■ 下村副長官の否定
文部科学省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)は、教員の資質向上のため、教員免許に10年の有効期間を定め、その期間満了までに講習を受けない場合は失効させるという制度を答申として出しています。自動車の運転免許に近い制度と言えば分かりやすいかもしれません。
10月22日、官房副長官の下村博文氏はこれに対し、「これでは本当の改革はできない。だからこそ教育再生会議がある」と、この答申と中教審そのものを否定しました。
確かに、教育再生会議の協議事項には「教員免許の更新制度」が挙げられていますが、安倍首相に極めて近いとされる下村氏のこの発言の意図は、どこにあるのでしょうか。
■ 思想調査・統制による排除
安倍首相や下村氏らが描く制度は、徹底した「排除の理論」です。教員一人一人を評価し、「不適格」という烙印を押された教員は排除するというものです。
では、どういう人物が「不適格」だというのでしょうか。
今年の8月、すなわち安倍政権の発足前、下村氏自身が官房副長官になる前に、下村氏は都内で行われたシンポジウム(「全国教育問題協議会 教育研究大会 シンポジウム2006」)にパネリストとして出席し、「安倍政権が目指す教育」について、次のように語っています。
「(文部科学省の)局長クラスは政治任用し、役人の思想信条はチェックする。」
「『自虐史観』は官邸のチェックで改めさせる。」
下村氏は、総裁選前から「思想調査・統制」を公然と掲げ、しかもその方法は徹底した「官邸」のチェックによる「排除」を掲げていたのです。まるで全てが国家統制下にあった戦前や戦時中を思い出させるような発言です。彼らの言う「自虐史観」とは、戦前や戦時中の日本の政治の否定を意味することから考えても、これこそが彼の「適格」「不適格」の判断基準なのではないでしょうか。
■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ
安倍首相や下村氏らが改定に躍起になっている、現行の教育基本法には、第10条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。 」と定めています。つまり、戦後の日本の教育現場では、このような「国家統制」を否定してきました。
「国民全体」とは当然、子どもたちやその親を含んでいます。
現行の教育基本法は、そのどちらに対しても教育が直接に責任を負うものと定めています。つまり、これは責任をもって「子どもたちのため」「親たちのため」の教育を行わせるという私たち国民の決意です。
安倍首相や下村氏は、こうした子どもたちや親という、「国民のため」の教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えようとしています。
では、そのような教育の中で、どのような教員が「適格」、すなわち「良い先生」とされるのでしょうか。
■ 子どもたちに対して無責任な教員ほど「良い先生」
一言で言えば、法律にだけ従順で、余計なことを考えない教員が「良い先生」ということになります。
安倍政権が推進している通りの教育基本法が出来れば、教員は、子どもたちにも、親にも責任は負いません。ただ法律に従い続ける教員が「適格」な「良い先生」というわけです。
この教育基本法改定案には、「国を愛する態度」が盛り込まれていますが、「良い先生」は学校で次のように教えるかもしれません。
「国を愛せ。そしてその愛を態度で示せ。いざとなれば国のために死んでみせろ。」
このことを聞いた親御さんが、学校に抗議に行くとします。
「先生、子どもたちに死ねとは何を教えるんですか。子どもたちの命を何だと思っているんですか。子どもたちに対して無責任じゃありませんか。」
そのとき「良い先生」はこう言うでしょう。
「私は、法律に従っているだけです。あなたや子どもさんに対して、私は何の責任もありません。」
「子どもたちのことを思えば、国のために死ねとは言えない」 とためらうような教員は、「不適格」な「ダメ教師」の烙印を押され、「排除」の対象となっていくのです。
■ 子どもたちの将来、そして命のために
戦争遂行のために全国民を駆り立て、しまいには「一億玉砕」として「国民の皆殺し」まで画策した、戦前や戦時中の体制を否定する人々を「排除」し、「国を愛する態度」を子どもたちに強要しながら、「私は国民に対して責任は負いません。」という教員を生み出す。安倍政権が進める「教育再生」とは、正にそういうことなのです。
今週末、教育基本法改定案の審議が再開されます。この法案には、さらに多くの問題点が詰まっています。
安倍内閣は一気呵成にこれを押し通そうとしていますが、子どもたちやその親たち、すなわち「国民のための教育」か、それとも権力者に都合の良い「国家のための教育」か、その分岐点に私たちはいます。そして、私たちが今どう動くかに、子どもたちの将来と命がかかっています。
私は動きます。子どもたちの将来、そして命のために。
文部科学省の諮問機関である中央教育審議会(中教審)は、教員の資質向上のため、教員免許に10年の有効期間を定め、その期間満了までに講習を受けない場合は失効させるという制度を答申として出しています。自動車の運転免許に近い制度と言えば分かりやすいかもしれません。
10月22日、官房副長官の下村博文氏はこれに対し、「これでは本当の改革はできない。だからこそ教育再生会議がある」と、この答申と中教審そのものを否定しました。
確かに、教育再生会議の協議事項には「教員免許の更新制度」が挙げられていますが、安倍首相に極めて近いとされる下村氏のこの発言の意図は、どこにあるのでしょうか。
■ 思想調査・統制による排除
安倍首相や下村氏らが描く制度は、徹底した「排除の理論」です。教員一人一人を評価し、「不適格」という烙印を押された教員は排除するというものです。
では、どういう人物が「不適格」だというのでしょうか。
今年の8月、すなわち安倍政権の発足前、下村氏自身が官房副長官になる前に、下村氏は都内で行われたシンポジウム(「全国教育問題協議会 教育研究大会 シンポジウム2006」)にパネリストとして出席し、「安倍政権が目指す教育」について、次のように語っています。
「(文部科学省の)局長クラスは政治任用し、役人の思想信条はチェックする。」
「『自虐史観』は官邸のチェックで改めさせる。」
下村氏は、総裁選前から「思想調査・統制」を公然と掲げ、しかもその方法は徹底した「官邸」のチェックによる「排除」を掲げていたのです。まるで全てが国家統制下にあった戦前や戦時中を思い出させるような発言です。彼らの言う「自虐史観」とは、戦前や戦時中の日本の政治の否定を意味することから考えても、これこそが彼の「適格」「不適格」の判断基準なのではないでしょうか。
■ 「国民全体に対し直接に責任」を負う教育から、「法律の定めるところによる」教育へ
安倍首相や下村氏らが改定に躍起になっている、現行の教育基本法には、第10条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。 」と定めています。つまり、戦後の日本の教育現場では、このような「国家統制」を否定してきました。
「国民全体」とは当然、子どもたちやその親を含んでいます。
現行の教育基本法は、そのどちらに対しても教育が直接に責任を負うものと定めています。つまり、これは責任をもって「子どもたちのため」「親たちのため」の教育を行わせるという私たち国民の決意です。
安倍首相や下村氏は、こうした子どもたちや親という、「国民のため」の教育を廃止し、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」教育に変えようとしています。
では、そのような教育の中で、どのような教員が「適格」、すなわち「良い先生」とされるのでしょうか。
■ 子どもたちに対して無責任な教員ほど「良い先生」
一言で言えば、法律にだけ従順で、余計なことを考えない教員が「良い先生」ということになります。
安倍政権が推進している通りの教育基本法が出来れば、教員は、子どもたちにも、親にも責任は負いません。ただ法律に従い続ける教員が「適格」な「良い先生」というわけです。
この教育基本法改定案には、「国を愛する態度」が盛り込まれていますが、「良い先生」は学校で次のように教えるかもしれません。
「国を愛せ。そしてその愛を態度で示せ。いざとなれば国のために死んでみせろ。」
このことを聞いた親御さんが、学校に抗議に行くとします。
「先生、子どもたちに死ねとは何を教えるんですか。子どもたちの命を何だと思っているんですか。子どもたちに対して無責任じゃありませんか。」
そのとき「良い先生」はこう言うでしょう。
「私は、法律に従っているだけです。あなたや子どもさんに対して、私は何の責任もありません。」
「子どもたちのことを思えば、国のために死ねとは言えない」 とためらうような教員は、「不適格」な「ダメ教師」の烙印を押され、「排除」の対象となっていくのです。
■ 子どもたちの将来、そして命のために
戦争遂行のために全国民を駆り立て、しまいには「一億玉砕」として「国民の皆殺し」まで画策した、戦前や戦時中の体制を否定する人々を「排除」し、「国を愛する態度」を子どもたちに強要しながら、「私は国民に対して責任は負いません。」という教員を生み出す。安倍政権が進める「教育再生」とは、正にそういうことなのです。
今週末、教育基本法改定案の審議が再開されます。この法案には、さらに多くの問題点が詰まっています。
安倍内閣は一気呵成にこれを押し通そうとしていますが、子どもたちやその親たち、すなわち「国民のための教育」か、それとも権力者に都合の良い「国家のための教育」か、その分岐点に私たちはいます。そして、私たちが今どう動くかに、子どもたちの将来と命がかかっています。
私は動きます。子どもたちの将来、そして命のために。