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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

洗いの文化とデジタル革命

2010年11月09日 | 環境学・環境思想



木枯らしを 突いて走るは 散歩道 シェルの目差し こころ図らん






【洗いの文化】


水はその物理的な力によって物を溶か
し、洗い流し、形状を変えることがで
きる。水の機能だけではなく、水に多
様な象徴的な意味を人は与えてきた。
水は状況を劇的に根本的に変える力を
持ち、そのひとつが汚いものを綺麗い
にし、清める力を持つという象徴的な
力にである。



手を洗う、心が洗われる、身を浄める、
垢を落とす、洗車をする、野菜を洗う。
「洗う」という行為には、「水とのつ
きあい方」が存在し、すべての文化が、
気候、風土などの背景を持って形成さ
れてきた。「洗う」文化も例外ではあ
りえない。「よごる」が一時的・表面
的な汚れであり洗浄等の行為で除去で
きるのに対し、「けがる」は永続的・
内面的汚れであり「清め」等の儀式執
行により除去されるとされる汚れであ
る(主観的不潔感)とされた。

穢れとは、時空・物体・身体・行為な
どが、理想ではない状態・性質になっ
ていることを表す神道の宗教概念であ
り、穢れという観念が日本に伝わった
平安時代で、死、出産、血液などが穢
れとする観念は元々
ヒンドゥー教に由
来し、同じくインドで生まれた仏教に
もこの思想が流入した。特に、平安時
代に日本に多く伝わった平安仏教はこ
の思想を持ち、京都を中心に日本全国
へと広がっていったとされる。


【「よごる」の洗い】

単純な泥汚れ、油汚れ、垢じみた汚れ
などで、汚れが落ちた状態は、目で見
て「きれい」になっている。汚れは不
純物が付着したと考えられ、付着物の
性質に応じた落とし方が開発され、そ
の手段、方法は、様々に変化し現在に
至っている。しかしながら、戦後復興
の高度成長過程で、それまでの井戸か
水道に切り替わり、
洗濯板や盥(たら
い)での衣服類の洗濯作業が消え自動
洗濯機に置き換わっていく。そして、
土間が消え竈が台所などの水回りの

などの家事風景が電力・ガス・上下
水道などの生活基盤整備の拡充や電化
機器製品などの進歩により激変する。

こうして、それまでの多くの消費過程
での重労働から解放されて行くなか、
もっぱら主婦の仕事のウエイトは育児、
教育に、或いは、生産過程へ進出し、
高度成長を担いつつ現代の高度
消費社
に至る。日本人は韓国の人と同様に、
白いものは清潔だという感覚がある。
白い綿布に染着させると紫外線を吸収
し可視光線に変えるドイツで開発され
た蛍光漂白剤が1953年頃、粉石鹸に添
加された。本来、木綿の白布を洗うと
黄色くくすんむが、この石鹸で洗うと、
黄色っぽい木綿が白く見えるが本来的
な清浄とは異なる。これは「白いもの
はより白く」との感覚が根底にあり、
白色信仰があるといわれ、例えば化粧
石鹸も、圧倒的に白が多く、白でない
となかなか消費者が買ってくれないと
いう実情がある。

海外旅行ですぐに気づのが、風呂、ト
イレなどの水回りの違い。日本のよう
に水を使わない、それは韓国でも同様
で、さらに水質が悪いという体験をす
る。例えば、英国では食器はすすがな
い、また入浴といってもシャワーで済
まることや、洗濯方法も独国では90℃
程度の高温洗濯の「煮洗い」、米国は
60℃の「湯洗い」で、漂白剤をジャン
ジャンと使うから清潔意識の実情が大
変違う。

さらに、戦前から技術があまり進歩し
なかったが石鹸に香料が入る。戦後、
欧米からいろいろな石鹸が入ってくる
と、どれもいい匂いがして、それが商
品開発の刺激となり、現在あるラベン
ダなどの花の匂いはすべて戦後から始
まった。石鹸や香水には、40から60く
らいの物質が調合され匂いで付加価値
をつけようという競争が激化していく。
また、「粉末から液体への転換」「容
器のプラスチック化」という消費性向
が大きく寄与している。

1983年に厚生省(当時)が『洗剤の毒
性とその評価』を提出され、奇形や慢
性毒性の問題が否定され国の見解とい
うことで、全国の消費者運動は次第に
沈静化してゆく。今後は、少量の水で
いかに洗うかというテーマになってく
る。洗うということは、究極的には水
の問題で、電機メーカーは「洗剤のい
らない洗濯機」を考え「洗濯機のいら
ない洗剤」を考える。結局、今後はど
こに技術のテーマがいくかというと「
使い捨て問題」だ。さらに言えば、い
つか化石資源依存から脱却しなければ
ならない時がくるだろう。

【「けがる」の洗い】

もう1つは、心にまつわる「穢れ」に
ついて。穢れは精神性の汚れであり、
宗教や信仰とも密接な関係を持つ。穢
れが意識されると、その穢れを払う宗
教的な機能も発達していったことは想
像に難くない。穢れを払った後の状態
は「清い」と表現される。現在生活し
ているこの社会の意味の体系も、すべ
てが合理性のなかに回収できるもので
はない。近代以前や未開の人々からみ
れば重要な概念であった。穢れたもの
は、それに物理的または精神的に触れ
ることによって穢れが「伝染」すると
見なされている。また現代人にとって
は、手や体を水で洗うことは病原体を
洗い流すためと説明できるが、古代人
にとってはそのような意味はなく、目
に見える汚れを落とすと同時に、穢れ
を祓うことでもあると考えられた。

これは現代でも
潅頂洗礼を始め
様々な宗教儀式に名残を留めている。
神道の「罪穢れ」のように罪と穢れを
同列に扱う考え方も、古代には特殊な
ものではなかったと考えられている。

日本は風土が森に恵まれ、山に覆われ、
豊かな水、清冽な水に昔から恵まれ、
禊の水もそうで、本来はやはり水の内
面的な浄化力に対する信仰だった。そ
れが、だんだんと薄れ、かつて日本人
が持っていた水の内面性に対する信仰
が、文明が発達するにしたがい衰え、
代わりに、健康志向の飲み水が商品信
仰として代わってきている。飲み水と
しては、清潔で衛生的な水のほう良い。



文化人類学者のメアリー・ダグラスの
『汚穢と禁忌』(塚本利幸訳、思潮社、
1995)では、リスク感覚と穢れと秩序
の関係に注目し。穢れたものは危険な
ものでもあったが、その穢れや危険と
捉える感覚と意思決定は文化により異
なることを指摘した。これを彼
女は世
界各地の原住民の生活等から導き出し
たが、「公衆衛生」観念が誕生する前
は、安全の保証と「穢れを浄める」こ
とが、同じレベルで用いられ「汚穢(
(ダート)とは本質的に無秩序である。
絶対的汚物といったものはあり得ず、
汚物とはそれを視る者の眼の中に存在
するにすぎない」「従って汚物を排除
することは消極的行動ではなく、環境
を組織しようとする積極的努力なので
ある」(33~34頁)」と述べている。

また、「水が欠乏している風土、つま
り砂漠に生きる人々にとって、唯一価
値のある源泉は地上にはない。地上に
は何もない砂漠だからこそ、天上の彼
方に唯一の絶対価値を求めるようにな
る。一神教の風土的背景というのは、
まさにここにある。これは理屈ではな
い。行ってみたら実感として分かる。
水の有無というのは、そこに住んでい
る人間の信仰から死生観、自然観から
美意識まで、何から何まで方向づけて
いる決定的なも。水は人類の文化や文
明のもっとも根底に横たわっている
ものではないか」とイスラエルを旅行
し、決定的ともいえる感想を宗教学者
山折哲雄
インタビューで応えてい
る。

ガリラヤ湖  ガリラヤ湖

つまり、禊ぎたいがそれが叶わぬ「水
無し風土」という刀で「今から2千年~
2千5百年前、人類を救済するための優
れた思想・宗教というものは、砂漠化
している風土の中から生まれたのです
(中略)そういうことを、最近の環境
論者は忘れているのではないかと思い
ます。日本は水や森が豊かにあります
が、そういう森と水の風土からは、歴
史的にいえば真に創造的な人類を救う
ような骨のある思想は出てこなかった。
ですから日本は、いつまでたってもモ
ノの輸出しかできない。この豊かな、
飽食に慣れきった日本というのは、本
当の意味で豊かになれないのではない
か。もっと砂漠化が進んで、その困難
を引き受けるような生き方をしなけれ
ば、いつまでたっても甘い環境論の域
を出られないのではないかと思ってい
ます」「われわれの神道の伝統は、そ
のような可能性を持っていると思いま
す。今から一万年以上前に遡れば、キ
リスト教も仏教も存在していない。『
万物に命あり』という原始神道的な信
仰だけが存在していたはずです(中略)
現代の日本人がイメージする神道のい
けない点は、国家と結びついてしまう
こと。国家と結びついた時に、原始神
道的な感覚は堕落してしまう。そうい
う危険性、弱さが本来的にあります。
ですから、文明の側で、それをよく自
覚していないといけない」と切り返す。

「涙は水でしょう。その涙はきわめて
人間的なもので、しかも根元的なもの
に通じているという気がしますね。毎
日の生活で涙を流すことなしには生き
ていけないという、そのわれわれ自身
の体験に戻らないといけないと思いま
すね。そこをきちんと見つめることが、
水の根元的な問題に目を向けるという
今日的な問題にもつながる」と結ぶ。

【洗いとデジタル革命】

清潔感が社会の水の消費を左右するな
らば、少しばかり「洗う文化」「洗う
感覚」を見直して、バランスの取れた
ものにしていきたいものである」との
期待感や「清潔と衛生」とが混同され
る過剰な‘白もの信仰’意識を拭い去
ることができるだろうか。その根拠は、
高度情報技術社会即ち『デジタル革命』
の渦中にある産業構造に求められる。

所謂半導体素子は、半導体による電子
部品、または電子部品の根幹である機
能中心部の素子である。半導体の電子
工学的な特性を利用した固体による電
子回路の主要な構成要素であり「ソリ
ッドステート・デバイス」とも呼ばれ
たりするが、半導体素子にはトランジ
スタや集積回路(IC・LSI)、抵抗、コ
ンデンサなどがあり、テレビ受像機、
携帯電話、コンピュータといった電気
製品(電子機器)のほとんどに内蔵さ
れ、さらに自動車や各種産業機器など
にもコンピュータなどの形で組込まれ
ており、その工学上の重要性は大きく、
経済上の重要性も大きく、世界の半導
体市場の売り上げは2009年で2,284億
ドル(約20兆円)でこうした半導体素
子のもつ産業上の重要性のことを指し
「半導体は産業の米だ」等と言われる。

ここでの世界では、「洗浄」とは「所
望する表面に仕上げること」と定義さ
れ、単なる水洗いや濯ぎと趣をことに
し(例えば、超純水は、不純物を含ま
ず電気を通さない腐食液といえる程)、
結晶方位、表面粗度形状、パーティク
ル(ゴミ)の付着、電気的的特性など
ナノレベル(10-9m)サイズの領域を取
り扱う。その製造空間では一切の汚れ
は排除される。逆説的にいえば「信頼
性と製造コスト」のバランスの上にあ
るといえる。従って、そのような現場
から生まれる極端な非寛容な排除主義
的ともいえる産業的価値観に支配され、
社会文化的側面を形成する。まぁ、し
かし半導体とは純粋なシリコンに極微
量の許容不純物を混合させて機能させ
ているから「絶対矛盾の自己同一」的
世界といえるかもしれないが。^^;

ともあれ、このことは『デジタル革命
』の基本特徴の第1則の「シームレス
」とシンクロ或いはハウリング的現象
を惹起させるから、この先はどうなる
だろうか?結局のところ「素敵な均衡
」の発見が高付加価値として追求され
る時代にるだろうか。

               

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