室生犀星と聞けば、純情小曲集の詩と、兄と妹の作品と、あとは、性に目覚めるころ。彼の文学記念館があるそうだ。その生い立ちは、いまからは考えにくい、波乱とも定めとも。故郷を思慕し続けたとも、その詩に歌うは 美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ 春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて こまやけき本の情けと愛とを知りぬ いまもその川のながれ 美しき微風ととも 蒼き波たたへたり [犀川] 有名な詩に ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや
[小景異情ーその二]
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現代日本語「誤」百科 766 は、もしも地震が起きた時 身を守る家 を、例題にしている。誤りとするのは、ひとつは、もしも と、時 の結びつきについて、もうひとつは、身を守る家 の言い方にあるらしい。らしいというのは、まず、身を守る家 について、身を守ってくれる家 にするとよいそうだが、違いを説明する、その説明自体が、それがわからないからである。家が主語になって、身を守る家 は、家が自分を守ることになってしまう から、と説明して、この自分は家そのもの、つまり家自身と解釈しているようだ。この説明は、まったくおかしいと思う。地震から身を守る家のことだから、主語を家にして解釈して、身については、家自身なのか、自分自身つまり表現者を含むわたし自身のことか、このいずれであるか、解釈は自明のことだ。いつも思うことだが、この論法でいけば誤りだと解説するコラムは、日本語表現の誤りだとする自身の誤り、その説明の誤りを直さなければならないだろう。 . . . 本文を読む