牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

義に飢え乾く幸い

2005-06-12 07:20:24 | Weblog
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。マタイ5:6
 
 神の前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸福です。 そういう人の願いは完全にかなえられるからです。(リビングバイブル)

 ほとんどの人は飢えるとか、渇くというほんとうの意味を知らないと思います。特に、日本は飽食の国ですから・・・。
 1988年にアフリカのケニアに行き、最大の飢餓地帯トルカナに食糧を届けました。トルカナは美しい湖のほとり、トルカナ族の豊かな牧草地でした。
 1985年のこの地を襲った大干ばつで、羊が何十万頭もバタバタと死に、人々は食べるもの餓死する者も多く、美しいトルカナ湖リゾートも荒れ果ててしまいました。それから3年後のトルカナを訪ねたのですが、わずかなパンに群がるように押し寄せる群衆、手を伸ばす子どもたちを棒でひっぱたき、我先に奪い取るように食料を手に入れようとする男たち。嬌声を上げて自分たちにもと叫ぶ女たち・・・。
 食を得るために子どもを売るという記事も西日本新聞が報じ(1993年)ていました。
 水を求めて1週間も歩いている人々もあることを知り、暑さでお湯のようになったペットボトルの水を飲むことさえ申し訳ないように思いました。
 飢える姿に何とかしたいと10年間、トルカナ族に食糧を運び続けました。

 マザー・テレサ(1910-97)が日本に来たとき、「インドでは飢えによって死ぬひとがいる。ここでは精神的な飢えによって苦しんでする人々がいる」と語ったそうです。
 今の日本の特徴は、もっと、もっとといつもイライラしている状態です。何か物足らない不満が渦巻いています。ブログの中にも満足できていないうめきが満ちているように感じるのは、言いすぎでしょうか。
 何かがかけていると思えば思うほど、欲求不満がつのります。どうすれば満たされるのでしょう。
 
・ブログのアクセス数が増えれば?
 ・有名になれば満たされますか?
 ・成功すれば満たされますか?
 ・権力が得られれば?
 ・健康が増進すればでしょうか?
 ・ダイエットに成功すれば?
 ・恋人が見つかれば?
 ・性的快感が満たされれば満足できますか?
 ・快楽に身をゆだね好きなだけ酒を飲み、ギャンブルをし、遊んで暮らせれば満たされますか?
 ・お金に不自由しなければ?

 上げれば霧がないほど欲求は膨らみます。そして自分が求めたものが得られたら幸福になると考えます。そして求めては得られず、永遠に飢え渇き、地獄ではもっと厳しい飢え渇きの中で、永遠を過ごすことになるのです。(ルカ16章)
 
 イエス・キリストは八福の教えの中で、「義に飢え渇いている人は幸いです。その人は満ち足りるから」と教えました。義=正しいこと。正しいこととは人との比較ではなく、神の正しさ、神の義が基準です。
 自分は正しくありえない、神の義の基準からほど遠いと、求める心渇く心があれば、イエス・キリストが与えてくださる十字架の救いをアーメンと受けるとき,神の義が与えられるのです。
 今のままの自分ではいけない。正しい心と正義の人生を歩みたいと多くの人が思いつつ、いつの間にか人との比較で自分を正しいとし、自己義=自我の満足で自分を義としてしまいます。

 それは、次のように書いてあるとおりです。
 「義人はいない。ひとりもいない。
 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
 「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。
 また、彼らは平和の道を知らない。」
 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
ローマ3:10-28


さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38









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