恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

憲法記念日に伝えたいこと

2006年05月03日 | 憲法
 5月3日、日本国憲法は59回目の「誕生日」を迎えました。
 しかしご存知の通り、昨年、自民党が昨年「改憲案」を発表し、民主党も「憲法提言」を発表しています。
 彼らに煽られてか、世論調査では、戦争放棄を定める憲法9条は変えるべきではない、という声は今も大多数を占めていますが、憲法を変えることへの賛成は、反対を大きく上回っています。
 日本国憲法は、「風前の灯」と言うべき状況にあると言わねばなりません。

 しかし、私はこの国民の皆さんの「改憲賛成」の声が不思議に思えてならないのです。
 私が着目していただきたいと思うのは、私たち国民・政府・憲法という3つの存在の序列です。
 
 細かい説明は省きますが、現在の憲法は「国民」を最上位に置き、次に「憲法」を置き、その次に「政府」という序列になっています。この憲法の特性こそ、「国民のための憲法」「憲法は権力を縛るもの」といわれる所以です。
 
 しかし、条文の形になっている自民党の改憲案を見ますと、最上位は「政府」、次に「憲法」、その次に「国民」と、完全に逆転しているのです。

 政府が絶対的権力を持ち、その政府が決める「公益」や「秩序」のためだと言われれば国民は、「知ること」「思うこと」「考えること」「言うこと」「住むこと」「働くこと」などはもちろん、「学ぶこと」「愛すること」、そして「生きること」までもが統制されようとしているのです。

 これでは、まるで政府の奴隷です。
 改憲に賛同すること、それは自分、家族、友人、そしてその子や孫をも「政府の奴隷」にしてしまうことを意味しているのです。
 これを選択することは、今を生きる私たち国民、そして将来の国民である子孫を裏切る行為です。

 子孫だけではありません。祖先に対しても同じことが言えます。
 
 憲法97条は、こう定めています。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 
 この「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」「過去幾多の試練」とは何を指すのでしょうか。

 私たちは、この憲法を制定するまでに、余りにも多くの祖先の血を流してきました。
 政府や国家が国民の上位にあったため、国民は戦場へ駆り立てられたり、弾圧されて殺されたりしたのです。

 それから僅か59年です。それまでの、政府や権力に下に置かれ、生きることさえ支配された数千年に及ぶ祖先の苦悩を、たった59年で無駄にするというのでしょうか。

 今の改憲に賛成するということは、「これまで血を流してきた祖先を裏切り、これから血を流すことになる子孫を裏切る行為」なのです。

 私は、今を生きる一人の人間として、こんなことを許すわけにはいきません。
 この私の思いこそ、この憲法記念日に皆さんにお伝えしたいことです。