恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

教育基本法改悪「推進本部」の思惑

2006年05月09日 | 教育基本法・教科書
■ 文部科学省挙げての「推進本部」

 教育基本法改定を進めようとする文部科学省は8日、省内に「教育基本法改正推進本部」を設置し、初会合を開きました。
 この推進本部は小坂文部科学大臣を本部長とし、副大臣・政務官・事務次官を、本部長代理・副本部長・事務局長に置き、省内のすべての局長・次長が組み込まれています。さらにこの推進本部の下に、ほぼ全職員を配置するプロジェクトチームを置くという、正に省を挙げての異例の徹底ぶりです。

 当然この推進本部は、子どもたちに「愛国心」を求め、それを「態度」で示すことを強制しようとする与党の要請で設置かれたものでしょうが、では、これほどまでに強力な体制をつくり、文部科学省は何をしようというのでしょうか。
 報道によれば、この教育基本法改定案の成立に向け、法案の広報活動、国会対応にあたることだというのです。
 
■ 立法に対する、行政の「介入」

 まず私は、この設置に疑問を持たない国会議員がいるとすれば、その方には直ちに「議員辞職して頂きたい」と思います。

 立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所にあります。言うまでもなく、民主主義国家である大前提としての「三権分立」です。
 国会と行政の関係で言えば、主権者から選挙で選ばれた議員で構成され「国権の最高機関」である国会が法律を作り、その法律を執行することが、
 もちろん、内閣の各省が法案を起案することがほとんどですが、法案が閣議決定を経て国会に提出されてからの法案の審議の仕方は、あくまで国会の主導によって行われます。内閣提出法案について、内閣は国会に対し、審議を「お願い」する立場にあります。趣旨説明してから後は、立法権を持つ国会の領域だからです。
 それを、内閣所属の一行政機関、そして「官僚集団」である文部科学省が、日常業務「そっちのけ」で全省挙げての推進本部を立ち上げ、法案の成立に向けて動き出すとなれば、正に「行政」による「立法」への「介入」です。
 しかもまだ審議にも入っていない法案について、その成立を図る「初会合」の開催を、あらかじめメディアに流し、カメラや記者を招き入れて開くことに極めて意図的なものを感じざるを得ません。
 こうした意図的な「介入」を、疑問に思わない議員がいるとすれば、その方は自分が受けた主権者の負託に耐えうる人物とは言えません。私がこのような方に「議員辞職して頂きたい」と思う所以です。

■ 敢えて文部科学官僚が「介入」を行う理由

 もちろん、このようなことは文部科学省の官僚たちも十分、認識しているはずです。
 国会開会中は普段、質問の通告を受けて、大臣らの答弁原稿を作る官僚たちが、「広報活動」すなわち「一大キャンペーン」を打とうというのですから、仕事も増えますし、違和感を感じていることでしょう。
 しかし、彼らにあるのは違和感だけではないでしょう。仕事が増えれば、予算がつきます。予算といっても元は税金ですが、予算があれば権限が増します。そして業者とのコネを深め、「天下り」先の確保が可能になります。しかし、「天下り」できるのはごく一部のベテランの官僚に限られます。ところが、それ以外の官僚のメリットは別にいくらでも広がっているのです。

 まず、「与党へのコネ」です。官僚出身の政治家で多いのは、財務(旧大蔵)を筆頭に、他に経済産業(旧通産)・総務(旧自治)・国土交通(旧建設・運輸)などは目に付きますが、文部科学省出身の政治家はごく僅かです。実は「キャリア組」で文部科学省は権限が少ないため人気がなく、人材も集まらないと言われています。
 しかし今回のように、自民党が異常に力を入れる法案で、力を尽くせば何か期待できるのではないか、と期待するのも無理はありません。
 政治家にならなくても、先ほどの「天下り」に手が届くようになるためには、出世競争に勝たねばなりません。その足がかりとするには、若き官僚には絶好の機会なのです。
 
 そして、最も彼らにとって魅力的なものは、法案の内容そのものに潜んでいます。
 私は、教育基本法改定案を「改悪」案と呼びますが、その最大の理由は、「国家・政府中心の教育を子どもたちに強制すること」に主眼を置いているからです。一見不思議に思えるかもしれませんが、彼ら文部科学官僚たちも、「国家・政府」側の人々なのです。
 しかも、彼ら官僚は「政治家以上に国家主義的」な存在だと言えるのです。
 彼らの上司である大臣・副大臣、そしてさらに上の首相は、数ヶ月~数年で代わります。しかし、彼らは何十年も、その道のスペシャリストとして、「国家」の中枢に居座り続けます。
 「国家・政府」側に権限を集中させることは、彼らにとって大いに歓迎すべきことであり、そのための労力は惜しまないのです。
 先ほど「文部科学省は権限が少ない」と書きましたが、「権限」すなわち「許認可権」も恒常的に生まれます。これほど文部科学省という官僚組織にとってありがたい話は、早々あるものではないのです。

■ 「教育」は、国家や官僚のためにあるのではない

 今回の法案が、与党や文部科学省にとって、どれほど強く願うものであるかは、これまで述べてきた通りです。しかし、私たち国民や、とりわけ「教育の権利主体」である子どもたちにとっては、どうでしょうか。
 国民にとっては、自分たちに対する「強制権」を持つ法律が、自分たちが選挙で選んだ議員による「審議」ではなく、官僚たちが行う「キャンペーン」によって作られていくことを見過ごすことは、自分たちの首を絞める行為でしかありません。
 そして、このような思惑によって、子どもたちの受ける教育が、子どもたちのための教育ではなく、「国家・政府」のための教育に変えられてしまうならば、子どもたちにとって、これほど不幸なことはありません。

 しかし今、ほとんどの子どもたちは、これに異を唱えることができません。こうした本質を知らないからです。
 だからこそ私たち「現在の大人」が、子どもたちに代わって叫ばなければならないと思うのです。

 現行の教育基本法の本質は、「教育は子どもたち一人一人のためにある。」です。
 私は、この当然の真理を守り抜くことこそ、「現在の大人」の使命であると思います。