牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

ABCラジオ希望の声放送が37年目に

2010-07-04 08:37:07 | Weblog
 今年も後半に入ります。七月の最初の日曜日は、37年間同じ聖書の個所を開いて、ラジオ放送希望の声の恵みを語り続けています。

 37年前の五月に稲沢福音教会へ行くとき、名神高速道路で木曽川を走行中、「ラジオ放送をやらないか?」と運転していた牧師に声をかけられました。
 その瞬間、大阪弁で「できへんわ=できません」とすぐ思いました。話下手、赤面恐怖症、開拓教会で経済的にも無理等々、数え上げたらキリがないくらいにできない理由を考えていました。
 あの日にできない!と言っていたら、ラジオ牧師でもなく、今朝のブログにそのことを書くこともなかたことでしよう。
 幸いできないという言葉を出そうとしたら、一ケ月くらい祈ってから返事してくれとのことでした。
 どんなに話下手で、赤面恐怖症でも、牧師として神に召されていました。「ああ、麗しきかな。良き知らせを告げる者の足は」と、聖書のことばを与えられえ開拓伝道中。

 種子島で薪取りに行き、背負えるだけの薪を背負う山の日だまりで一休みし、持参していた新約聖書を開いたそのとき、生きていて力ある聖書のことばの語りかけを受けました。
  「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 それはローマ人への手紙10:13-15節のみことばでした。
 そのことばだけを握って種子島から生駒聖書学院へ。学びを終えて奈良市富雄で小さな教会の働きを始めていた時でした。

 稲沢市の教会で祈りつつ聖書を開いたとき、見よ!という言葉が目と心に飛び込んできました。しっかり目を開き読みました。
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」(ヨハネの黙示録3:8)

生きていて力がある神のことばをアーメンと信じ、37年目の希望の声が今週もABCラジオから水曜日の朝に放送されています。6日(火)にはまた8月放送分録音で、朝日放送スタジオへ。

 誰も閉じることのできない門が、イエス・キリストの十字架と復活により、信じる者の前に大きく開かれている幸いを体験してください。
今日もまた天国の一日です!感謝します。祝福を祈ります。


詩篇126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。
126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」
126:3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。
126:4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。
126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。



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