語彙に文字をみる、漢字語彙となるか、漢字語また漢語、捉え方では字音語となる。文字を漢字仮名とみると、ひらがな、カタカナの別がある。そしてこれは日本語表記のこととなると、語彙学習の文字使用で、読むこと、書くこと、その練習が日本語では必要である。発音を学習して音節文字に写すこと、つまり仮名文字を習得するのは、どの場合にも表記の規則、正書法のことがらとなる。それはまた数種類の文字を混ぜて書く、文字を言葉にする日本語では書き手の表記法になるので、書き方の教育は必須である。しかし、その困難さにおいて、仮名文字を現代仮名の用法で、きめられた音韻に拠ってローマ字読みをすることができれば、学習に役立つワードプロセサーを用いてタイプ練習が可能となった。そこで常用漢字の発音習得に方法を編み出すと、書くことの漢字習得に日本語学習の文字にステップが示されるようになってきている。
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語の構成、語構成、この違いをもとに、語の構成を説明するようである。語構成にはすでに日本語語彙を捉えて、接頭語、接尾語などの用語でその考えを示すものがある。文法論とかかわる分析には複合語と合成語をわけてそこで派生語を見る。この語構成論は国語学において議論されていた。そこに英語文法、日本語文法で語の構成を見直すようなことがあって、このテキストの説明のように、複合語にはその分類として合成語になった。国語は、つまり、単語には単純語と複合語と、それに合成語が並ぶものであったのに対して、いま、日本語では、単純語と合成語とが2大分類となり、その合成語に複合語と派生語が下位分類となった。複合語と、合成語の分類は明確にならなくなって、形態論の複合語形成、compounding を含めた、合成語の分類となっている。 . . . 本文を読む
形態素を語と数えるか、形態を語とするか、そのとらえ方に、語の単位がどれをもって語とするか、考え方を知ることであるが、説明の用語で、単語を用いない、語ということにする、とあって、記述説明に単語の単位が明確ではない。単語と語と、語と語彙と、それぞれに日本語の用法で区別を持つ。言葉における単数、複数の別を、語形態にあらわすことのない日本語で、単位語をどう扱うかは語彙の記述にまず規定されなければならないが、いかがか。形態素と語の区別が語の単位の解説で明確に示されないのは、その考え方を説明しないからである。何をもって1語とするか。レンマ、ワードファミリーの説明が、語論、語彙素論、そして語彙論の混乱を増している。テキストの文章にある、76ページの言及は語の定義に始まって留意を促すが、ここの説明にこそ必要なこととして、語と形態の違いを述べないので、まったくわからないことである。 . . . 本文を読む
語彙の単位を語とするか、形態素とするか、あるいは国語研究所が実験を繰り返したように、語彙調査、語彙項目の立て方に長、短単位、α、βの単位とする考え方もあって、さまざまに統計値をとれば個別の現象と見ることになる。話を戻して、語彙の論に文法の論での形態論を見るところまでは良いかもしれないが、それはまた文法の最小単位には意味のまとまりでそれよりはわけることができないものとした語があったのに、形態素をこれ以上の小さい単位はない意味の最小単位を設定して、いわば形態素論をおこなう。語彙論の語彙項目、文法形態論の形態、そして形態素論の形態素と、文法論にすべきところを、語構成論で考え方をやり取りして、説明に統一性のないことが多くなった。語彙論で語論を行うならば、形態素の分析は音素による音韻を基本にしなければならないのを、日本語は音節である仮名文字で便利にするので、これまた、形態素論には程遠いことになる。形態論をとれば、動詞の活用による語の形態を、五形態として見ることで、語が語であることを説明するし、語のが派生を見る語としての働きを議論することが、混同されているようである。
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日本語教育の教授法で動詞活用を効率的に学習することができること、そのステップアップが説明になくて、語彙を文法と切り離す記述になっている。日本語習得だけではない、これは語彙の分野であるということから、語彙習得の困難さのひとつに、活用変化形をあげて、言語の特徴にしてしまうのは、記述説明の内容に教育方法がないことだけではなさそうである。漢字語彙はとくに難しいので、日本語での漢字の習得には工夫があることを教育実践として推測すればよい。基本語彙の考え方は出現率による統計値にあるが、語彙の数値を結果による比較をする場合は、とくに気をつけなければならない。使用頻度が高い基本語彙を、カバー率からみて上位語の選定にするのはよいとして、言語によって上位1000語の語彙が単純比較されると、誤解が起こる。 . . . 本文を読む
基本と基礎と、この語の違いをとらえる。まさに語彙のかなめである。語彙論をその立場でいえば、基本もとにすれば、語彙の定義となって、基本語彙は明らかである。しかし、学習語彙として基礎と基本を決める作業は、それぞれに選定理由のあるところであり、意味内容も基礎、基本に重なり合うことが出てくる。語彙論において基礎語彙の用語をとくに定義するかどうかで基本との違いがさらに分かることになるが、これは基本語彙の規定で、その用語をまずとらえて、その立場を持つかどうかである。基礎語彙を学習語彙で定めるのは、これまでの用法として、学習上の重要な語を、日常によく用いる語、あるいは基礎語という用法で、いわばその連想による語の捉え方がある。外国語学習、とくに英語学習などで基礎英語という用法があって、そこにも基礎の用い方が影響してきた。それで、日本語学習で基礎日本語という用法がどうであるか、日本語の基礎という言い方もあったりして、基礎語彙の選定にこれまでの経過と知識で、2000語の範囲で選定をするということが試みられた。日本語教育の指導者に複数のかたがたに以来のもと、集計をしてみると、同じ語を重要とする場合にも、日本語読み、漢語読み、そのほかの組み合わせと、どうしても2000語では収まらず、その作業の結果に、それぞれの2000語をクロスすることで6000語をとれば範囲に収まる、つまり2000語の基礎を選んだ結果、6000語で公表することになった。 . . . 本文を読む
学習語彙であるから、覚えるということで言語習得の出発を学習者に説明する。はじめに、そのことから入門を記述する、というときに、使用頻度の高い語彙として基本語彙をまず方法に挙げるのは、その通りである。ところが、基本語彙には一方で、基礎語彙の捉え方もある。しかし、この入門書ではその説明が見えない。索引に求めても基礎語彙はないので、学習の基礎となることを捉えようとしないかに思える。これは教授法にもかかわることであるから、基礎という点では、学習者の習得方法にも重要であって、語彙習得には文法と形式があることを十分に知る必要がある。 . . . 本文を読む
語彙習得 この入門書の記述は日本語教育経験を踏まえていないか、誇大にとらえることで、学習困難であることを日本語教師に訴えようとする、あるいはそこを譲って、学習のステップを教師にどう考えさせようとするのか、わからない。学習時間を能力別試験で標準時間が指定されているが、それによればレベルが高くなって900時間を前提にした説明が可能である。つまり能力試験を受けるために準備しているのは900時間に対して、学習語彙に、その対象を語彙表で一覧して約8009語、600時間に対して以下、同様に、約5035語、300時間に対して1409語、150時間では728語と、これはあくまで出題基準として公表されているのではあるが、それぞれ試験対策として、それぞれは、8.9 8.4 4.7 4.9 1時間当たりの学習となる。学習程度によるが、日に4時間の集中学習で20語からスタートして300時間を経た3か月から4か月後には、学習語彙は、学習した語彙に加算した数字であるので、6600語を600時間に学ぶ、日に44語という単純計算になるが、このような数字にはならないのは当然である。 . . . 本文を読む
日本語教育で学習者は何語覚えればよいかと、説明する。理解語彙と使用語彙を捉える。ここで理解語彙は、日本語を母語とする人は、4~5万語と言う。この理解語彙は語彙量としては何によるものか、一般的に受け止めるとどうか。たとえば、日常の国語辞書をおいて開くと、ほぼ机上版辞書の項目は漢字の理解で説明を読み取ることができるようであるから、辞書の収録語数に合わせた単語の数が理解語彙となる。項目は、まず漢字などの表記を思い浮かべる、実際には発音引きにして理解するかどうかを表記によって意味を推測するので、時間と手間をかけるかどうかで変わってくる。辞書の収載語数はカタカナ表記の語によって増減が大きい。一方で、使用語彙は8000語を数字として挙げている。データは、典拠に、オンラインコミュニケーションの平均的使用語彙数のコーパス利用とある。ウェブ上の発言10万人を対象に形態素で行っている。 . . . 本文を読む
すでにふれてきたことであるが、去る4年前に、日本語教育学として入門書が出版されて、タイトルにひかれたのだが、日本語教育学というのは日本語学とすべきもの、それではまた、音声、語彙、文法とだけする内容構成には不足が生ずるように思われるので、このような日本語教育学にある分野の言語関係、日本語解説による入門書になったのであろうと、そのおりには、日本語教育入門にするのを控えた経験があって、近時、ネット検索で日本語音声の解説をPDF公開している研究社サイトのページで、その使いよさだけで、再び手にして、文法記述について引用して述べたところであった、音声の概説は入門よろしくというふうな個人感想に過ぎないのを、いま少し言うならば、文法記述には日本語教育者はどうとらえてしまうだろうと懸念し、日本語文法のベースがない、宙に浮いてしまったような、さきの個人の感想に過ぎない思いで、つぎはいよいよと、語彙の分野で、これではいけないとするところ、述べてみる。 . . . 本文を読む