茨城から発信しますⅡ

旅が好きです。
見て 聞いた 茨城を紹介します。
昔の写真から旅の思い出を紹介します。

   茨城から発信します  茨城民芸大根むき花展示会

2015-01-19 07:00:00 | 茨城紹介

水戸市植物公園では茨城民芸大根むき花保存会の

人達がむき花を造る実演と作品展が行われていた。

大根むき花は100年以上前から水戸市元石川地区に伝わる

伝統民芸で、水戸市の無形民俗文化財に指定されている。

以前、元石川の練習状況を撮らせて貰ったことも有った。

和やかな雰囲気でも 真剣な眼差は印象的だった。

写真の花は本物そっくりだが大根を包丁一本で切って作る。

水戸市元石川町に古くから伝わるもので、一本の大根を材料に、

一丁の包丁だけでボタン、キク、アヤメ、ツバキなど花を

実物そっくりに作り出す珍しい民芸である。

結婚披露宴などの祝いの座敷に飾られ、現代まで伝えられて来た。

この技術を修得するには「皮むき3年、花8年」といわれているように、

かなりの修練が必要だった。 

大根は非常に硬く大変な作業に感じた。

水戸藩に使えていた料理人が発案したと云われている。

次回は球根ベコニア展を紹介しよう。

 


   銀世界  初雪です

2015-01-14 07:00:00 | 日記

2015年1月12日

今朝 目が覚めて雨戸を開けると雪がうっすらと積もっていた。

今年の初雪だ。

融けないうちにと大急ぎで写真を撮った。

林の隙間から朝日が輝く。

雪が降ると何故か嬉しくなる。

長野で大雪の苦労を初めて知った。

以来大雪が降っても燥がずに 

静かに写真を撮っている。

 

 

 


   茨城から発信します  日鉱記念館

2015-01-13 07:00:00 | 茨城紹介

展示室の写真  

日立鉱山の歴史は非常に古く1591年当時の領主、佐竹氏が

入四間町の御岩神社の裏山で金を掘ったという記録がある。

1900年ドイツ人貿易商が赤沢鉱業合資会社を設立、

ノルウエー人、シー・オールセンが采配をとって再開した。

後に、社員の大橋真六の単独経営となった。


  1924年に久原房之助が30万円で買い取った。

当時、この場所が日立村であったことから「日立鉱山」と命名した。

明治45年には全国第3位の銅の生産をするまで急速に成長した。

これは、久原氏が秋田県の小坂銅山での経験を生かし、

また、其処の人材を利用し、さらに、従来の人力を主体とした

採鉱を大掛かりに機械化した成果である。  

大正6年には従業員数が最大を記録し、鉱山と製錬をあわせ8,200人であった。

この頃、ここの鉱石に硫黄分が多く亜硫酸ガスに公害が大きくなり、

周囲の山の植物は全滅状態となった。

かつて足尾銅山と並ぶ生産量を誇った茨城県の日立鉱山でも、

周囲の景観が変わるほど深刻な公害が発生したが、

その後の経過が足尾とは大きく異なっていた。 

銅生産がもたらす甚大な環境被害に対し日立鉱業は、当時としては

手厚い補償と汚染軽減設備への投資、さらには企業が

地域社会を吸収するという対応で、住民との対立を回避している。

対策として、気象観測所をつくり、風の状況による生産調整を行ない、

更に、大煙突を大正3年に完成させた。

この煙突の高さは157.7メートルで、当時として世界最高記録であった。

この煙突は平成5年に突然折損し、54メートルで修復され現在に至っている。

更に、日立鉱山は鉱毒による禿山を生きかえらすため、

東海村に石神試験場をつくり、公害に強い植木を育て、植林に努めた。

日立鉱山では製品や諸物資の流通のため電気鉄道を当時の

国有鉄道日立駅と鉱山との間に設けた。

この電車は町の中心から市役所の横を通り、精練所まで走り、

1960年に廃止になるまで、市民の無料の足としても利用されていた。     

坑道の中心は第1および11竪坑で、地下600メートル、

海面下250メートルあり、76年間活動した。

日立鉱山は1973年に日本鉱業から独立経営となったが、

資源枯渇のため1981年9月に閉山した。

 (中央は安倍総理大臣)

(JX ホールディングスがチリのカセロネス銅鉱山操業) 

現在も日鉱金属の 日立工場はこの地で操業を続けている。

純度 99.9999999% の銅金属

日立製作所は明治41年に鉱山の電気機械修理工場として

5名により作業を開始し大正9年に久原鉱業(日本鉱業)から独立した。

 

 

Google マップでみるをクリックして右端の二重矢印を隠して写真を見てください。

 


   茨城から発信します  日立駅と日立海岸

2015-01-09 07:00:00 | 茨城紹介

日立市は日立鉱山から発展した鉱工業都市である。

1905年、江戸時代から採掘されていた日立村の赤沢銅山を

久原房之助が買収し日立鉱山に改名、

久原鉱業所(現在のJX日鉱日石金属)を創業して以来の

企業城下町として、後年はその機械部門が分離・独立した

日立製作所・日立グループの企業城下町となるが、

現在は両社とも本社を東京に移転している。

他に、日立市と同様に鉱山町から企業城下町になった地域としては、

新居浜市(別子銅山→住友グループ)が代表的である。


元来、7世紀の国造の時代から、現日立市の中心部は助川という地名だったが、

1939年9月1日に助川町が日立鉱山を擁する日立町と新設合併して

市制を敷く際に日立市となった。

1939年以後、都市名と企業名の混同を避けるために、

日立市民は都市名を『日立(ひたち)』と呼び、

日立製作所を『日製(にっせい)』と呼んで区別している。

日立駅前で名物のそばを食べた。

次回は閉鎖された日立鉱山の日鉱記念館を紹介する  

 

 


   茨城から発信します  那珂湊漁港と磯節  

2015-01-07 07:00:00 | 茨城紹介

我が家から那珂湊魚市場へ行くときは海門橋を渡って行く。

海門橋の側には石船に「磯節」が刻まれた碑が建ててある。

磯節は茨城県の民謡である。

歌詞;

ハーサイショネ♪ 磯で名所は 大洗様よ♪(ハーサイショネ) 

松が見えます ほのぼのと(松がネ)見えますイソ ほのぼのと 

荒い波風 やさしく受けて(ハーサイショネ) 

心動かぬ 沖の石 (心ネ)動かぬイソ 

沖の石 三十五反の 帆を捲き上げて(ハーサイショネ)

行くよ仙台 石巻 (行くよネ)仙台イソ 石巻

仙台や石巻まで行ったのですね。(ハーサイショネ)

磯節は以前は聞くことが出来たが最近は耳にしない。

(パノラマの連結をしくじった)  

海門橋を渡ると那珂湊漁港に着く。

岸壁に釣り人が糸を垂らしていたがすぐ引き上げると

ワカサギが5~6匹も上がってきた。

ワカサギは淡水魚と思っていたが海でも釣れている。

同年輩?の夫婦が興味津々見つめていた。

「どちらから来たのですか?」「群馬からです」

「遠くから大変ですね」「北関東自動車道を使うと1時間位で着きます」

群馬や栃木の車が多かった。

船を模ったトイレ  

高速自動車道を使えば群馬や栃木から太平洋は近いのだ。

日が傾いたので帰ることにした。