まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

宗教と信仰は地(血)に根ざすものだから

2016-04-24 03:10:00 | 日記
昨日、久しぶりに常磐者のはんちゃんに会いました。「天狗党を調べたか?」という私の問いに、奴は「否」と答えました。馬鹿野郎、と思いました。きっと、おっさんの戯言だと思っているんだろうな。「ふ~ん」だ。ぐれてやる!

私がどんなに偉そうなことを言ったところで、実際は、おっさんたちでさえ、若者たちから教わることの方が多いのが事実だったりもしますし、説得力がありませんなぁ。けれども、歳を重ねた方が、経験、技術、知識などの分野には長けてくる、という実感が若者にもあるはずです。

ですから、新人教育に悩む若者や、上司の無能さに参っている若者に伝えたい。先ずは、自身の無力を知りなさい。そのための近道として、例えば、選挙に行け、宗教を学べ。恥ずかしながら、私が選挙に行くようになったのは、最近の話です。ですから、本当は、こんな私が説教じみたことを言うのは不適切なのですが・・・。

おっさんたちがどうせ変えられないのは事実でしょう。だとすれば、あなたが変える必要があります。

この国においては、人口の構成比が、どんどん高齢化していますな。そうして、人は概ね、自分たちの益になるような投票をしがちです。ウィンウィンの関係?!ほんまかいな。だって、100年前とは違うんでね。井戸を掘れば誰もが喜ぶ、とうような類の論点は極めて少なくなっているわけでしょ。井戸が巨大になりすぎている、ということもあります。そうして、以前の記事と同じ趣旨になってしまいますが、論点は(メディア等から)提供されるものではなく、日々の生活の中から、自らが見つけるものなのです。

極端な話になりますが、こんな私は、例えば高齢者介護の費用的な意味での充実には反対の立場にあります。問題は、それら(介護系)の仕事に従事している若者たちの生活の方にあります。

さて、宗教というと、例えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、などなど、ということになるのでしょうか。

実際問題として、例えばですが、イスラム教のなんたるかを知らずに、教徒(信徒?)だけを迫害するだなんてことは、ねぇ・・・。

そうして、私に言わせればですが、自身の生活の規範に宗教性も宿っているのであって、それは人によっては会社であり、家庭であり、いろいろな多様性があるわけです。そう言う意味では、おたくさんたちにとっては、アニメこそが宗教(神仏)である、ということになるのかもしれません。

一方で、仮にですが、信仰とは、(安らげるような)原点回帰できる場所である、と、捉えてみましょうか。

困った時、しんどい時、泣きそうな時、つらい時、死にたくなるような時に、戻ることが出来るような拠り所を、もう少し増やした方が良いのではないでしょうか。

語学、スポーツ、芸術なんて分野は、国境を超えるキーワードですし、(拠り所の)入口に入りやすくなります。ですから、義務教育ってのは、案外うまくできているものなのですね。「トーラー」は天地創造から入り、「マタイによる福音書」は家系図から入ります。そう、うんざりするほど、うまくできているのです。そして、ふと気付いてみたら、身近な歴史にも、多くの示唆が含まれているということがわかってきます。すると、憤りと同時に、自由の有難みも実感できる、と、私は考えています。

先ずは、このとんちんかんな作文に疑問を持って下さい。いつかあなたが何らかの信仰を得た(増やした)時に、政治・宗教の意義、英知、狡猾などがだんだんわかってくると良いのですが・・・。


「最後の多事争論」筑紫哲也
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