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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

グラフェンの衝撃:バイオセンサ

2014年03月21日 | ネオコンバーテック

 

●グラフェンと生体分子の技術

他の材料にはない驚異的な物性を持ったグラフェンが様々な研究・産業分野において注目され
ているがここでは、三好大輔甲南大準教授らの『グラフェンと生体分子を用いたバイオセンサ
』(B&I/VOL.72 No.2 2014)から基本原理と事例を紹介し、関係する産業技術の展望を俯瞰
する。さて、荷電子を4個持つ炭素は、4組の共有結合を形成でき、炭素と炭素の結合は、多
くの有機物の基本的な結合であり、すべての生命体に不可欠で、炭素結合の状態によって多く
の同素体を形成する。例えば、ダイヤモンドはsp3混成軌道、グラフェンやグラファイト、フ
ラーレン、カーボンナノチューブはsp2混成軌道、導電性高分子として知られる直鎖アセチレ
ンはsp混成軌道からなる。この中のグラフェンは、4個の荷定子のうち3個加sp2混成軌道を
形成し、ベンゼン環加速絞したようなハニカム構造となり、残りの1個は自由電子となり、グ
ラフェンに高い導電性を与えるという特徴をもつが、2010年のノーベル物理学賞は、そのわず
か数年前でなされたグラフェンの単離と物性解析に対して贈られ、単離されたグラフェンは他
の物質にはない驚異的な物性を示すことが明らかとなり、様々な研究分野において極めて大き
な波及効果をもたらしている。

炭素原子が六角形の網状に結合した材料である「グラフェン」は,数々の優れた電気的、熱的、
機械的特性を備えている。具体的には,室温でも20万cm2/Vs以上という非常に高いキャリア移
動度や、銅をはるかに凌駕する大電流密度への耐性を備える。このため、高速トランジスタ、
タッチ・パネルや太陽電池向けの透明導電膜、銅よりコストが安くそれでいて銅より大電流を
流せる電気配線などへの応用が期待されている。さらに、作製可能なシート状の材料の中で最
も薄く、比表面積が大きい。しかも、ダイヤモンドを超える強度や弾性率、熱伝導率を備える。
欠陥がなければたとえ単層グラフェンでも、ヘリウム(He)原子より大きい物質を通さない。
これらの性質は、電池の電極材料や放熱フィルム、MEMSセンサ、あるいは理想的なバリア・フ
ィルムとしての応用に生かすことが可能だと考えられている。

 

バイオセンサーとして特に注目されているのが、グラフェンの酸化によって得られるグラフェ
ン酸化物(GO)である(上図参照)。GOは、グラフアイトを酸化することで大量に調製でき
る。また、酸化により導入された水酸基やカルボキシル基により、水への分散性が高い。水溶
液への分散性は、生体分子を標的にするバイオセンサーの構築に必要不可欠な特性である。

 

●GOを用いたバイオセンサーの機構

広いπ平面と水酸基やカルボキシル基などの官能基を持つGOは、多くの生体分子と多様な相
互作用を形成できる(上図)。例えば、負電荷を持つGOと正電荷を持つ生体分子は静電的相
互作用を形成する。また、芳香環を持つ生体分子はGOとπ-πスタッキング相互作用を形成す
る。疎水性の高い生体分子は、GOと疎水性相互作用によって吸着する。水酸基やカルボキシ
ル基は生体分子と水素結合を形成できる。さらに、GOの大きな特徴に、近接した分子から発
光される光(蛍光など)を非常に効率よく消光することがある。このようなGOの物性を利用
することで、様々なバイオセンサーを構築できる。その基本原理を下図に示されている。


蛍光団を導入した分子(蛍光分子)をGOに吸着させると、蛍光団からGOへとエネルギー移動
が起こり、蛍光が消光する。ここに蛍光分子と結合する標的分子を添加する。蛍光分子と標的
分子が複合体を形成することで、蛍光分子がGOの表面から解離する。そのため、蛍光消光が
解消し、再び蛍光分子からの蛍光シグナルが観測されるようになる。この検出においては、蛍
光分子と標的分子が複合体を形成することで、蛍光分子とGOとの親和性が低下することが必
要である。親和性を変化させるために有用なのが、蛍光分子の構造変化である。例えば、標的
分子との結合が、蛍光分子の構造形成を誘起できれば、GOとの親和性が変化する可能性が高
い典型的な蛍光分子と標的分子の組み合わせとして、一本のDNA鎖とその相補鎖、アプタマ
ーとその標的分子などがある。また、ピレンなどのGOとの親和性の高い骨格を持つ分子を導
入し、GO八面に生体分子を吸着させる方法もある。さらに、蛍光分子をGO表㈲に共有結合
的に固定化する方法も報告されている。

●超高感度にがんマーカーを検出するGOバイオセンサー

三好大輔甲南大準教授らのグループでは、GOを用いて細胞のがん化のバイオマーカーである
サイクリンA2を検出するこ
とを試みている。サイクリンは、サイクリン依存型キナーゼを活性
化することで細胞周期を制御するタンパク質
である。これまでに、サイクリンとサイクリン依
存型
キナーゼの複合体(下図)の形成を阻害するペプチドが開発されている。このような阻害ペ
プチド
の一種を蛍光ラベル化し、サイクリンの検出に使用した。このペプチドを蛍光ペプチド
と呼び、まず蛍光ベプチドとGOを混合したところ、その蛍光シグナルがほぼ完全(1%以下)
に、かつ迅速に減少した一万で、蛍光ペプチドとサイクリンA2を混合した溶液にGOを添加
した場合、蛍光消光が観測されず、蛍光ペプチドとBSAやリブチームなどを混介した溶液に
GOを添加した際には、蛍光ペプチドのみの場合と同様の蛍光消光が観測されたことから、こ
の反応が、蛍光ペプチドとサイクリンA2の特異的な相互作用を示す。また、サイクリンA2
の検出限界は、0.5nMであった。この検出感度は、既存の方法の検出限界の数千分の1程度であ
る。

さらなる高感度化と簡便化には、電気化学的な検出方法が有用であり、電気化学的な検出に展
開することを試みる。電極をグラフェンで被覆し、その表面をポルフィリンで被覆した。ポル
フィリンが導入されることで、グラフェンの表面は負の電荷密度が増大。ここに先のペプチド
を混合すると、静電的相互作用でペプチドがグラフェン・ポルフィリン表面に吸着する。この
状態で電極間の溶液にシアン化鉄鉄棒を導入すると、シアン化鉄とグラフェン間の電子移動が
阻害され一方、サイクリンA2を加え、ペプチドがグラフェン表面から脱着すると、電子移動
が起こり、電気化学的にサイクリンA2が検出できる。この方法で、がん細胞の有無の検出や、
正常細胞とがん細胞の識別が可能となる。また、GOの代わりに、金属ナノ粒子を用いたサイ
クリンA2の検出も試みている。この系の利点は、金属ナノ粒子間の距離に依存した表面プラ
ズモン共鳴による色調の変化を利用することで、サイクリンA2の有無が目視で確認できる。
一方、この方法によるサイクリンA2の検出張県は40nM。また他の検出原理と比較してみても、
GOを用いたバイ才センサーでは、蛍光分子、標的分子、GOを混合するだけで、非常に高感
度な検出を達成できる。今後は、GOによる簡便な検出方法が、抗原-抗体反応などにも展開
されれば、ELISAのように汎用性のあるバイオアッセイにもGOが活用されると考えられて
いる。

 

●グラフェンバイオセンサープラットフォームの構築

この様に、GOと生体分子の相互作用を熱力学的、速度論的に解析と様々な二次構造を有する
DNAとGOの相互作用に関する定量的諸量(結合定数、自由エネルギー変化、エンタルピー
変化、エントロビー変化、反応速度定数、活性化エネルギーなど)を比較することで、DNA
のどのような配列のどのような高次構造が、どの程度の親和性や速度定数をもってGOと結合・
解離するのかを予測できるシステムを構築することが可能になると期待される。また、
グラフ
ェン酸化物と生体分子を用いたバイオセンサーの作動原理と研究例、さらに、GOと生体分子
の結合に関する熱力学的・速度論的諸量の重要性について俯瞰してきた。このような定量的諸
量をデータベース化することで、GOと機能性DNA(特定分子と結合するアブタマー、酵素
機能を持つリボサイム、代謝産物に紹介するリボスイッチ、化学刺激に応答するDNAスイッ
チなど)を組み合わせて、様々な標的分子を迅速に、かつ回時に検出できる新規GOバイオセ
ンシングプラットフォームを開発することが可能となると期待される。



 

 1999.09

【アベノミクス第三の矢 僕ならこうするぞ!】



「病院で死ぬことが普通のことになり、逆に家で死にたいという要望が増えてきた。病院はど
こまでケアすべきだろうか?」という問いかけに、「入院はしない方がよい、病院の制度・運
営をよりオープンにしろ」と語る。

 ●現代人のための、正しい病院とのつきあい方

  これについても、多数派と少数派に分かれると思います。多数派に僕の実感をまじえて
 言いますと、今の病院制度というのは、個々の医者が立派であるとか、腕がいいとか、技
 術的に優れているとかというようなこととか、看護婦さんが親切だとか、よく世話をして
 くれるとか、そういうことのいかんにかかわらず、制度としての病院を考えると、病気で
 入院するというのは、担ぎ込まれるようにしてそうなったら仕方がないですか、そうでな
 い限りは、入院はしないほうがいいと考えてしまいますね

  どうしてかというと、制度としてよくできていないくせに、医学的な検査は緻密な検査  
 ができるような装置とか、機械とかができている
  検査をしてここが悪い、ここはちょっと欠陥があるとかというのはよく見つけてくれる
 んですけど、それならどうすればいいかという段になると、今のいちばんいいと言われて
 いるお医者さんは、病院の中を社会と考えれば、お前の言うことはもっともだが・・・・・・、
 と
いうような感じなんです。
  つまり、ここに病気があるんだから、これを完全に治さなければ駄目じゃないか。ここ
 に欠陥があるんだから、ここを治さないと社会復帰するのはおかしいじゃないか、という
 ことで、完全に治るまでそこにいないといけない。そういう制度になっています。
  ところが、病院というのは真空地帯で、そこでは日常生活というか、職業について働い
 て帰って休んで寝て、とかいうのはないわけです。入院中は職業について実際の日常生活
 を送っているということはないところでの検査で、欠陥がある、これが治るまで病院にい
 なさい、と言われてもそれは困ってしまいます。特に年をとれば、診てもらえばどこかが
 悪いんだけど、それを我慢しながらというか、なだめながら生活して仕事もやっているわ
 けです。ところが、この日常生活を主に考えるように医者とか病院制度はなってないんで
 すよ。

 ●病気になっても入院はしないほうがいい理由

  いい加減で退院したいと言うと、みすみす悪いとわかっているのに、治さないで帰すの
 は医者の義務として……とか言うから、こっちは、自業自得で病気になったんだから、お
 医者さんに義務なんか負ってもらう必要はないし、ただ日常生活と折り合いがつけられる
 程度でやっていければいいと思うわけです。そんな責任を感じないでくれって言いたいと
 ころなんです。
  特に、医者の言うとおりにしていたら、考えると今の制度では永久に、僕は病院から出
 られないんじゃないかということになっちゃう。
  少しぐらい悪くても、なんとか折り合いをつけて、働いて生活してるんだよっていうの
 が、今の社会のみんなの生き方でしょう。
  それを日常生活と切り離されて真空地帯みたいな生活をしろといわれると、これは駄目
 だ、入院なんかしないほうがいい、強制されてとか、やむをえず行っちゃった、という以
 外は行かないぞ、というのは原則ですね。
  じゃあ、どうすればいいんだということになるわけですけど、僕が思うには、オープン
 にすることだと思いました。 

 ●個性的な看護婦や医者こそ必要だ

  オープンにというのは、例えば私立病院だったら、理事会とか理事とか、お金を出す人
 がいて、そういう人たちの意向で入院費はいくらと決める。そういう制度があって、入院
 させられちゃうことになるわけですね。経営が成り立たないからやむをえないと言うと、
 理事会で入院費が引き上げられる。それは決めても構わないけれども、実際に患者に関わ
 るお医者さんも入れて論議をして、それでお医者さんもやむをえないなと納得してから値
 上げする。せめてこのようにしてほしいですね
  そして、お医者さんは看護婦さんに、個々の患者がそれぞれ違うわけだから、Aさんに
 対してはこれこれの方針で検査をし、投薬している、そういうことでやってくれ。Bさん
 はこうこうだから、ということを伝えて、そういうつもりで世話してくれと、そういうと
 ころをオープンにして看護できるようにする。
  看護婦さんもやっぱりオープンに、看護婦さんの人柄どおり、邪見な人は邪見なりに振
 る舞えばいいと思うんですね。親切な人は親切に、丁寧な人は丁寧に。あまり丁寧じゃな
 い人は素っ気なくていいから、自分の素地の性格そのままで患者さんに接する。それ以上
 のことは要らないと思うんです。今は看護婦というのは、ナイチンゲールみたいに奉仕の
 精神がなければいけないとか、そういうふうに教えるところがあるんですね。
  また、遂に唯物論的、弁証法的看護法を取り入れているところとかもあるんですね。科
 学的看護法というのがあるんですよ。看護婦は情の問題ではない、正確に投薬したり、正
 しい看護をしなければいけないというのもある。僕はこれは両方とも駄目だと思うんです
 ね。
  じゃあ、何がいいんだということになんですが、僕が知ってる看護婦さんは、何がいい
 んだかわからないって言ってます。例えば、ナイチンゲールみたいに親切にすると、あそ
 この病院は看護婦さんがいいから、あそこに入院しようと人気を博した。でも、そういう
 のがいいのかというと、それではホステスと同じようなもので、そういうのはいいとは思
 わないと言うんです。そうかといって、科学的看護法はお話にならない。だから、どうし
 たらいいか、本当にわからないと言っているのを聴いたことがあります。
  それは当然であって、どちらもあまり意識しないほうがいいと思うんですね。そして、
 その人の地でやって、この人の人柄はこうだとわかってもらう。それでいいんじゃないか
 と思います。それ以上のことは無理であって、地で自由に振舞って、しゃくに触ったとき
 は
、「もう、そんなこと自分でしなさい」と言ってもいい。
  これは僕自身の入院体験で実感したところなんです。この人はいいお医者さんじゃない
 の、いい看護婦さんだなあと思う人、いろいろいます。でも、病院という制度の中で考え
 ると、彼らは「こうあるべき」という姿に近づくように求められているところがあります。
 じゃあ、個々の人間の顔はみんな消しちゃって、同じ顔だとして考えた場合には、それは
 ありえない。みんな同じ顔でいろなんて、こんな辻棲の合わないことはないと思ったんで
 すよ。
  自然体で生地のまま、患者個々の状態を考えて振る舞えばそれでいいと思います。

 
 ●入院するならこんな病院

 ・・・ ふだんの生活を短時日に直せといってもそれは無理です。お年寄りはなおさら無理だ
  と
思います。それから、こんな検査、年寄りがやるのは無理だぞっていうのがあるんです
  よ。
胃カメラ飲むぐらいは大したことないんだけど、検査のときは前々の日から食べるな、
  前
の日になったら下剤をかけてお腹の中を空っぽにして、実際に検査するときにはへとへ
 と
になってるのを、グラグラっと回るような機械に入れられて、真横になれとか、少し斜
 め
にとか、その検査が終った後はもう動けないで一日寝てる。こういう馬鹿なことをやる
 ん
ですよ。
  ほんとに大間違いだと思ったのは、いい加減年くった人を身体中検査して、どこか悪い
 ところがないか探す。そういうふうにやって、どこも悪くない、健康だと確かめればいい
 んだというけど、それは大嘘で、四十歳代はまだいいけど、五十歳以降で、身体中調べて
 どこも悪くないなんていう人はいるわけないですよ。どこか必ず悪いところがある。僕な
 んかも厳密にいったら、いいところなんてどこもない。そんなこと厳密にやられたら、死
 ぬまで病院から出られないよって、そういうことになっちゃうんですよ。
 だから、そういう馬鹿なことはしないほうがいいよと言いたいですね。それから、優秀な
 お医者さんというのは、どこも悪くないように責任をもって治す医者
だということになっ
 ているわけですけど、それは違いますよね。年齢によって、この程度
だったら生活できる
 という、そこまでで止めるべきで、あとは注意だけで、できるだけあ
あいう検査はしない
 ほうがいいです。それくらいで、はい退院、というふうにするのがい
い医者ではないでし
 ょうか。今みたいに、真空地帯で非常に厳密に検査やる人がいい医者
だという定義になっ
 ているのは、間違っていると思います。

  こう考えると、入院ということには消極的になっていって、担ぎ込まれたら別だけど、
 そうじゃなきゃしないほうがいいですよっていうことなんです。病院の窓の外はさんさん
 と太陽がかがやき、年若いお母さんが子どもを乳母車にのせて憩っているいい光景が見え
 るのに、自分はもうあの仲間みたいにのんびり散歩できるのは夢なのかなっ、と思ってし
 まいます。自宅の部屋で横になって、窓ガラスの外はすぐ自宅の庭みたいなところで寝て
 いたいというお年寄の我ままがよくわかりました。

                「第13章 病気になっても入院はしないほうがいい理由」pp.219-226

 

 1999.09

「日本は、古いものを残そうとしないのだろう。行政も開発というと、どこも同じようななま
ちづくりをする。地域ごとの特色は近代化とともに消えていってしまうものなのだろうか?」
という問いかけに「心の発達は先に行くことではなくて、どんどんさかのぼっていくことなん
ですね。さかのぼって根拠がわかっていくことだ
」と語る。


 ●新旧対立の考え方は、もう終わりにしよう

  前の話と関連するわけですけど、感覚器官と共に変化するのが人間だと思えば、そうな
 るわけです。だけど、反対のことも言えるので、日本はなぜ古いものを残しているんでし
 ょうか、という言い方もできるわけですね。
  古いものというのは、あまり変化しないもの、人間の精神の働きでも、変化しない部分
 と、極めて着実に外界の社会の変化と共に変化してゆくものがあります。そう考えると、
 日本の場合、必ずしも古いものがだんだんなくなっていっちゃうばかりではなく、少しず  
 つはなくなりますけど、それは逆のことも言えて、日本は高度ハイテク社会なのに古いも
 のを残しているんじゃないか、という考え方も成り立つんです。

                    -中略-


  文明の質として、建物は欧米は石でっくり、日本は木でつくっているという伝統があり
 ました。それは、無生物でつくられているか、植物でつくられているかということです。
 無生物は動かないですから、そういう面もありますけど、感覚的な面でいえば、ヨーロッ
 パの文明、文化は感覚器官の発達でものすごく動きやすいとも言えるわけで、それは両面
 あるでしょう。
  どんどん変化していって一律になっちゃうというのは、感覚作用のことだけで言うと、
 そうなっちゃうわけですよ。だけど、心はそんなに変化しないものだっていうのも勘定に
 入れるならば、これからもそうばかりは言えなくて、感覚器官と共にどんどん発達変化し
 て、しかも同時に画一化していくということも確かにあるでしょう。心としてあまり変化
 しないで残っていく部分もあります。その残っていく部分というのは、内臓はそれぞれ、
  彼は心臓が強かったとか、彼は弱かったとか、腸が強かった、弱かったとかあるように、
 それぞれの個性で違いますが、心は変化が少いですよっていうことです。そういうのは残
 っていくっていうことはあるんじゃないですか。
  例えば、目本の場合はそういうことが言いやすいわけですけど、進歩的だとか、新しい
 ことをどんどん獲得していくとか、逆に保守的で変化しないものばかり求めているとか、
 それらは対立するかのごとく言われることがありますね。僕らも、文明なんていうのは、
 止めようたって止まるもんじゃないよ、とも言いますし、それに対立するつもりで、そん
 なこと言うけど、燃料なんか牛の糞でいいんだ、原子燃料にする必要ないと言う人もいる 
 わけです。
  エコロジーの思想は、文明が発達したから人類は幸福になったわけじゃない、そんなの
 は大して意味がないんだという考え方です。そうすると文明の高度化と、対立するみたい
 になるでしょう。しかし、そんなことは対立ではないんですよね。同じ精神の中の違う部
 分を強調しているだけです
  日本は明治以後、西欧の近代文明と文化に追いつこうとして西欧が幾世紀もかかったこ
 とを一世紀くらいで消化して、その代り、古い伝統的なものを軽んじたり、捨てたりしま
 した。けれど、一世紀くらいの急激な変化くらいでは破壊されないものは、残ってしまい
 ました。それを賞讃する西歌人も、遅れていると感じる西欧人もいます。この問題はいい
 悪いの問題ではなく、特色の問題です。
 
 「進歩」ということは近代日本の合言葉でしたが、文明はますます西欧なみにハイテク化
 し、もっともっと発達していくことに肯定的で、同時に、心の発達にも肯定的だというの 
 が進歩ということでした。
  心の発達というのはどういうことかと言ったら、変化しにくい伝統を掘り下げられると
 いうことです。今までは平安朝ぐらいまでのことしかわからなかったけれども、奈良朝の
 日本人の心がどうだったかということがわかるようになったとか、そういうことです。
  奈良朝よりももっと先の縄文、弥生時代の日本人の心はこうだったということが、石器
 なんかを追究しているうちにわかるようになり出す。それが心が発達する、ということで
 す。
  これは先に行くことではなくて、どんどんさかのぼっていくことなんですね。さかのぼ
 って根拠がわかっていくことが、心の発達ということだと思うんです
  精神の双方向性というか、未来に向かうのと、過去をさかのぼっていく、この両方の動
 き。人類が動物に近かったころはどうだったかとかいうところまでわかってきたというよ
 うになったら、心が大きく、広くなった、発達したという意味合いになるわけですよ。そ
 れと、感覚器官が発達するということは矛盾することではなくて、片方は前向きに発達さ
 せる。もう片方はどんどん過去にさかのぼっていくことが発達だと、そういうふうに行く
 のが進歩的なのだと言うより仕方がないですね。
  だから、どっちでもいいじゃないかって思うんです。資本主義がどうした、社会主義が
 どうしたと言っているのが進歩的なんじゃないんですよ。そんなのはどっちだって同じな  
 んです。
  要するに、視野の幅が広がったということを進歩的と言うのであって、例えば資本主義
 だってそんなにいいもんじゃないなって僕は思っていたんだけど、今度は、社会主義だっ
 てそんなにいいもんじゃないっていうのが、わかってきたと。それが進歩ということなん
 ですね。
  今、小渕内閣だからなかなか不況から脱しないんだと言われてる。僕もそれはそのとお
 りだよって思うけれども、それじゃあ、社民党とか共産党がやったら不況を脱出できるか
 って言ったら、まあ、同じようなもんだよって、僕は思いますね。かえって下手なことを
 するかもしれないよとも思ったりしますから、それはあまり変りないですよね。
  だから、僕はそういう意味でハイテク大賛成で、どんどん変化し発達すればいいと思っ
 ています。
  しかし同時に、僕は今のところ、言葉が主ですけれども、奈良朝以前の日本語っていう
 のはどういうふうだったか、そういうところに突っ込んでいるわけです。そこを少しずつ
 でもはっきりさせていこうと思うことが、僕の考える進歩ということです。

 ●日本語の未来

  方言については、僕の考え方で、あまり普遍性はないかもしれないけれども、方言と民
 族語の違いっていうのは、地続きなんですよ。つまり、これは方言だ、方言だと思ってい
 ると、異国語になっちゃうんです。例えば、対馬海峡で朝鮮半島と日本に分けてみても、
 朝鮮半島側の対馬は朝解語を話し、こっち側は日本語を話すというわけではないんですよ。
 どっちかが有力かということになると、対馬は日本語が有力でしょうけど、もっと先ま
 でいったら、どっちだかわからない。両方に通用するような言葉だったかもしれないし、
 両方に通用しない言葉だったかもしれない。(中略) 民族語の違いと方言の違いは地続
 きで、連続的に変化していくものだと思っています。
  琉球、沖縄語と日本語というのは、言語学者の計算では、七、八千年前にいけば同じ言
 葉に行きつく。それは日本語とも違うし、琉球語とも違う。でも日本語の源なんですね。
 それはそのとおりで、今、琉球方言、沖縄方言なんですけど、これと北九州の言葉ないし
 は南九州の言葉、ないしは東北の言葉はものすごく似ているんです。
  これをさかのぼっていくと、方言と民族語の違いはどこからそうなっちやうかっていう
 のは、なかなか区別はつかないんだと思います。僕は連続的だと思っていますけどね。民
 族語の違いがあるように、それぞれに方言もある。民族語が統一されるということはある
 のかなあというのには疑問が残るし、今のところどんどん分化していく過程にあるように
 思います。だから、これからも方言は残っていくというのが、僕の考えです。
  今の日本社会のように、古いものをどんどん捨ててしまっていると思える時期は、社会
 の変化が急速で著しいときです。でもいつまでもそうかどうかはまったくわからないで、
 また古いものは大切だから残せという風潮になるときがあると思いますね

               「第14章 本当の「進歩」を教えよう」pp.227-233

                        吉本隆明 著 『僕なら言うぞ!』

             
                                                この項つづく

 

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