茨城から発信しますⅡ

旅が好きです。
見て 聞いた 茨城を紹介します。
昔の写真から旅の思い出を紹介します。

 旅の思い出 広島にて

2016-07-29 07:00:00 | 旅行

現役時代の事だが、或る用件で友人と広島に行った。

用件が終わり原爆資料館、広島城、安芸の宮島や江田島へ行った。

宮島は松島・天橋立と並び日本三景の一つの景勝地である。

平安時代末期以降は厳島神社の影響力の強さや

海上交通の拠点としての重要性から歴史の表舞台となった。

平 清盛は、平安時代末期の武将・公卿で平氏棟梁となる。

保元の乱で後白河天皇の信頼を得て武士としては

初めて太政大臣に任せられ日本初の武家政権を打ち立てた。

安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで

莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。

その頃より宮島の厳島神社を信仰するようになった。

 


旅日記 Ⅴ 出雲大社参拝

2016-07-27 07:00:00 | 旅行

出雲では、出雲大社の他いくつかの神社で旧暦10月11日から17日まで

会議が行われ、その間を「神在祭」と云われる。

旧暦10月18日には、各地に帰る神々を見送る

「神等去出祭」が出雲大社拝殿で行われる。

出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、

出雲以外では神がいなくなるので「神無月」と言う。

10月に出雲へ来たが、旧暦だったので神々の集いを

見る事が出来なく残念だった。

出雲大社を参拝して大社駅に行った。

駅舎や改札口、待合室はレトロな造りで懐かしい。

出雲を発ち大阪駅からかみさんと合流して長旅を終えた。

 

拡大地図表示をクリックして出雲大社を参拝してください。

 


旅日記 Ⅳ 松江城と小泉八雲記念館見物

2016-07-25 07:00:00 | 旅行

倉敷から伯備線の電車に乗って松江に着いた。

宿の予約が出来たのでバスで松江城を見物した。

綺麗で大きな城、観客が大勢いた。

「小泉八雲記念館」へ向かった。

高校の時、英語の副読本がラフカディオ・ハーンの怪談

「耳なし芳一」に興味に惹かれ松江に行くつもりだった。

日本の「こわい話」として、広く知られる「耳なし芳一」 

それは、日本に帰化したギリシャ生まれの英国人、

ラフカディオ・ハーン

小泉八雲が妻のセツとともに生み出した作品であった。

ハーンは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、

「ヘルン」と表記したのが広まった。

当人も「ヘルン」呼ばれることを非常に気に入って定着した。

八雲が居間として使用していた9畳の部屋からは

三方に日本庭園を望むことができる。

八雲は当屋敷で「知られざる日本の面影」をはじめとする

多くの原稿を書き上げた。

松江から出雲大社へ向かう。

(2008.10.20~21撮影)

 

「怪談」などで知られる明治の文学者、小泉八雲を顕彰する松江市の

「小泉八雲記念館」が7月16日、リニューアルオープンするのを前に

小泉八雲の曽孫で館長の小泉凡・島根県立大短大部教授(民俗学)が

14日、館内を紹介した。

 


 旅日記 Ⅲ 倉敷美観地区見物

2016-07-22 07:00:00 | 旅行

倉敷に着いた。

ホテルにチェックインして大原美術館へ向かった。

江戸時代初期の1642年に倉敷は江戸幕府の天領に定められ

倉敷代官所が備中国南部の物資の集散地として発展した。

倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の

屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。

1979年に県内の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

 

また、1930年に建てられた日本最初の西洋美術館

大原美術館や1888年に代官所跡地に建てられた。

ニューヨーク近代美術館の開館が1929年であったことを考えれば、

創設者大原孫三郎の先見性は特筆すべきであろう。

旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設

倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物である。

 

(2008.10.19 撮影) 

 倉敷を後にして松江に向かった。


 旅日記 Ⅱ 岡山城と後楽園見物

2016-07-20 07:00:00 | 旅行

京都を発ち、かみさんと大阪駅で別れ一人で岡山に向かった。

日本三名園の一つである後楽園を見るためだった。

岡山駅に着くと桃太郎に歓迎された。

後楽園は江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された。

元禄文化を代表する庭園で特別名勝に指定されている。

岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する。

藩主が賓客をもてなした建物・延養亭を中心とした

池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。

江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を御後園と呼んでいた。

明治4年に園内を一般開放するにあたって後楽園と改めた。

鬼の城跡を見ることが出来なくて残念だった。

 

 

倉敷に向かう。