がんの夫が旅立った日、妻が最後に“思わずかけた言葉”とは

2020年11月28日 | 病気 余命を考える 死を迎える準備
がんの夫が旅立った日、妻が最後に“思わずかけた言葉”とは

11/23(月) 8:48配信
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女子SPA!

(女子SPA!)

 筆跡アナリストで心理カウンセラーの関由佳です。2週間自宅で看護していたがんの夫でしたが、ついに旅立つ日がやってきました。

⇒【写真】亡くなる1年前の筆者の誕生日に撮った夫婦の写真

 その日の前日、夫は大量の血痰を吐き、吸引していた私はみるみる瓶にたまっていく真っ赤な液体を目にしながら「これはただ事ではないのでは……」と不安を感じていました。日曜日だったので、看護師や医師は来ない日。このまま具合が悪くなったらどうしよう、と思いながら日中が過ぎていきました。
亡くなる前日にした約束

 夜になり、ぼんやりしている夫の手を見ると、甲にくっきりと骨の影が。「こんなに痩せていたんだ……」と改めて思い、急に胸が苦しくなりました。

 私は夫の手を握り、「あと2週間で私の誕生日だけど、それまで生きていてくれる?」と聞くと、夫はそれまでぼんやりしていましたが、ハッと正気を取り戻したような表情になり「うん」とうなずきました。それから私の手をグッと強く握り、指きりをするときのように手を2回振ったのです。

 全く確証のない約束だと思いながらも、それでも信じたい気持ちでいっぱいでした。なんとか少しでも生きてほしいという私の希望を、夫は手の力で「わかった」と言ってくれたように感じました。
「限界だ…」せん妄による異常行動で眠れない夜

 しかし深夜になり、私がベッドに入ってしばらくすると、なにやら夫の寝ているリビングからガサガサと音が聞こえてきました。

 少しうとうとしていたのですが、ハッと目が覚めて夫の元に行ってみると、胸に刺していた痛み止めの針を抜いてしまっていたのです。

「またせん妄(※)か……!」と私は困惑の上に怒りすら覚え、「何してるの!」と怒りながら、深夜3時頃でしたが訪問看護の連絡先に電話を入れることに。すると「朝になったらすぐ医師に行ってもらうから、それまでは粉の痛み止めで対応していてください」とのこと。しかし、夫はもう口から薬を飲むことが難しかったので、どうしたものかと途方に暮れてしまいました。

 しかし「痛い」と訴えるので、仕方なく粉の痛み止めをゼリーに混ぜて食べさせることに。ですが、飲み込んだものはすべて痰として吐き出してしまい、薬を飲ませる→痰として出る→痛みが収まらない→薬を飲ませる→痰として出る……を繰り返してしまいます。

 結局これを朝まで繰り返し、ほぼ寝ない状態でその日を迎えました。こんなに大変な夜は今までになく、この朝に初めて、私は「この生活、限界だ……」と絶望を覚えたのです。

(※)せん妄とは、突然発症する意識障害の一つです。意識が混濁し、興奮状態になったり、幻覚が見えたりするなどさまざまな症状が出る病態です。

私の腕の中で……ついに訪れた臨終の瞬間

 医師が来て、痛み止めの針を入れてもらい、ヘルパーさんにいつも通りに体を綺麗にしてもらいましたが、その時の夫はもうずっとゼエゼエと痰の絡んだ苦しそうな呼吸をしていました。

 医師はとりあえず様子を見ようということで帰っていきましたが、午後に訪問看護師の方が心配して家に来てくれることに。吸引しても吸引してもゼエゼエと苦しそうな呼吸をする夫に、看護師さんは「疲れちゃうから息だけでもなんとか……」といろいろな対処をしてくれたのですが、ふと急に夫の表情が変わりました。

「あれ?」と私が言うと、看護師さんが「あ、これはまずいかな……」と言い、夫の名前を呼びました。しかし、一瞬目を開いたものの、そのまますうっと意識が飛んだようになり、寝ているのに体だけで全力で呼吸をしているような動きをするようになったのです。
旅立つ夫にかけた最後の言葉

 看護師さんは「疲れちゃったんだね……」というと、私に夫を預け、静かに床に正座しました。私は、ついに夫は旅立つんだと感じ、何か素敵なことを言おうかと考えましたが何も思い浮かばず……。出た言葉は「もう無理しなくていいよ」でした。

 今までいっぱい苦しい治療や痛みに耐え、私に温かい愛をくれた夫に、「ありがとう」とか「愛してる」とか、ドラマのようなセリフは言えませんでした。ただひたすら、もう楽になってほしいという気持ちでいっぱいだったのです。

 ついに体の動きが弱くなり、呼吸をしなくなった夫。私の腕の中で、息を引き取りました。

 その日は2月だというのに温かく穏やかな日で、夫の体にはやわらかな日差しが降り注いでいました。ずっとずっと「いつ亡くなるんだろう」と思い続けていた毎日でしたが「今日だったんだね……お疲れ様でした」と声を掛けながら、看護師さんとともに夫をベッドにそっと寝かせ、手を合わせました。

 すると、昨夜握ってくれたあの強い感触がふと手によみがえってきました。あのときどんなに苦しい約束をさせてしまったのか……。そう思うと、とてつもなく切ない気持ちがこみ上げます。

 骨ばったあの手の感触は、私にとって一生忘れられないものになりました。


新しい人生の幕が開かれたような感覚

 緩和ケアに入ってからは「早く死にたい」と言っていた夫でしたが、まだ61歳。どんなに無念だっただろうと思うと、涙が止まりませんでした。

 ですが、亡くなった後の穏やかな表情を見ると、ようやく痛みから解放されたのだとも感じられて、無事に送れてよかったという安堵の思いもあり、なんだかとても複雑な気持ちだったのを覚えています。

 そして約3年の壮絶な闘病生活が終わり、肩の荷が下りたという思いも正直あったと思います。温かな日差しを受けて安らかに眠る夫を見ながら、私は「これから夫のいない世界で生きるんだな」と、新しい人生の幕が開かれたような不思議な感覚を覚えていました。

 次回は葬儀までの準備やエピソードなど、5人の子どもがいた夫のイレギュラーな葬儀について、つづってみたいと思います。

―シリーズ「私と夫の1063日」―

<文/関由佳>

【関由佳】
筆跡アナリストで心理カウンセラー、カラーセラピストの資格も持つ。

芸能人の筆跡分析のコラムを執筆し、『村上マヨネーズのツッコませて頂きます!』(関西テレビ)などのテレビ出演も。

夫との死別経験から、現在グリーフ専門士の資格を習得中。

Twitter/ブログ



当事者 | 2日前

いつまで日本は末期の患者さんが苦痛に耐えながら死ぬ選択肢しかできないんだろうね
こういう記事を見るたび尊厳死、安楽死が真っ先に思い浮かびいたたまれない気持ちになる
この旦那さんもそれが可能だったら違った最期を看取ってもらえただろうに

本人の意思で苦しんでも生きたいというなら別だけど、調査では9割以上は延命は希望してない
非人道的な病苦を長引かせる拷問はもうやめよう

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cle***** |2日前

私も尊厳死、安楽死を尊重します。
私の父は数年前に長く患った心筋梗塞が原因で他界しました。
その時も本人の希望で延命処置はしませんでした。
私も将来痛みを長く感じながら死ぬのであれば安楽死を選びたいです。

最後に苦しむために今頑張って生きてるんじゃないって思う。
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per***** |2日前

私も、60歳で、夫を見送りました。癌の末期でしたが、最後は主治医と相談して、ほとんど、眠っている状態でしたが、苦しみはなかったです。そのかわり、コンタクトは最後まで、取れませんでした。本人も望んでいたし、最後は家族の決断でした。苦しまない緩和ケアの方法はあります。
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sgw***** |2日前

私も安楽死が認められれば楽だろうな、とは思いますが、やはり記事を読むとそれもどうなんだろうな、と。生きたい、楽になりたいの繰り返しを、いつどうやって、どのタイミングで判断するのか。難しいな。
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妖怪ウオッチGO |2日前

難しいですよね…
私の父は昔だった事もあり、告知もせず、9ヶ月で亡くなりました。始終苦しそうで、緩和ケア(要はモルヒネ)になったとたん、終日寝たきり、会話も出来ず、いきなり喋らぬ人になりました、そのまま、会話も出来ないまま亡くなり、何も分からなかった家族は初めてモルヒネ使うってこう言う事だったのだ…と。
主人の父は、最近でしたので、当たり前に告知、手術も抗がん剤もトライ、然しながら病に勝てず、後半は対症療法のみ、どんどん痩せていって、骸骨のような外観…。兵糧攻めかと思う位。
両親とも身近で看病しましたが、どっちも悲惨でした。そして、どうしてあげれば良かったのか未だに分からず苦しい気持ちになります。
私が癌になったとしても、安楽死の選択というのはとても難しい事だと思います。
眠るように死ぬ。と言っても、それを誰かにしてもらわなければならないからです。
側で見守る人も辛いとわかるので…
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nnm***** |2日前

「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」の橋田寿賀子さん、先月に文化勲章を受章されました。
そんな橋田さんは「安楽死論者」で、私もその著書を拝読した一人です。
橋田さんの話を聞くような読み易い本なので、ぜひ買う事を薦めます。

なぜなら、ヤフコメで「安楽死賛成」と書くより、本の売り上げ部数という「公的証拠」のほうが、将来の安楽死実現につながります。

相当先の話かも知れませんが、私のような一般人が出来る数少ないことだと思います。政治活動なんて出来ないですし。
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sas***** |2日前

本人が安楽死を選んだかどうかなんて分からないじゃない?「早く死にたい」だって、どういう意味で言ったのかは分からない。
もうボロボロの体で、それでも妻のために、妻の誕生日まではと必死に手を握り返した人掴まえて「安楽死が可能だったら違った最期だったかもね」って。
議論はされていいと思うけど、でも本人が「安楽死を」と言ってないのに「この人にも安楽死があったら…」と言うのは、あまり気持ちの良いものじゃない。
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ats***** |2日前

私も同じです。
祖母はすごく我慢強く痛みに強い人でした。4人子供がいますが出産を痛いと思った事ないと言うぐらい。なので初孫が産まれるときに陣痛で苦しんで叫ぶ叔母を見て、陣痛で苦しんでるのを見たことない祖父が怯えて震えてたらしいです。

それぐらい我慢強い祖母が、度重なる再発による癌の痛みで泣いているのを見て、自分だったら…と考えました。私なら絶対に尊厳死させて欲しいです。なぜ自分で安らかに眠る選択も出来ないのだろう。健康なのに自殺するのとは違う。まだ尊厳死を認めてる国は少ないから、日本なんてかなり遅そう…日本は全てにおいて慎重すぎます。確かにそれが良い時もあるんだけど!苦しんでる人の気持ちになって欲しい。
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vam***** |1日前

安楽死や尊厳死を望んでいだけど、いざとなると少しでも長く生きたいと苦痛を伴う治療を選択する人も多いと聞きました。

年齢や環境にもよると思います。まだ若くて子供が小さかったりしたら、生にしがみつくと思う。
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mao***** |2日前

賛成です。苦渋の決断としてガンの積極的な治療を止めることも安楽死の一部と言えるでしょう。最後のキリのところだけに焦点を当てて死刑執行にたとえるのはおかしいと思う。
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nor***** |2日前

仮に安楽死が制度化されても、慢性的な持病で重度の障害者になるような場合だけで、がんになったからはい安楽死、とはならない気がする
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500MM | 2日前

知人は、
「最後はモルヒネとかで苦痛を感じないようにして
 眠るようにさよならするのがいい」
と言ってます。

日本は無痛分娩に無理解とか、
痛みに対して考え方が遅れているのではないでしょうか?

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evj***** |2日前

モルヒネ投与で亡くなる瞬間見ましたが
段々呼吸や心拍数が少なくなりそのまま全く苦しまず亡くなりました
表情も穏やかで眠っているだけのようでした
私も苦痛が伴う病気になったら最後はあんな死に方がいいです
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wlu***** |2日前

残念ながらモルヒネは万能ではありません。
痛み緩和に使用しても、暫くするとまた痛みが増大しますし、使うほどに鎮痛効果が薄くなります。
あくまで緩和ケアなので、大量に使用することはできません。必要以上に投与すれば死んでしまうこともありますから、病院ではそこまでできません。
緩和ケアでできるのは、緩やかな死。
痛みを緩和しながら、栄養点滴や心肺蘇生などの延命措置は講じずに、心臓が止まるのを待つことだけです。
癌患者は大体2週間から1か月くらいで亡くなります。
その間、痛みに苦しみながら、幻覚にうなされながら衰弱することになります。
もう助からないことを想えば、もっと早く楽にしてあげる方法も必要だと思えますね。
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ume***** |2日前

体質もあるのかな…うちの母はモルヒネを使っても苦しそうでした。日々量は増えていったけれど苦しさは変わらなかったようで最後まで苦しそうでした。

肺がんだったからかもしれません。痛みはそこまで訴えておらず、常に溺れている様に苦しいと言って居ました。モルヒネで意識を飛ばしても発作が起きると目玉が飛び出そうなくらいに苦しんで起きていました。
本当に最期、顎呼吸が始まるまでずっと。

モルヒネは万能ではないです。

せん妄で、早くボタンを押してくれ、そうしたら死ねるんでしょ?と何回言われたか。
安楽死のボタンがある、という夢を見たらしいです。

苦しんでも助からないとわかっているのならば安楽死も必要なのではないかと私も思います。
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sat***** |2日前

癌患者のモルヒネで緩和と無痛分娩はまた違ったものだとは思いますが、日本はなんとなくリスクばっかりを考えすぎてる気がする。無痛分娩もまだまだ産婦人科ではやらない病院はある。まぁ、リスクあるからあまり前かもしれないけど。でも無痛分娩がある病院がまだあるからいいけど、安楽死に関しては日本はまだ認めてないからどをこを探してもみつからない。末期で苦しまず逝きたい人にとって逃げ場がない。
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d¥e ver.2019 |2日前

まあ「お産は痛くて当たり前」「腹を痛めて生んだ子でなければ愛せない」という価値観の押し付けは良くない。

ただ、無痛分娩にもリスクはあるし、安楽死・尊厳死とも別の問題。
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lkr***** |2日前

遅れてはいません。ただ、研究チームが研究していた結果を論文の発表で聞きましたが、最期の全身の転移に対する疼痛緩和は、非常に薬が効きにくく、鍵のかかる場所に保管する薬を出した回数も薬剤部に報告が要り、時間ごとの投与とその結果を論文にまとめてありましたが、全身痛に対しては、看取る家族との関係もあり、強い薬が使われれば使われるほど、それまでの本人の脳に干渉する部分が出てくるため、正気を保っているのも難しいのですよね。
思ってもいない事を口走る事も多々あるのです。
義母が脳への転移で、思ってもいない事を口走る事は多かったので。治療はしていませんでした。末期でしたので。
それ以上は、疼痛を取り除くためと殺人になる事をさせるとしたら、誰がするんでしょうか?
医療関係者に手を下させて、罪を負わせて、他の人は平気でいるのは私は抵抗があります。
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t***** |2日前

日本人は辛抱して、我慢してなんぼのところがあるから… 私は無痛分娩でしたけど、ほんと子どもは可愛いです。思春期になり難しいお年頃ですが、それでも可愛いですよ。これだけ可愛ければ十分です。こればかりは、個人の選択ではないですか?
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mey***** |2日前

六の宮の姫君をお読みください。日本人の死生観は多分これだと思います。

私はどれだけ痛いのかものすごく興味があったので普通分娩でした。

死よりも辛いもの、それは死に向かう為の痛み、苦しみなんでしょうね。
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ixa***** |1日前

無痛分娩はメリットも大きい。記事に関係ないので詳しくは説明しませんが、妻は無痛分娩じゃなかったら死んでいたかもしれません。
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qwer |2日前

無痛分娩のことあまりご存知ないのでしょうか。

腰椎麻酔と陣痛促進剤という2つのリスクがあるのですよ。どちらもリスクがあり、後遺症が残ってしまった人がたくさんいます。

この場合のモルヒネ使用の是非とは全く別の話だと思います。
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wlu***** | 2日前

私の父も60代で肺がんで亡くなりました。
緩和ケアにも2週間お世話になりましたが、毎晩毎晩痛みに苦しんで、その都度背中を擦って氷をしゃぶらせてあげました。
私もただただ苦しさから解放してあげたかったです。
だから、生きている父に最後に言った言葉は、『お疲れ様』でしたね。

終末期の癌は苦痛との戦いしかありません。
安らかに送ってあげられなかったのではないかと、そればかりが今でも思い出されます。

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TT | 2日前

母がガンで亡くなったのは、私が20代の時でした。
入院中毎日一緒にいたのに、旅立つ時は私が看護で疲れ果て、今夜だけ家で寝かせてね、また明日から一緒にいるからね、と自宅に帰った日の朝方でした。
後悔、後悔しかありません。
何故あんなに寂しがり屋だった母、あんなに愛してくれた母を独りで逝かせてしまったのかと。
今までありがとう、沢山愛してくれてありがとう、がんばったね、もう休んでいいんだよ、痛かったね、辛かったね、頑張ったね、大好きだよ。
伝えようと思っていた言葉、ひとつも伝えられること、できませんでした。
この方の旦那さま、幸せな最期だったと思います。
最愛の奥さまに看取られて…。
本当に看護は過酷ですよね。
お疲れ様でした。

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len***** | 2日前

こういう病で亡くなる時、
なんであんなに苦しいのでしょうか。
母も大変辛そうでした。

自分はどんな風に最後を迎えるのか、
考えると少し怖いです。

家族と離れる事が一番怖いのかも知れません。

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tos***** | 2日前

突然死より、がんで亡くなるのが一番良いよという人がいますが、全くのウソです。ほとんどがこのケースと同じく、耐え難い痛みとの終りが見えない戦いです。 医者も麻薬を処方しますが、傍で見ていると本当にこの世の地獄です。

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*.* | 2日前

胃がんだった母を看取った時と全く同じ気持ち。
痩せてガリガリになった身体で痛みに耐える姿の母に「頑張って生きて」なんて言えなかったし、息を引き取った後の穏やかな表情を見て本当に「頑張ったねお疲れさま」としか言えなかった。数年経っても悲しいけど、痛み苦しみから解放されて安らかに眠って欲しい。

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kam***** | 2日前

これね、長い間看病していた人や関わった人にしか分からない話で、亡くなった瞬間に色々な意味でほっとするのです。

看病の苦労もいつかは終わりが来ると分かっていても、それを待っている自分の気持ちは複雑で、経験した人でないと分からないと思います。

分からない人は患者の苦痛の話のほうに気が行ってしまいますが、これは看病して最後を看取った奥さんの心が主役の話です。

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***** | 2日前

母緒やが67歳の若さで子宮頸がんで亡くなりました。亡くなる少し前に母親がカレンダーに「早く楽になりたい」と!一言書いてありました。あの言葉は本音なんだと思います。

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hht***** | 2日前

どんな病気でも看護されてる方のご苦労は計り知れないものがあります。
私は中3の時43歳で父が肺ガンで亡くなりました。母は私に父の日々変わっていく姿を見せたくなかったのかあまり病院にも連れて行ってもらえませんでした。でも病は日々父を壊して行ったのか頭などあちらこちらに転移し時々一時帰宅する父の時間の感覚さえ無くなって行きました。朝から晩まで同じ格好で同じ場所にいたり…そうなるまでの過程を見て来てないが為に違和感しか感じなかった記憶があります。
私も今父と同じ年齢になり世の中の皆さんの経験など見たり聞いたりして自分の過去を思い出したのと同時に改めて看護側の辛さは計り知れないものがあると思いました。

返信0





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