牟田口墓を暴き インパールに捨ててこい それが犬死させられた 多くの日本人将兵の 追悼となるだろ

2022年05月09日 | **憂国の志士たち







牟田口墓を暴き インパールに捨ててこい それが犬死させられた 多くの日本人将兵の 追悼となるだろ



こいつの牟田口墓を暴き インパールに捨ててこい それが犬死させられた 多くの日本人将兵の 追悼となるだろう。
2020年10月14日 | 海外移住で地獄に堕ちたはなし
古関裕而が「史上最悪の作戦」のビルマで体験した恐怖【今週のエール豆知識】


日刊ゲンダイDIGITAL

作曲家の古関裕而(C)共同通信社

【今週の「エール」豆知識】

「エール」第17週では、いったんは召集令状が届いた古山裕一(窪田正孝)だったが、作曲活動での戦争への貢献が認められ、召集解除となる。だが、古山が戦地に行くことを免れたわけではなかった。慰問要員に選ばれたのである。10月12日からの第18週で、古山は激戦地ビルマ(現ミヤンマー)を訪れることになる。

 古山のモデル・古関裕而が特別報道班員としてビルマに派遣されたのは終戦前年の1944年4月。現地では、同年1月からインパール作戦が始まっていた。参加した日本兵の大半が命を落とし、のちに「史上最悪の作戦」とも言われた。

 戦況は悪化の一途をたどっていたが、古関にはまったく伝えられていなかった。逆に、作戦はまもなく完遂するから、急いで現地に行くようにと、せかされたのである。古関は自伝「鐘よ鳴り響け」の中で「私は行きたくなかった」と明かしている。福島の母が病床にあるため、辞退したいと申し出たのだ。しかし、軍部はそれを許さなかった。軍部側は母の病状をすでに調べていて、それほど重態でもなさそうだと、外堀を埋めてしまった。古関はビルマ行きを承知するしかなかった。

 特別報道班員に選ばれたのは古関のほかに、文学界から作家の火野葦平、美術界から洋画家の向井潤吉。火野はすでに日中戦争に応召していて、その体験をもとに小説「麦と兵隊」を発表。ベストセラー作家になっていた。その火野ですら戦地の惨状をまったく知らず、今からだとインパールは陥落して入城は間に合わないかもしれないと聞かされていたのである。

 ところが、ビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)に到着すると、特別報道班員たちの楽観ムードはすぐに吹き飛ぶ。参謀からインパール陥落はまだまだだと聞かされ、そこで初めて日本軍の苦戦を知る。

 火野と向井は一足先に現地入りして、古関は陥落後にあとを追いかけることになった。出発する際、火野は古関に「ビルマ派遣軍の歌」の歌詞原稿を託した。ちょうどそのころ、ラングーンではペストが発生。恐怖におびえながらも、古関はなんとか曲を書き上げた。

■ペストにおびえながら曲を書き上げた古関

 一方、前線に近づいた火野らはそのありさまを見聞きして愕然とする。制空権をとっくに失っていた日本軍は食料の調達すらままならず、餓死者が続出していたのだ。火野が残した手帳には「前線にダイナマイトを100キロ送ると50キロしかないと報告がくる。兵隊が食うのである」とある。ダイナマイトの原料のニトログリセリンは口に含むと甘い味がするのだ。火野はこうも記している。

「牟田口閣下は毎日粥を二度食っては毎日釣りをしている」

 牟田口閣下とはインパール作戦を指揮した牟田口廉也陸軍中将。ひもじさで次々に倒れていく兵隊たちを横目に、自身はしっかり食事をとっていた。

 戦後、火野は戦犯作家として激しく攻撃を受け、公職追放処分も受けている。それが原因というわけではないが、1960年53歳の誕生日の前日、自ら命を絶っている。

 火野と違って、古関が戦犯としてヤリ玉に挙げられることはほとんどなかった。しかし、自分の曲で鼓舞された若者たちを戦地に向かわせたという思いは消えず、自責の念にいつまでも苦しめられたのである。

(田中幾太郎/ジャーナリスト)



mas***** | 4日前

ガタルカナルはまだ食料を輸送しょうとして米軍に阻止された作戦だったが、インパールは初めから輸送の努力を怠った作戦だった。これだけの大敗なのに司令官たちは一時的に更迭されても蘇って栄転したりしている。日本は人事で負けたようなものだ

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BKM |4日前

groさん

本当にそう思います。戦勝国の戦争犯罪裁判はおかしすぎた。牟田口、栗田、あと連合艦隊司令部の連中も裁かれるべきだったと思います。
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白蓮 |4日前

インパール作戦のデタラメぶりは当時の軍部のレベルの低さを表しています。もちろん牟田口ほど酷い指揮官ばかりじゃなかったのでしょうが、牟田口もその上司のビルマ方面軍司令官河辺正三中将も処罰されず、河辺に至っては後に大将に昇級してますからね。無謀な作戦の犠牲になって餓死、戦病死した兵士には耐えられないでしょうね。
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tu2***** |4日前

NHKの特集でしかインパール作戦の悲惨さ伝えられませんね。一番の責任者が、部下のせいにして自分はのうのうと生きて、戦後も責任逃れをしていました。

でも、これが戦争の愚かさですよね。多くの兵隊を犠牲にして、上の人間は腹を切らない。

今も通底する話しです。
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uzb***** |4日前

牟田口の発案した「ジンギスカン作戦」により、ビルマの農業生産量は激減し、生産量の激減はビルマ中に深刻な飢餓をもたらした。
そして「インパール作戦」の失敗によりビルマ国軍は日本から離反した。
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gro***** |4日前

牟田口 栗田
戦後無傷で尚且つ畳の上で終末を迎えたのがオカシイ。
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・・・・ |4日前

帝軍自体が責任を取る体質になって無かったてのはあるが
牟田口は際立って最悪だな
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gmc***** |4日前

本当の戦犯は裁かれなかった。
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bun***** |17時間前

有能かどうかよりイエスマンで固めるとこうなっちゃう。
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少しあたま冷やそうか? |1時間前

前内閣を支えた官僚たちも同じようだな
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jtjmwpg |1日前

硫黄島にでも志願していけばいいのにね
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fnb***** | 4日前

インパール作戦 これ程無能なトップがいると兵隊さんが無惨な死に方をする、しかも日本は無能なトップ今では官僚閣僚を更迭しないやり方は、今も同じ。これでは絶対に他国勝てない。昔から、こわいのは、有能な敵では無く、無能な味方だと。

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chi***** |3日前

>こわいのは、有能な敵では無く、無能な味方だと。
激しく同意。

牟田口廉也をなじった有名な言葉として「馬鹿な大将、敵より怖い」というのがあります。
野球界でも、江本孟紀さんが言った「ベンチがアホやから野球でけへん。」とか、今は亡きノムさんが遺した「組織はトップの器で決まる。」と言う言葉がありますが、この二つの言葉は牟田口廉也中将をなじった言葉に通ずるものがあります。
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ish***** |9時間前

牟田口は国内からも連合国側からも結局裁かれず普通に寿命まで生きるんだよね。
なんとまあ無責任な指揮官だこと。
BC級裁判で嫌疑不十分になったのはビルマは途中まで味方だったから(今の最高指導者の父アウンサン将軍が日本を裏切った)処罰感情が日本に対して少なく、実際、独立できたのを日本に感謝してる人もいるくらいだから、山下大将が処刑されたフィリピンとはだいぶ事情が違ったことも影響してると思う。
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De |3日前

今の自民党政府と何ら変わりません。
自ら律することなく、嘘をついたら公文書改竄で責任取らず、
財源がなければ税金、医療負担を上げる。
兵站を怠り惨敗しても何ら責任を取らせないところはそっくりです。
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bro***** |3日前

時代が変わっても人間は同じことを繰り返す。2000年たっても同じだしましてや75年前などつい昨日のことだ。
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ララ |4日前

ヒトラーからアメリカに逃げたアインシュタイン、学術会議を目の敵にする菅からやがて、日本の優秀な研究者は、欧米の大学に行くかもしれない。
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kok***** |4日前

>こわいのは、有能な敵では無く、無能な味方だと。
激しく同意。
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ytr***** |2日前

コロナとの戦いにマスク1枚送った人もいたよなぁ(苦笑)
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sha***** |4日前

今の自民党のことですか?それならかなり有能です。旧民主党の脱官僚と息巻いて、最終官僚の言いなりで消費税増税決めて、そのまま自民党に丸投げして下野しました。
何と比べて無能なんでしょうか?
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少しあたま冷やそうか? |1時間前

自民擁護のアホがある
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iin***** |4日前

他人を批判するだけなら猿でもできる。あなたが何らかの行動するしかないのでは?
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elu***** | 4日前

私は昭和41年生まれですが、両親が年の差婚だったので父親は大東亜戦争の現役軍人として南方の激戦地で戦った人でした。昭和19年のインパール作戦では陸軍第33師団の弓兵団で最前線にいました。父親から聞く戦争体験は地獄絵図そのものです。補給体制も整っていない中で強行されたためか早い段階で水や食糧が無くなり兵士は飢えと病に倒れ、負傷しても軍医、衛生兵、医薬品の全てが不足して手当ても受けられず何日も苦しみながら絶命した兵士の話は忘れられません。また銃弾も砲弾も使い果たし補充されないので、敵からまる一昼夜に及ぶ嵐のような銃砲弾を浴びせられても反撃する事が出来ず、戦死した兵士の銃に弾が残ってないか拾い集める状況だったようです。にも拘わらず上層部は武器が無ければ敵から奪え、食糧が無ければジャングルの野生動物を食え、傷病兵は自決しかないと、軍人精神を言うばかりだったと聞かされました。

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麦 |4日前

戦地の体験を語れる人は95歳くらいか。終戦をニューギニアで迎えた叔父からは飢えと病気に苦しんだ事を聞かされた。補給船が途絶えた極限の中、虫や小動物はもちろん、革製の軍靴を煮て食べようとした話、野菜を栽培してもイノシシに取られてしまった話など、私達子どもには戦闘シーンは聴かせなかった。85を過ぎてから戦友が訪ねてきた事があり、静かに再会を喜んでいた。別の叔父はシベリアに抑留されたが、その時の話はとうとう一度も口にしなかった。
戦地での悲惨さも、銃後の悲惨さも胸にしまって生きてきた世代にはその体験を孫子に話して欲しい。生でそれを聞く事自体が戦後の世代には貴重なことなのだ。戦中世代を親に持つ50歳以上の年代は、戦争ドラマを見る機会も多かったが、生の体験を聞いた事で、ドラマの世界から、現実のものへと認識を変えた。
軍歌の一節は歌えるのだが、その歌詞は実は切なすぎるものが多い。
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rnp***** |4日前

なんて酷い事でしょう。
皆さんのお話を読んだだけで胃がつかえ、涙が出てきます。辛いです。
何のための戦争なのでしょう。
当時二言目にはお国の為と言わしめたそのお国は何がしたかったんでしょう。
あまりにも愚かです。
腹が立ちます。
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ブルーボッサ |4日前

> 昭和8年生まれの母親から聞いた話ですが・・・
結局は死んだ兵士の人肉も食べたと戦地に言った


ドキュメンタリー映画
ゆきゆきて、神軍 では
そのことを 奥崎謙三がスタッフと
伴って元陸軍将校の自宅に行き 生々しい話が聞ける

死んだ兵士を食べ尽くしたら
生きた兵士を理由をつけ銃殺にして.....

恐ろしい話であったあ
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******* |4日前

もう二度と戦争はしてはならない。
と、亡くなった祖父が お盆になると必ず言っていました。

戦中の政府の対応と、今のコロナ禍の政府の初期の対応…少し似ている気がしました。
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bro***** |3日前

自分の父親は90過ぎだが、かろうじて外地出征を免れた少年兵として終戦を迎えた世代だった。あと数年生まれるのが早ければ自分も生まれていなかったかもしれない
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A.d.m |1日前

父はセッパコードから帰還しました。
近くで爆弾が落ち、耳を悪くしました。
辛い体験は聞かされる事は無かったです。
精神的に強い父です。苦労は想像に絶すると思います。
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bov***** |4日前

昭和8年生まれの母親から聞いた話ですが・・・
結局は死んだ兵士の人肉も食べたと戦地に言った親族から聞いたらしいです。
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tak***** |4日前

今の時代、豊か過ぎて不平不満が出るのかもしれない
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nri***** |4日前

死んだ兵士の人肉ならまだいい方で、息のある兵士を食べたという話もでてきます。
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ww7***** | 4日前

牛馬を運搬具として兵士と共に行軍させ、途中でその牛馬を食糧としていく。攻略したら敵から食糧を奪う。牟田口はこれを「ジンギスカン作戦」と得意になっていたようだが、後方平坦も無く、攻略も出来ず、徴兵された兵隊さんの犬死には無念です。それにひきかえ、牟田口は後世に自分の正当性を吹聴し、高額の軍人恩給を貰って晩年まで幸せに暮らしたとさ。地獄に行ったのは間違いなし️

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kaw***** | 4日前

10年まに亡くなった私の父も、インパール作戦で戦ってきました。 
200人位の隊で、お国の為に進軍したと言ってました。
昼は茂みに隠れ、夜になると移動したそうです。イギリス軍やオランダ軍が日中は襲ってくるそうです。
銃弾が雨のように降ってきたそうです。
小川には顔を突っ込んだ日本人だらけで、全員亡くなって、ウジだらけだった。アカイエカにさされ、マラリアにかかり、高熱から水を飲むと、すぐ死んでしまうらしいです。
最後に生き残ったのは、3人だったと言ってました。
父も帰国後、10年位の間、突然の高熱に悩まされたそうです。
異国で亡くなった軍人の気持ちを、今の自分に置き換えれば、平和な世の中に近づけることができるか。
合掌。

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麦 |4日前

戦死した若者達の気持ちは想像するだけでも胸が痛みます。
そして生き延びた方達にも敬意を持って接するのは当たり前のことなんですけど、今の若者には戦争は遠い昔話。物語の世界であり日本史の一部に過ぎないんでしょうね。
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han***** | 4日前

ガダルカナル、インパール日本の兵士の命をドブに捨てた恐るべき作戦

慰問に来た兵士は古賀に何を思ったのだろう
どうせ来るなら握り飯の一つでも持ってこいと思っただろうな

辛く苦しい従軍だろうがそれ以上に日本の将兵は帰り道にたくさん命を落としている

兵站を甘く見た日本軍の愚かな作戦だ

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ブルーボッサ | 4日前

> 「牟田口閣下は毎日粥を二度食っては毎日釣りをしている」


この閣下のええ話は聞かないね

戦後、自分の名誉を回復しようと
イギリスの歴史家と連絡とったり、頑張ったそうだが、長生きされたそうです。

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huc***** |3日前

戦後はしばらくは語らず隠遁生活、しかし英国側から あのまま攻めていたら英軍には脅威だったとか評価され 俄然 自己肯定になってしまった
まあ確かに宮崎支隊なんかは相当頑張っており 佐藤が無断撤収しなければ
一時的にはそうだったかもしれないが 補給が無い状態では結局同じ
死んで葬式の時には 参列者に息子に自己肯定の書を配らせたとか
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huc***** |2日前

講和条約締結後 日本人自身による憲法改正と改めて戦争犯罪者を裁くべきでしたね
おそらく当時の気風では与野党ともに賛成したはず
その後の外交安全保障は大きく変わってたでしょう
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pom***** |3日前

東京裁判がどれだけ無意味か
こいつこそ戦犯やん
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qhv… | 4日前

歴史を振り返ると、第二次世界大戦の時期は、外せないだろう! それは日本は敗戦国になって、戦後復興に辛苦した事は、事実だからである!
なぜ、こうなったかを振り返る事は、未来に生きる為には、必要な事だ。

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lzw***** | 4日前

インパール作戦、何度も何度も読みといて、自分なりに調べて、牟田口の兵隊を人間とも思わず、終戦後のコメントで兵隊を無能と評し、自分はのうのうと暮らしていたという事実を知って、胸が熱く、怒りで吐き気がする自分がいました。
戦争という中で、色々な作戦がとられてきましたが、これ程最低な作戦は世界でも類を見ないものです。
知らない人は知るべきで、牟田口というこんな奴が日本にいたいう事実を知ってほしい。

返信2

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apa***** |1日前

政府は何年かかっても
現地に眠る多くの遺骨を
収集し国内に慰霊碑を
作るべきである。
過ちは繰り返しません
どうか安らかにお眠り下さい
インパールの真実を共有し
二度と繰り返さない事で
戦死された方々の供養とすべし
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apa***** |3日前

こいつの墓を暴き
インパールに捨ててこい
それが犬死させられた
多くの日本人将兵の
追悼となるだろう。
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vpd***** | 4日前

戦勝国に非難されるか否か、という問題以前に、敗戦の原因究明と責任追及は日本国としてきちんとしなければならない。愛国を標榜する人々の意見が知りたい。

返信2

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iin***** |4日前

政権中枢や軍中枢にスパイが入り込んでいたようで内部から破壊されていたようです。

日本が日露戦争でやったことをやり返された図式ですね。
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njp***** |4日前

なんだか敗軍の将があがめられているような気がする。




#牟田口
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