徳丸無明のブログ

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ららら科学の子――我等が内なる鉄腕アトム②

2017-07-11 21:38:30 | 雑文
(①からの続き)

「核の平和利用」の名目による原子力エネルギー利用を決定づけた原子力基本法が成立したのが1955年12月のこと。この法律によって今日にまで至る原子力発電所を中心とした我が国のエネルギー政策が規定された。
この前年の3月には、ビキニ環礁での第五福竜丸被曝事件が起こっている。原爆を投下された戦争の記憶がまだ生々しい中、しかも、原水爆の悲劇を新たにした被曝事件の直後において、原子力政策の施行が決されたのである。
この時に国会の中と外で温度差があったわけでもなく、国民の間でも当法はおおむね好意的に受け入れられたという。「被爆国たる日本こそが核の平和利用を率先して推進する使命を背負っているのだ」。このロジックは当時から既に使われていた。
「攻殻機動隊」や「×××HOLiC」などのアニメ脚本家として知られる櫻井圭記は、その著書『フィロソフィア・ロボティカ』の中で、鉄腕アトムの英語名が「astro boy」であることを挙げ、アメリカを含む西洋圏の方が、被爆国である日本よりもむしろ「atom」という言葉の使用に慎重であるように感じる、と述べている。
鉄腕アトムの漫画が(最初は「アトム大使」というタイトルで)発表されたのが1951年のこと。日本初のTVアニメにもなった同作は、子供達におおいに愛され、手塚治虫の代表作のみならず、日本の漫画のアイコンとなった。
被爆国であるはずの日本が、なぜだか原子力に抵抗が薄い。それどころかむしろ、原子力にあこがれを感じ、積極的に社会に取り入れようとしてきたように見える。これは一体、どういうことなのだろう。

原始社会において、崇拝の対象、つまり神として崇められてきたのは、多くの場合野生動物、特に肉食獣であった。
その中でも、世界中で広く崇拝されてきたのが熊である。巨大な肉体を持ち、人間とは比較にならない力を備えた熊は、恐怖の対象であるとともに、狩りによって肉と毛皮をもたらしてくれるありがたい存在でもあった。
肉と毛皮が手に入るというだけならば、草食動物でも同じである。熊が崇拝されてきた要因は、何よりもその強さにあった。
「恐れ」と「畏れ」は、意味は違えど同じ読みである。このことは、2つの「おそれ」は同じ一つの根元から発生しているということを示している。「恐れ」と「畏れ」は、一つの感情をそれぞれ違う態度で発露したものなのだ。
それはつまり、人は「恐ろしいもの」を「畏れ」ずにはいられない、ということである。恐怖を感じたその瞬間、人はその対象を「畏れ」ている。
外敵から身を守る術が乏しかった原始社会では、人間が肉食獣に食い殺されることも珍しくはなかっただろう。人間にとって熊は恐ろしい存在であった。同時に、人間とは比較にならないその力に、魅入られもした。だから、神として「畏れ」た。
動物のぬいぐるみの中で、圧倒的に人気が高いのが熊である。動物の種類はそれこそ無数にあるにもかかわらず、ことぬいぐるみの数に限って言えば、熊は他の動物を圧倒している。熊だけでシェアのほぼ100パーセントを占めているのではないかと思えるくらいだ。熊のぬいぐるみにだけテディベアという総称があることからも、それは明らかだろう。
宗教学者の中沢新一によれば、これは熊が原始社会に生きていたころの記憶と深く結びついているからだという。熊を神として崇めていた頃は、熊の毛皮を直接的に、神棚や仏壇のようにして、身近なところに飾っていた。そのことによって、熊の力を我が物にしようとし、同時に一種の魔除けの効果も期待されていた。ぬいぐるみの中で熊の人気が圧倒的なのは、その原-記憶が人々の遺伝子の中に深く刻み込まれていて、無意識の願望に訴えかけてくるからだという。(『熊から王へ――カイエ・ソバージュ2』)
おそらく、ゆるキャラのくまモン人気にも、この深層心理が影響しているのだろう(熊本は、県名に「熊」の字が入っていたのが幸運であった)。
もちろん強い力を持つ肉食獣は、熊以外にいくらでもいるのだが、ライオンやチーターなどが生息するアフリカは、ぬいぐるみを製造・販売するほど文明レベルが高くない地域が多いし、また、熊は他の肉食獣よりも生息域が広いので、神として祀られる割合が高かった、という背景もある。

人間は、恐ろしいものを「畏れ」ずにはいられない。
武功を成した戦国武将は、のちに神社に祀られてきたし、連続殺人鬼のような凶悪犯罪者にファンが付くのも珍しいことではない。
神は人間を守ってくれるありがたい存在であると同時に、祀り方を誤れば災いをもたらす恐ろしい存在でもある。これは、良い悪いの問題ではない。この二律背反の感情は、抜き差しならないものとして、人間の脳内にインプットされている。
1945年、原子爆弾を投下された日本人は、その強烈な力に打ちのめされた。その破壊力・殺傷力に、恐怖を覚えずにはいられなかった。「恐れ」てしまった以上、「畏れ」ずにはいられない。かくして、戦後の日本社会において、「原爆=原子力=原発」は、神として崇められることになる。
戦後の日本は、アメリカを崇拝してきた、ともよく言われる。「資本主義教」、もしくは「現金崇拝教」になって金を崇めてきた、とも。
原爆を投下したのはアメリカだし、勤勉に働いて稼ぎ、競争し合う資本主義によってより豊かな社会が築けると、その資本主義による物量・パワーこそが太平洋戦争の帰趨を決したのだと教えたのもアメリカである。おそらく、「アメリカ」「原子力」「金」の三者は、日本にとって相補関係にある(三位一体?)。
戦後の日本は、全国各地で原発の建設をコツコツと推し進めてきた。それはあたかも、神の依り代として集落ごとに神社を建立するように。もしくは、寝室にテディベアを飾るように。
中沢新一は『日本の大転換』の中で、石炭や石油などの化石エネルギーは生態圏の内部のエネルギーだが、原子力は生態圏の外部の太陽圏に属していること、その在り様は極めて一神教的であることを指摘している。
それはどういうことかというと、石炭や石油は動植物の死骸が長い時間をかけて分解されたことによって生み出されたエネルギーであり、生態圏の循環の中にあるのに対して、原子力は核融合という地球のマントルや太陽内部で起きている現象を持ち込んだものであって、太陽圏のそれであるということ。また、アニミズムや多神教の神々は、暴風や洪水などの災害を及ぼすことはあるものの、それはあくまで自然現象の範囲内であり(だから、台風や津波の象徴がアニミズム・多神教の神であるという)、基本的には降雨などの恵みをもたらす存在であるのに対して、一神教の神は、究極的な破局をもたらす極めて危険な存在であるということ。ゆえに、原子力は一神教的であり、人類を破滅に導きかねないエネルギーだということである。
日本社会が東日本大震災を経てもなお脱原発へと舵を切れない理由。それは、日本にとって、「原発=原子力」が宗教であるからだ。原発に問題があると頭で理解していても、それでもやめることができないのは、それが理性を超えた「何か」であるからだ。宗教は、理性を超えるものである。だから、「原発=原子力」が宗教だと捉えれば、囚われ続けていることの説明がつく。(日本政府が核廃絶に消極的なのは、アメリカ追従だけが理由ではないし、右側の人達が核武装を訴えるのも、国粋主義的願望だけが要因ではないだろう)

(③に続く)


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