最終回
ダフタウンの蒸留所巡りが終わり 出発地点のグラスゴーへ向かった。
帰国の日程には余裕が有ったのでアラン島へ行くことにした。
小さな島でも城や蒸留所が有って素敵な所だった。
ブロリック城
「マッサン」の事だがグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生
イザベラ・リリアン・カウンに頼まれ 弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えた。
姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め結婚した。
しかし、ラムゼイを含むリタの家族のほとんどに反対され
教会ではなく登記所で登記官の前で 宣誓するだけの結婚式だった。
プロポーズの時「スコットランドに残っても構わない」と言うマッサンに
「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と答えたリタ。
日本の生活に溶け込もうと努力を重ね、漬け物や塩辛まで
手作りした彼女を人々は「日本人以上に日本人らしい」と評した。
日本語の勉強にも励み、流暢な関西弁を操るまでになったが
「マサタカサン」という発音が 難しかったためか「マッサン」と呼んだ。
スコットランドの旅は順調に進んだ。
B&B に泊るだけで難しい 英会話の必要はなかった。
「宿代はいくら? パブは何処にあるの?
それ以外の事は話さ(せ)なかった。」
その頃大阪の洋酒製造販売業者 寿屋が本格ウイスキーの国内製造を企画。
社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか
問い合わせたところ「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という
適任者がいるはずだ」という回答を得た。
アラン島蒸留所
(ここでも試飲はしなかった)
マッサンはスコットランドに似た風土の北海道に製造工場を
作るべきだと考えていたが、鳥井は消費地から遠く輸送コストの問題と
お客に直接工場見学させたいという理由で難色を示した。
マッサンは大阪近辺の約5箇所の候補地の中から良質の水が使え、
スコットランドの著名なウイスキー産地ローゼスの風土に近く、
霧が多いという条件から山崎を候補地にし 工場と製造設備は竹鶴が設計した。
「トリスウイスキー」は戦後まもない1946年に発売、それまで日本では
まだ縁遠い存在であったウイスキーを身近なお酒として定着させ
昭和史にも残るロング・セラーブランドに仕上げた。
新宿の路地裏でトリスのハイボールを飲んだのは1955年前後だった。
1961年には「トリスを飲んでハワイへ行こう!」キャンペーンを実施。
山口瞳の名コピーと柳原良平の「アンクルトリス」のCMキャラクターが
一世を風靡し、洋酒文化が花開く基盤となる一大キャンペーンとなった。
ニツカウィスキーのハイボールをバーで飲んだことがないのは不思議だった?
先日我が家のサイドボードを整理中にジョニーウォーカー黒ラベルを発見
かみさんの父親が我が家を建てた時の祝い酒だった。
20年前になるがビンの中では熟成しない。
まろやかな良い味がしていた。
余市に行って「竹鶴」を現場で呑んでみたい。
左上の拡大地図をクリックしてアラン島を見物してください。
ストリートビューでアラン島の見物も出来ます。
御同伴お疲れ様、有難うございました。
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土屋守著「シングルモルトを愉しむ」に
ストレートが強すぎる人は水割りを勧めている。
オンザロックは香りを損じ、氷が融けウイスキーの
濃度が変わるのでオンザロックを薦めていない。
全くその通りだと思う。
終わり