徳丸無明のブログ

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ららら科学の子――我等が内なる鉄腕アトム③

2017-07-12 21:44:14 | 雑文
(②からの続き)

日本人は無宗教だ、とよく言われる。それは半分正しく、半分間違っている。キリスト教やイスラム教のような、確固とした教義・体系を有する固有の宗教の類であれば、確かに奉じてはいない。
しかし、信仰心がないというわけではない。固有の宗教をもたないから、その時々で「恐ろしいもの」を神として崇め奉ってきたのである。それは熊であったり、卑弥呼であったり、藤原氏であったり、天皇であったりしてきたのだろう。コロコロと崇拝の対象を変えるその移り気な態度は、クリスチャンやムスリムの目には無宗教に見えるのだと思う。
(蛇足になるかもしれないが、先程少し触れたように、アメリカと原子力と金は、キリスト教の三位一体と奇妙な符合をなしている。父なる神(ヤハウェ)がアメリカで、その父に遣わされた子(キリスト)が原爆(=原子力)、そして聖霊が金である。聖霊は増殖するものとされているが、金もまた増殖する)
「原発=原子力」が宗教だとすれば、そこから脱原発を実現する方法も見えてくる。原子力産業を食い扶持にしている人々を経済面で批判するのではなく、原子力村の住民のもたれ合いを倫理的に批判するのでもなく、宗教的観点からの乗り越えを模索すればいいのだ。
一つのやり方としては、これまでそうしてきたように、原子力に代わるほかの「恐ろしいもの」を見出す、という手法が考えられるだろう。
日本人が様々な対象を崇拝してきたのは、各時代ごとに「恐ろしいもの」が違っていたからだ。だから、原子力以外に「恐ろしいもの」を見付けることができれば、原発は崇拝の対象ではなくなる。
だが、それは高い危険性を伴う。原子力に代わる恐ろしいものは、原発よりもリスクが高い代物であるかもしれないのだ。脱原発を果たすために原発よりも危険なものを導入するのは、本末転倒である。
もう一つ考えられるやり方は、キリスト教やイスラム教のような、確固とした宗教を国教とすることである。ヤハウェやアラーを「畏れ」ていれば、原発などどいう現世的なものを崇拝せずにすむ。
日本には一神教は馴染まない、ともよく言われる。だが、中世の時代にはキリシタンが弾圧を受けるほど増加していたこともある。だから、必ずしも一神教は無理、と断じることはできないと思う。
しかし、それはどれだけ現実性があるだろうか。これまでずっと無宗教で来たのに、今更急に宗教を持つことなどできるだろうか。それに、基本的に宗教とは、魅入られることによって信仰するようになるものであり、脱原発という実利的な目的のために信仰するものではない。そんな動機では本気で信奉することなどできないだろう。
では、一体どうすれば?我々は鉄腕アトムを手に掛けるしかないのだろうか?
おそらくそれは不可能だ。被崇拝者が、「恐ろしいもの」を殺めるのは、原理的に言って難しい。
さて、話はここでまたも中沢新一に戻ってくる。中沢は、東日本大震災を主題として行われた内田樹と平川克美との鼎談本『大津波と原発』の中で、次のように述べている。


宮沢賢治みたいな人が東北をどうするかって考えていたのは、こういうときのためなのだと思うのです。イーハトヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。
宮沢賢治はそういう思想を童話で表現しておいたから、甘い話だなんて思う人もいるかもしれないけれど、彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です。


宮沢賢治の思想が、東北復興の礎となる?
小生は以前、「映画『シン・ゴジラ』評――修羅が再び日本を壊す」という評論を書いた(2016・12・19、20)。その中で、『シン・ゴジラ』に宮沢賢治の詩集『春と修羅』が出てくること、その『春と修羅』の中で、賢治が自分は修羅であるとの名乗りを上げていること、そして、修羅とはまさしくゴジラそのものであり、〈宮沢賢治=修羅=ゴジラ〉の等式が成り立つことを述べた。しかし、それが何を意味するのかまでは分析できずじまいであった。
その未解決の議題が、ここに来て結びつきを見せようとしている。
地震と原発によって破壊された東北が、賢治の思想によって復興を果たす。それはつまり、これまで信奉されてきたものが新たな信仰にとって代わられるということ。「原発=原子力」を崇拝する宗教から脱却し、賢治の思想こそが信仰の対象となるということではないか?
〈宮沢賢治=修羅=ゴジラ〉という等式は、賢治がゴジラのような厄介で恐ろしい存在だというのではなく、賢治の思想が「ゴジラ=原発=原子力」の信仰の代替となりうる可能性を秘めている、という暗示だったのではないか・・・。
この解釈は牽強付会だろうか。しかし、中沢の主張は魅力的だし、希望に満ちている。
小生は不勉強なので、賢治の思想がどのようなものなのか、その詳細を知らない。だが、おそらくそれは、「原発=原子力」信仰のような、一神教的で、環境破壊を厭わないような乱暴なものではないだろう。もっと博愛的・寛容的で、より多くの人々、より多くの生物との共生を目指す思想であるはずだ。
日本人が本当に「原発=原子力」の信仰を捨て、賢治の思想を頂くようになるのか。それにどれだけ現実性があるのかは、よくわからない。ひょっとしたら、甘い夢物語なのかもしれない。
だが、それが日本にとって最も望ましい選択肢であることは間違いないだろう。だとすれば、現実的であるかどうかの議論を重ねるよりも、実際に現実に導入していく働きかけこそが求められるのではないか。
しかし、だ。どのようにして「原発=原子力」信仰に賢治の思想を対置させ、止揚を果たせばいいのか。その筋道がわからない。
肝心なその点だけが。うーん・・・。


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