日本語文法論議23729
議論という言葉を用いているから難しいこと言うのかとおもったら、そうでもない。会議で飛び交う言いたい放題ということだけ、結論を求めない意見の言い放しである。それを言い出すようになって、議論の義と侖とを考えれば論いになるか話し合いになるか、筋があるようにしてきた。言いたいことを言えばいいとしながら、老獪な連中を相手に多勢に無勢では難しいことを言うしかない。
文章の構成には文節がいると思ったのは、文を超えている連文節があるからである。文を超えると、それは連文節になることであるから、文節という文の位置づけに、文章となる単位に連文節となるから、それを文節の扱いになるとして連文節には文を超えるものがあることになる。係り受けの説明にその複層構造となる係りと受けを示そうとすることに先人の研究はややこしくなった。
係りは係りの連文節であって、受けは受けの連文節である。それを文節のように取り出せればよい。それを示すことで意味のまとまりの連鎖する文章がわかる。しかし、文節の分かりやすさに比すれば連文節はとらえにくいものとなる。意味の単位だからである。日本語はそのまとまりをとらえるに便でそれを分析するに困難な文のいわば塊を理解していくことになる。
その文節に思わぬからくりがあって、それをきづくのに長い道のりがあった、文節は語なのである、ということを、思いつくと、この文節が如何にわかりやすいかと思うようになった、文節が語であると言っても語の規定をとらえる議論がいる。文法に語法がいるわけである。ここでわかりよく言っておくと、語法でも同じように言うことになる、自立する語と付属する語は、自立する語が語となる。
付属する語は自立する語につくので語を言うときには自立語がそれで語となる、つまり自立語は語であり、自立語と付属語もまた語である、自立語に付属語、付属語となってもそれは語である、というふうに見ると、気づくことに、これは文節を指している。つまり同じであって、文節は語ということができる。ただ、自立語付属語をセットにした語というとらえかたは文に働く文節としての簡便な呼称となる。
ここで文節を読み替えたのが時枝学説の句であるとわかってくる。入れ子型にヒントを得た句となるので、この学説では詞と辞と言うときの辞が包み込む句の構造を言って、この理論が句法でまた議論されなければならないが、ここで同じことを言えば、時枝学説の辞による句法ということになる。橋本学説は自立語による文節の文法であるから、文章法をも文節に拠ってみる。
となると、語を考えると、実は語というのは句を言うときの単位なのであるけれど、語を文に直接構造とすると、文節、句という単位が同じものでそれは語にほかならないとなってくる。待てよと、詞と辞の分析には連詞と原辞を持つ松下学説も語という単位に詞を据えていることがわかる。つまりは、みな同じ構成をとらえようとしていて、語の単位を日本語でどう当てはめて議論するか、その学説を展開している。
日本語の語という意味は何か、語法と言うときの語とは何か、語言といい、語文ともいう、いまは言語という、語とはなにか、
語調、語氣、語文、語音、語言と用いる、そして語音學、語言學がある。語源學はどんな学問となるか。