陸軍愚将の牟田口廉也はどのようにして生まれたのか?自分だけ帰国しのうのうと生きた鬼畜

2018年11月21日 | 社畜奴隷の二ホン、、世界で稀な勤勉な馬ヵ
nuk***** | 52分前
牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

というが、立案、実行したのは彼だし
普通に退役して罰せられず恩給もらい
議員にもなったんじゃないかな?


key***** | 1時間前
行き詰まって退却した部隊長を杖で滅多打ちしたり、自分の葬儀の参列者に自己がいかに正しかったかと言う書面を配らせたりした。
愚将だけでなく、クズです!


kur***** | 9時間前
佐藤師団長が独断で命からがら撤退して鬼の形相で牟田口を斬ろうとしたのも良くわかるってもんさ。馬鹿共のお陰で現場の人間が苦しむのは今も同じだ。私は独断で撤退命令を出した佐藤師団長に敬意を表する。




shu***** | 10時間前
作戦の一翼を担う師団長として参加した佐藤幸徳中将(独断で師団を撤退させて解任された)は作戦後「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」という言葉を残した。

こんなばかげた作戦を承認した上層部の責任は重いが、牟田口がスケープゴートだったというのには同意できない。
作戦発案者で現地(後方だが)で指揮した牟田口の責任が一番重いのは間違いない。

一作戦で3万人もの戦死者。 戦死と簡単に言うがそのほとんどは直接戦闘による死ではなく餓死、疫病死だ。 インパール作戦に限らず退却時には弱って動けない兵は置き去り、見捨てられた。
生き残るために動ける兵が弱った兵から略奪した。 さらには人肉をむさぼった。

牟田口を筆頭に軍上層部の連中は万死に値する。






yut***** | 4時間前
陸軍って無能な働き者の巣窟なんか?
他にも辻政信、服部卓四郎も最悪。
ロシアとモンゴル敵にまわして何千人と言う
部下を見殺しにした。

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lit***** | 4時間前
東條、河辺、牟田口の三馬鹿トリオのせいだろう
日本の憲法制度の欠陥がそうさせた
企業の中にもこういう連中がいる
そいつらを主流にさせないことが経営陣の仕事
陸軍にも石原莞爾のようにまともな戦略をもったひともいれば
根本博のようなまともな人間もいる
そういう人達が軍の主流になるようにしなければならないんだよ

軍部は天皇の名前を悪用し
天皇が口出しすると日本は立憲制だからと意見を封じるという
チグハグなことをやっていた。




インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
8/17(金) 11:00配信 現代ビジネス
インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
写真:現代ビジネス
不祥事の「責任」は誰にあるのか?
 昨年から今年にかけて、日本では組織内で何らかの不祥事が起きたとき、誰がどのように責任を取るのかという問題が注目を集めた。

 そのひとつが、いわゆる森友学園問題である。これは、学校法人森友学園が小学校新設に際し、不当に安い価格で国有地を手に入れたことに端を発する。政界を巻き込む大スキャンダルとなり、最終的に問題に関わっていた財務省側の局長クラスの幹部らが懲戒処分を受けた。

 もうひとつ、私たちの記憶に新しいのが、日本大学アメフト部悪質タックル問題である。今年5月6日に開かれたアメフトの試合で、日大選手が故意に相手選手にタックルし負傷させた。その後、日大選手にタックルするよう命じた監督とコーチからが責任を取って辞任した。

 しかし、どちらの問題も責任者の処罰だけで終わらせてよいのかという声が今でも根強い。

 組織の誰かが不祥事の責任を取って終幕を図るというやり方は、今に始まった話ではない。過去の事例をひとつあげる。

 筆者は、今年7月に『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を上梓した。そのなかでは、主人公である陸軍軍人の牟田口廉也中将と、彼の上司にあたる河辺正三(まさかず)大将の関係に着目した。

 このふたりは、アジア太平洋戦争期の日本陸軍のなかでも、「最悪のコンビ」として一部で評されている。

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
牟田口廉也(Photo by gettyimages)
「最悪のコンビ」の誕生
 牟田口廉也は、1888年佐賀県に生まれた。陸軍大学を卒業すると、陸軍参謀本部に入り、その後、近衛歩兵連隊長、陸軍省軍務局員、参謀本部庶務課長などを務め、陸軍エリート将校として順調に出世の階段を登った。

 しかし、1936年に東京で陸軍若手将校の軍事クーデターである二・二六事件が起きると、牟田口は、クーデターの支持派とみなされ、陸軍中央から中国北京に駐屯していた前線部隊の連隊長に「左遷」された。

 その前線部隊で牟田口の上官となったのが河辺正三だった。

 河辺は、1886年富山県生まれ。牟田口の上官とはいえ、ふたりの年の差はわずか2歳であった。河辺は陸大卒業後、参謀本部や連隊長職を歴任し、牟田口と同じ1936年、支那駐屯軍北京旅団長に任じられた。

 牟田口は強気で勇猛果敢だったのに対し、河辺は大人しく学究肌と、対照的な性格だった。実戦経験のなかった牟田口は、河辺から連隊長としてのイロハを学び、河辺も慕ってくる牟田口に目をかけた。

 ふたりがコンビとなってからほどなくの1937年7月、北京近郊で盧溝橋事件が発生した。

 日中戦争の火蓋を切ったこの戦いで、牟田口は北京を留守にしていた河辺に代わって、事件処理の陣頭指揮をとった。しかし、事件の穏便な解決を望んでいた河辺に対し、牟田口は実力行使で臨み、事態を悪化させた。

 本来、上官であるなら、部下が意に沿わない行動をしたら叱責するなどして命令に従わせればよい。

 しかし、牟田口のもとに現れた河辺は、叱責することなく「一言も発さない、一言も発さないで口を結んで、「余計なことをした」と言わんばかりの表情」をしただけだった。それはなぜか。

 河辺は牟田口がすでに前線に発した命令を撤回することは、「如何に見解の相違とは謂え、高級指揮官として採るべき策ではなかった」と考えたからだった。

 これは、今まさに戦闘が繰り広げられている前線を混乱させたくないとする河辺の高度な判断であったといえる。しかし、結果的に戦火が拡大したことを考えると、日本軍の現地責任者として河辺の判断が正しかったかどうかは疑問符をつけざるを得ない。

牟田口の「悔恨」が招いた無謀
 強硬姿勢を貫き独走する牟田口と、部下を抑えることなく放任した上官の河辺。このいびつな関係のふたりが、再びコンビとして相まみえた場面が、日本軍の稀代の「愚策」とされるインパール作戦だった。

 インパール作戦とは、アジア太平洋戦争後期の1944年3月、ミャンマー(当時はビルマ)にまで支配を広げていた日本軍が、隣国インドの北東部にある都市インパールを攻略するために始めた戦いをいう。このとき、河辺は現地日本軍トップのビルマ方面軍司令官、牟田口がその直属の第十五軍司令官を務めた。

 ミャンマーとインドの国境は、切り立った山々の連なる密林地帯で、そのなかを進軍することは容易でなかった。それにもかかわらず、なぜ日本軍はインパールを攻めようとしたのか。

 その理由のひとつが、インドから中国へつながる援蔣ルートを遮断することだった。

 援蔣ルートとは、日本と戦いを続ける中国国民政府(蔣介石政権)への米英からの物資支援のことをいう。日本軍は日中戦争が長期化した原因に援蔣ルートの存在が大きいとみなし、複数あったルートを次々と遮断していった。

 しかし、米英はインドから飛行機でヒマラヤ山脈を越えて中国昆明まで空輸するルートを新たに開き、中国への支援を続けた。日本軍はインパールを支配下に入れることで、インドからの援蔣ルートを完全に抑え込もうとした。

 また、インパールを攻略するもうひとつの理由として、いわゆる対印施策(印はインドのこと)の実現があった。対印施策とは、インド独立派のスバス・チャンドラ・ボースらを支援して、インドをイギリスの植民地から「解放」させる方策をいう。これは当時日本政府首相を兼務していた東条英機陸相の肝いりで進められた。

 あるとき、ビルマ方面軍高級参謀の片倉衷(ただし)大佐は、対印施策について河辺から次のように告げられた。

 「自分が着任前、東条首相と会談したが、その節、ビルマ政策は首相として対インド政策の一環として関心があり、また大東亜戦全局の戦局指導上、ビルマ方面に期待すとの話合があり、私、河辺も対印施策に関心がある」

 東条の意を受けた河辺は、ビルマ方面軍司令官として対印施策の実現を目指した。そして、東条と河辺は、インパール作戦は対印施策のきっかけをつかむものとして期待した。

 もともと、インド方面への進攻は、「二十一号作戦」という名で計画された。この作戦について、はじめ意見を問われた牟田口は、作戦の実行が困難であるとして消極的な考えを示した。

 しかし、これまで強気な態度を見せ続けた牟田口は、このとき自分が初めて弱気な一面を表してしまったことを悔やみ、何としてでも作戦を実現させようと心に誓った。そして、意地でもインドに攻め込むという牟田口の執念が、無謀なインパール作戦の計画が立てられる発端となった。


河辺は唯一、作戦を支持した
 作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。

 そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。

 この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。

 この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

 1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

 牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
写真:現代ビジネス
あなたも「牟田口」にされるかもしれない
 戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。

 インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。

 しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

 河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

 昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

 しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。

 愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。

 いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。

広中 一成



sho***** | 22時間前
見栄とか面子が入ると大概失敗するね。
牟田口とかもお勉強はできたのかも知れないけど、自我が強い性格だったんだろう。3万人も無駄死にさせといて死ぬ勇気もなかったしね。

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eag***** | 21時間前
陸軍だったら

牟田口廉也
辻政信
木村兵太郎

の指揮下は絶対に嫌だな。
よく後ろから撃たれなかったなと思う。

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lak***** | 22時間前
辻政信と服部卓四郎のコンビもひどいよね。共通しているのは戦犯として裁かれなかったこと。

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ado***** | 21時間前
インパール
まだまだ知らない人、いっぱい居ると思う
ドラマとか映画でキチンと残して欲しい

BSの番組では伝えきれてないと思う

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dig***** | 21時間前
トップが責任取らない背景がわかりやすいです。政治家が流れを継いでますね。庶民がいつも痛い目みます。

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sat***** | 21時間前
山本長官と南雲中将の関係とか、この手の話はたくさんあるかな。
ただ、インパール作戦はハナから勝算もないので、牟田口さんの最後の花道の意味合いで作戦を承認したんじゃなかったっけ?こんな理由で軍を動かすなんて、兵士はたまったもんじゃない。
誰もが反対してるのに、鶴の一声で合理的常識的な判断も吹っ飛ぶ。そういった話がインパール作戦の問題。

man***** | 7時間前
確かに、牟田口をスケープゴートにし餓死者続出のインパール作戦について思考を終わらせることは、間違い。

その上の河辺、東条の責任も追及は正しいが、この兵站無視のあの戦争の全体像の追求も行うべし。

即ち、あの戦争の210万人の兵士の死者のうち、140万人が餓死者、そしてこの兵站(食料、武器の補給ー戦争遂行のイロハのイの字)無視の作戦を立てたのが、天皇がトップにいた大本営だ!

天皇こそが、真のインパール作戦をはじめとする最高責任者、戦後最もその責任を追及されなければならないはず。
これについては、「日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた 鬼塚英昭 U-Tube」で明らかに。

同じように日大の事件も、その上の最高責任者の田中理事長の責任逃れー会見を一切開かないーまるで昭和天皇ノごとし、監督などがスケープゴート。

「内田前監督を守る日本大学のドのン闇社会・・・リテラ」検索へ。


無名の一般人 | 7時間前
7万の将兵を死に追いやっておいて
自決する潔さも無い。

大本営は、ノモンハン以降、
作戦の責任の所在を
明確にすることもない。

東芝の不正会計とか、日産の検査飛ばしなど
一連の不正で法的責任を取らないのは
日本組織の典型例な例。

真の悪人は表に出てこない、黙認主義の
責任ある立場の人なのかもしれない。


reg***** | 10時間前
牟田口レンヤはクズ!
日本陸軍もクズ!

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返信0
日本の終末期に向き合おう! | 10時間前
名前は格好良いが犬死に作戦。
無駄に日本兵が死んだだけ。
歴史を勉強すれば後にも先にも
無い愚策。今の日本人は絶対に
やらない。(^-^)

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kar***** | 10時間前
これを現代の政治にこじ付ける辺りが浅い人間の書く記事、本という感じが溢れ出ている。

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hir***** | 10時間前
いまだに、あほのトップが君臨してるなぁ。
ボクシングは朝鮮人やけど

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NHK受信料委託業者はヤクザ | 10時間前
神風特攻隊と同様、愚策。食料、武器は
現地調達で村を襲って中国からインドを
目指した。補給も無く10万人が前進
あるのみ。死体が道の両脇に積み上がり
結局、イギリス軍への攻撃は出来なかった。
人類史上最悪の作戦。馬鹿なA級戦犯の過ち。
┐(´д`)┌




kur***** | 11時間前
特殊な人間ではない。
会社で、サービス残業をせざる負えない雰囲気を作り出す、猛烈社員から上司になった人間は、戦時中なら玉砕指揮官になるのである。

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tut***** | 11時間前
日本人は撤退することを知らない。イケイケドンドンで突っ走る。おまけに補給の知識もないからたいていの戦争で負ける。
その伝統は戦後もしっかり受け継がれている。戦略もなく市場調査もしないで企業が出たとこ勝負で外国に進出する。そして膨大な赤字を抱えて逃げ帰る。まことに無様で、こういうのを撤退とは言わない。日本人は昔からかようにお粗末なのである。

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ac***** | 11時間前
>この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

こういうのが多すぎる。
誰もが反対したとかいうけど、どうして誰も止めなかったんだろう?
自分の範疇じゃないから他人事だったということ?
無能な人たちの誤った判断のせいで、どれだけの命が失われたか。
本当に腹立たしい。

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ぽんぽこ | 11時間前
帝国陸軍の所謂参謀たちが無能以前に作戦指揮系統すら把握せずに戦禍を拡大していった結果が敗戦でしかない。
辻のような理論と理想を踏み間違えた男を生み出したことが帝国の問題だろう。

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djk***** | 11時間前
私の祖父も、インパール作戦で亡くなった。こいつらを末代まで怨みたい気持ちだ。

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ii……… | 11時間前
憲政史上最悪のコンビが今の日本にもいますね。

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atamikousuke2 | 11時間前
会社でもあるね

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lil***** | 11時間前
日本人の「もったいない」「贅沢だ」「我慢しろ」が兵站を軽視するという悪弊に繋がっているな。
常の美徳が反対に作用する。

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井ヶ田代作 | 11時間前
安倍総理も牟田口だよ。勇ましい事は言うが大した事はない。

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