すると馬蹄の響きが聞こえるようである。
同じ看板に管峰には1.2㌔、現地標高 1.281㍍とも記されているのを見て、気が楽になった。何故なら須賀尾峠は標高 1.014Mであり管峰まで 3.1㌔もあるからである。適当な路側に車を止め、登山口探しに掛かった。前後50㍍範囲を探したが何処にもあるような道標はなかった。峠の北側には管峰の稜線が垂れ下がっていて、林道によって切れているのであるから、場所としてはここ以外には無い。北側は高さ3㍍位の防砂提になっているが、環境保護のためか、資金難のためか?通常のコンクリート固めではなく松の苗木が植えられ、崩落防ぎのビニール状のネットが敷かれ、雑草が生い茂っている。良く見ると、そのネットが破られ踏み跡らしきものがついている個所があつた。早速、松の苗木に目印をつけ、草に掴まって崖を這い登ると、踏み跡は東に数十㍍進んだ後、北に向かっている。上を見透すと立ち木に古びた赤ペンキがずっと付いている。
しかし、その下には三角点を小型にしたような埋設物があるので、この印は登山用ではなく境界線のマークらしい。これから先が、大苦戦、踏み跡が分からず赤ペンキを探しながら登るが、バラ科植物の藪に突入してしまい、ズボン・シャツはびりびりと引っ掻かれ、腕は蚯蚓腫れ多数の体たらく。漸くこれを抜けると、今度は胸までの熊笹原となる。踏み後が無いので闇雲に突進するが隠れている朽木や石に蹴躓きながら帰りの為にテープの目印を付けながら登る。一時間ぐらいで漸く登山道らしい登りとなり、大岩を二つ過ぎると間も無く頂上につく。登山口から1時間15分。頂上には標識が二つと応桑小の登山記念が立ててあつた。
数枚の写真を撮ってから先日撤退した台地まで下ってみた。約5分の熊笹の先にあり、残してあつたブルーのビニール紐が風に靡いて迎えてくれた。




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1 コメント

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今後ともよろしく (be.yond(秋葉))
2005-06-09 21:49:49
素晴らしいブログですね。

あとでゆっくり読ませていただきます。

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