牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ

2012-02-02 11:23:22 | Weblog
箴言は31章あり、さまざまな人間関係を描く短い文が書かれています。

 27章17節に、「 鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。』と言うことばがあります。

 人間関係の素晴らしさを述べていることばです。新共同訳では、「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。」とあります。

 生駒聖書学院にもさまざまな背景を持つ神学生が入学してくれます。神様に選ばれた確信を持って3年間の寮生活に入ります。

 朝5時起床でスタート、5時50分より朝の祈り、6時30分~7時チャペルタイム、すぐ院内外の清掃奉仕、7時30分朝食(コーヒー&紅茶と食パン等)、食事の片づけや食器洗いでスグ8時30分に授業が始まります。

 12時にはまたみんなそろってランチタイムです。午後はそれぞれが奉仕や仕事です。
夕食は5時30分、片付けや食器洗いを終えると、集会のときは自習時間、そして午後10時30分には消灯です。6時間30分睡眠がとれるよう配慮しています。

 神学生たちはルールに従い楽しく寮生活を続けていますが、それになじまない者も時にはあり、神学生たちの間で摩擦が生じることもあるようです。

 神学校だけでなく人の集まるところいろんな考えがあるので、摩擦や衝突が起こることは結構あります。

 そんなときにもうイヤと投げ出し、逃げ出したりすると、いつでもどこでも同じようなことにぶつかります。試練は世の常だと聖書は名言しています。

 そんなとき箴言27章17節の聖書のことばに出会う人は幸いです。気心の合う者とだけいれば楽かもしれません。しかし、お互いを研磨し合うことになれば、気に入らない人や文句を言ったり喧嘩腰になる人がいても平気になります。

 日本刀はものすごい切れ味だそうです。その刀を作るためには、刀鍛冶は繰り返し繰り返し、鉄を打ち延ばします。かなくそは打つたびに火花を散らしながら精製されます。そして打たれ続け研ぎ澄まされた刀身が出来上がるのです。

 そのように人生も打たれ続けた人ほど、輝くをまし続けるのではないでしょうか。ですから周りに難しい人や、イヤだと思う人がいてもその人によって、人格と品性が研磨されていると思えば、わざわざあの人は嫌いイヤだなどと遠ざからなくても良いと思います。
 
 日本刀が研磨に研磨をかけられるように、私たちもすべての人間関係が研磨の時と思い、すべての人に感謝しながらの歩み続けましょう。

 今日もまた明るくさわやかな天国の一日です!

詩篇103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

賛美歌312番、いつくしみ深きのメロディで歌ってみましょう。

わたしのたましいよ ハレルヤほめよ
主のよきすべてを 常に覚えよ
すべての罪とが 十字架で赦し
病を癒して 健やかになす

滅びの道より 天国行きに
平安喜び あふれる感謝
勝ちえて余りの 勝利の御旗
すべてのよきもの 豊かに満たす

待ち望む時に 新たな力
走れど疲れず 鷲の翼で
日々に強められて 活力満ちる 
御霊の満たしは つねに変わらず

アーメン



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1 コメント

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切磋琢磨される人生 (こひつじ)
2012-02-02 16:17:51
こんにちは。
私の今使っている聖書は、新改訳聖書第2版ですが、この箇所は「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」となっています。
私も、文語訳、口語訳、・・・新改訳と、いろいろな訳の聖書を読んで来ましたが、意味に大きな違いはないようですね。
因みに、英語の聖書は「As iron sharpens iron,So a man sharpens the countenance of his friend.」となっています。
私は、21歳の時、クリスチャンになり、今は間もなく71歳ですから、約50年の信仰生活になります。
ですから、実に様々な人との出会いを経験してきました。
クリスチャンであっても、人格的に、柔和で優しく、親切で、愛と寛容があり、温かいおもいやりのある人ばかりとは限らず、自己顕示欲の強い人、プライドの高い人、いつも他人のあら捜しばかりしているような人とも、一緒に交わることもありました。
でも、今、自分の人生を振り返ってみると、自分が嫌いなタイプの人間によって自分が人格的に研磨されて来たことも多くあったように思われます。
自分と似たような性格の人と出会うこともありますが、それも背後に神の摂理があるように思います。

あのヤコブがおじのラバンと出会ったのも彼が砕かれ、研磨されて行くためのものであったのでしょうか。
いろいろ考えさせられました。ありがとうございます。

余計なことかもしれませんが、今日の記事の中で「試練は世の常だと聖書は名言しています。」とありますが、「名言」は「明言」の間違いではないでしょうか。御無礼を主の御名に免じてお赦し下さい。

 
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