徳丸無明のブログ

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女性の社会進出が達成された先に待ち受けているかもしれないこと――「解放」の原理のために

2023-05-01 22:46:03 | 雑文
宮台真司と野田智義の共著『経営リーダーのための社会システム論――構造的問題と僕らの未来』(光文社)を読んだ。
この本は、社会学者の宮台と、特定非営利活動法人ISL(アイ・エス・エル)創設者の野田が、次世代の経営リーダー育成を目的として、大学院大学至善館で開催した講義を収録したものである。この中の第3章「郊外化がもたらす不全感と不安」で、話題が秋葉原通り魔事件に象徴される無差別殺人に及んだ際、宮台が、人は進化生物学的に集団でいるほうが生存確率が上がるため、孤独を苦痛に感じやすくなっているが、現代では社会的つながりが希薄な者が増えており、そのことが様々な社会問題の大本となっているとして、次のように述べている。


僕が1980年代に幾度かやった大学生を対象とした大規模統計調査では、男性よりも女性の方が友だちが多いのです。つまり、孤独というファクターについて見ると、男性の方が孤独にさいなまれやすいことがうかがえます。
じゃあ、それはなぜか。もちろんゲノム的ベースの違いも考えられますが、社会学者の多くが注目するのは、ジェンダー・ディスクリミネーション(社会的な性差別)です。男性は差別されない分、高いポジションやステータスを手に入れやすい。女性は差別される分、低いポジションやステータスに甘んじなければならない。
(中略)男性は友だちが少なくても孤独でも、競争に勝っている限りにおいては「俺は勝ち組だ」と思っていられます。しかし、女性に比べれば「勝って当然」ですから、勝ち組になれなかったら一気に丸裸になり、相対的剝奪感を抱きやすくなります。
他方、女性はもともと社会的上昇の可能性が低く抑えられているため、しあわせに生きていくには、男性が注目しにくいファクターを大切にして、友だちもたくさんつくるし、人間関係も大切にしなければならない。だから、勝ち組になれなくても相対的剝奪感は抱きにくい。「弱者は、システム世界=法よりも、生活世界=掟を頼る」というのが社会の摂理です。
(中略)
ピースボートという国際親善のための世界一周の船旅があります。何度か乗りましたが、このクルーズは3カ月かけて各地を巡るので、参加者に現役世代はほぼいません。乗っているのは高齢の夫婦ばかりです。食堂に行くと、同じテーブルで食べている夫婦は少なく、高齢女性のグループと、高齢男性のグループに分かれます。ところが、おばあちゃんたちのテーブルでは誰もがにぎやかにしあわせそうに食べているのに、おじいちゃんたちのテーブルでは会話がまったく交わされません。


宮台はさらに、かつて仕事を引退した高齢者には、孫の世話をするなどの家族・親族内でのポジションや、囲碁や将棋のクラブなどの地域の集会所があったが、今やそれらはほぼ消滅し、高齢者を包み込む中間共同体がなくなったことを指摘。そのことがカスタマー・ハラスメントを繰り返す高齢男性のクレーマー増加につながっていると述べているのだが、この箇所を読んで、ふと思った。
今後女性の社会進出が進めば、女性の自殺率は男性並みに高くなるかもしれない、と。
周知の通り現在の日本では、女性が社会的に低い地位に甘んじることを余儀なくされている。世界経済フォーラム(WEF)による、男女間の格差を示すジェンダー・ギャップ指数は、2022年に146か国中116位。管理職でも政治家でも女性の比率は低く、日本社会における男女の非対称性の端的な表れとされている。それゆえ目下、このアンバランスを解消すべく、ギャップの是正を訴える声が国内のそこかしこで上がっているのだ。
社会で高いステータスを手に入れることを社会進出と定義するのであれば、確かに日本の過半数の女性は社会進出できずにいる。これを議論の余地のない社会問題と認識する人々が、日本をもっと女性が活躍できる社会に変えるべく、各方面で取り組みを行っているのだ。しかし、本当に女性の社会進出は進展したほうがいいのだろうか。何か陥穽がありはしないだろうか。
この点を考えるのに先立って、まず自殺について検証を加えたい。現代の日本では、女性より男性の自殺者数が多く、特に中高年男性の自殺率が突出して高い。それは、男性の社会的特権の代償だ。
厚生労働省自殺対策推進室のデータによると、2022年度の男性の自殺者数は女性の約2.1倍。年齢階級別では、40代と50代が最も高く、それぞれ3551人と3827人(女性では1456人と1685人)。コロナ禍によって女性の自殺者数が増加傾向にあるというが、それでも過去100年分のデータ(2010年以前は厚生労働省ではなく、警視庁の統計)を見ると、男性の自殺率は概ね女性の2倍~3倍弱で推移している。
自殺の動機は様々だろうが、男性の場合、社会の中で高いステータスを手に入れる権利を保障されていることの代償として孤独になりやすい、というのが大きな要因として考えられる。
職場の中で上を目指すには、他人を蹴落とさなければならない局面もある。それゆえ、高いステータスを手に入れんとする男性にとって、同僚は親しい関係を構築する相手ではなく、競い合い、反目せねばならない対象であったりする。
そして、その代わりに会社の外では親しい人間関係を築いているかというと、必ずしもそういうわけではなく、1日の大半、人生の大半を仕事に費やし、私生活の中身はスカスカだったりする。仕事で成果を出せは出すほど上に行ける。長時間働けば働くほど成果が出せる。だから成果を出し、上に行くにはできるだけ長時間働かないといけない。だから上を目指す男性は、私生活を犠牲にして仕事に没頭するのである。「過労死」が日本生まれの言葉として世界に知られるようになったのは、故なきことではない。働き方改革などの意識改革によって、労働時間の見直しや、残業の削減・廃止など、職場に長時間縛りつけられないための取り組みが徐々に進展してはいる。しかし、根本のところで「滅私奉公」を良しとする固定観念は、未だ強固に息づいているのではないだろうか。
ただ、社会的上昇を至上とするのであれば、それでもいいのだ。友達を増やすより、出世のほうに重きを置いており、本人がそれに心から納得しているのであれば、他人がとやかく言うことではない。
しかしそれは、「順調に出世するなら」の話。思うように出世できないこともあるし、不況や経営不振によって左遷、もしくはリストラされたりすれば、男性は、自分を包み込んでくれる人間関係を持たないまま会社の外に放り出されてしまう。社会の中に満足できる居場所を持たず、親しい友人もおらず、ただ孤独な「個」として投げ出されるのだ。それが何を帰結するか。
さらに言えば、運よく社会的上昇を遂げ、高いステータスを手に入れたとしても、結局は退職するまでのこと。いずれ必ず、職場を去らねばならない時がくる。定年を迎えれば、会社の中でどのような地位にあったかとは無関係に、やはり孤独に陥りやすくなる。会社の外の関係、友達などの人間関係を築いてこなかったツケが、一気に巡ってくるのだ。
孤独は、希死念慮を招きやすい。全員が全員ではないにせよ、孤独であればあるほど自死を意識しやすくなる。
このように、中高年男性の自殺率の高さは、男性中心社会の代償としてある。親密な人間関係よりも、社会的ステータスを優先する生き方を理想として選び取ってきたこと。もしくは、選び取るよう差し向けられてきたこと。それが中高年男性を自殺へと追いやる主な要因なのだ。
年配の男性の中には、最近の若者が仕事より私生活を充実させたいと考えていたり、出世をあまり望んでいないことを嘆く人もいる。「今の若い連中は根性がない」と。しかし、なるだけ長時間働き、上の役職を目指すということは、私生活での人間関係を切り詰め、過労死や孤独による自殺の蓋然性を高めてしまうということに他ならないのだ。だから僕は、勤労を美徳とする価値観は過労死の容認につながりかねないし、日本人はもっと仕事から離れるべきだと思っている。

かつてフェミニズム運動華やかりし頃、「女性解放」が叫ばれる裏で、「男性解放」を訴える声が一部に存在した。1970年代のことで、僕はそれをリアルタイムで体験しているわけではないのだが、フェミニズムの徹底のためには、女性解放のみならず、男性解放も不可欠ではないか、という議論であった。
男性中心社会における、男性が排他的に占有する特権。それが男性にとって重荷になっているから、そこから解き放たれねばならないという、「解放」の提唱がなされたのだ。特権は有益なものではなく、むしろ負担なのだと。
男性中心社会において、男性は多くの規範を求められる。いわく、「男は強くなければならない」「男は戦いに勝ち残らなければならない」「男は泣いてはいけない」。これらの規範を鎧として身にまとい、男性は社会に出てゆく。現在ではこれらの規範は旧弊な因習として表向き否定されてはいるが、「暗黙のルール」として未だそこかしこに息づいている。男性の育休取得率が女性と比べて著しく低いのは、この暗黙のルールのプレッシャーによるところが大きい。70年代当時からこの鎧(=規範)の重さに悲鳴を上げていた男性は少なからずいたし、現在ではさらに増加傾向にあるだろう。
権利には、必ず責任が付随する。男性としての特権を享受したいのであれば、鎧の武装は必須なのだ。しかし、鎧の重みに耐えられない男性もいるし、そもそも鎧なんか着込みたくない、という男性だっている。逆に、この規範(=鎧)に従順な男たちほど、よく些細なことで諍いを起こす。それがエスカレートすると喧嘩になり、運が悪いと死に至る。この規範のせいで死んでしまう男性もいるのだ。戦争だって、男同士の馬鹿げた意地の張り合いの延長線上に起こるものだ。馬鹿げたものを馬鹿げていると認識できないが故の悲劇。それは今もなお、多くの人を死に至らしめている。だから、鎧を身にまとうことの必然性が問い直されたのだ。
男性に「男らしさ」を強いる社会の不健全さ。「男らしさ」がなければ立ちゆくことができない社会構造の理不尽さ。これらに疑問符を突きつけ、本当はなくてもいいもの、むしろないほうがいいものを無条件に当為としてきたのではないか、という問題提起を行うこと。これが男性解放の主題であった。それは女性解放における「女らしさ」の拒絶と対を成すものでもあった。
男性解放は、男性のためにのみあるのではない。男性解放が進めば、男性が男性規範の軛から解き放たれ、独占していた社会的地位から降りることに抵抗がなくなる。するとそこに、女性が入り込める余地が出てくる。「男は強くなければならない」という規範が自明のものでなくなれば、「強さ」にも「競争」にも執着する必要がなくなる。だから、男性が女性に威張り散らすこともなくなる。
つまり男性解放は、同時に女性解放も帰結するのだ。女性解放も、男性解放も、同じひとつの目標を、違う道筋で辿ろうとした試みだった。輻輳関係にあった、とも言えるだろう。
ともに「らしさ」を否定し、ジェンダーに応じた画一的な規範の押し付けからの脱却を目指した女性解放と男性解放。しかし、翻って現在。今なおジェンダー・ギャップの開きが大きいままに留められ、男性の自殺率が極端に高いままの現状を鑑みれば、女性解放も男性解放も、ともに不徹底・未達成であることに疑いの余地はないだろう。

宮台が紹介したピースボートの光景は、僕にも心当たりがある。僕はかつてホームヘルパー2級(現・初任者研修)の資格を取得したのだが、その過程でデイサービスに実習に行ったことがあるのだ。
デイサービスは、朝に車でお年寄りを迎えに行き、夕方まで食事や入浴のお世話をする。施設に集まったお年寄りは、基本的にみな、広間で半日を過ごす。
その広間での様子が、おじいちゃんとおばあちゃんではまったく対照的だったのだ。おばあちゃんたちはおしゃべりをしたり、趣味に没頭したり、各々充実した時間を過ごしているのに対し、おじいちゃんたちときたら、せいぜい新聞を読む程度で、ほとんどの人が黙り込んだまま微動だにせず所定の席に座り続けていたのだ。その姿は、ひたすら苦行に耐えているかのようだった。
僕がデイサービスを訪れたのはその実習1日だけだし、ほかの施設の実情は知らないのだが、日本中のすべてのデイサービスで毎日そこと同じ光景が繰り返されているであろうことは想像に難くない。ことほどさように、日本人男性は親しい人間関係を築き上げるのが下手なのである。
もし今後、女性の社会進出が進展した場合、女性の自殺者数も、男性並みになりはしないだろうか。女性たちも、高いステータスを手に入れることの代償として人間関係が希薄になり、孤独を感じやすくなって、その結果自殺率が上昇する、ということになりはしないだろうか。
聞いた話では、管理職の女性の中には、男性ホルモンの分泌が増え、生理不順になってしまう人もいるという。人の上に立ったり、あれこれ指示を出したりすることが、女性の身体性に反してしまうこともあるのだ。女性の社会進出は、必ずしも女性を幸せにするとは限らない。
断っておくが、だからといって僕は「女性は社会進出をすべきではない」と言おうとしているのではない。女性側が本気で社会進出を望んでいるのであれば、それは最大限かなえられるよう、社会全体で取り組むべきだと思う。
ただ、今の論調はあまりにも後先を考えなさすぎではないか、と思うのだ。女性の社会進出は良いことずくめで、憂慮すべき点など何ひとつないかのような言い方、女性が活躍できていない現在が問題だらけなのであって、女性が活躍できるようになればそれらの問題がきれいに払拭できるかのような言い方がなされている。その見方は、あまりに単純すぎると思う。
女性の社会進出は、必ずしも良いことばかりとは限らない。少なからず弊害だってあるはずなのだ。その可能性について、考えがまったく及んでいない。これは危険だと思う。実際に女性の社会進出が達成されたあとで弊害に気づいてからでは、色々と取り返しがつかなくなってしまう。
なので、現在の「女性の社会進出を推し進めるにはどうしたらいいか」という議題を、
「女性を不幸にしない社会進出はどのような形になるのか」に置き換えるべきではないだろうか。

先述した「女性の社会進出が進むと女性の自殺率が上昇するかもしれない」というのは、あくまで僕の推論に過ぎない。ひょっとしたら的外れな、単なる杞憂であるかもしれない。
しかしだとしても、「女性が社会進出することで生じる弊害」は、自殺率の上昇以外にも起こりうるかもしれない。僕には今のところ思い浮かばないが、自殺率の上昇や生理不順以外に、何かしらの不幸が女性を襲うかもしれないのだ。だから、真剣に女性の幸福を慮るのであれば、前もってそれらの可能性を加味した慎重な議論をしておくことは、必要不可欠な手続きだと思う。
繰り返すが、「女性の社会進出は必ずしも女性を幸せにしないかもしれない」という考えは、的外れであるかもしれない。しかしそれでも、現在の「女性の社会進出を希求する訴え」はあまりに単純すぎる、ということは断言できる。後先をまったく考えていないのだ。本当にそれで女性が幸せになれるのか、不幸になる恐れはないのか、といった批判的な視点が完全に欠落している。それらの可能性を検討せずして社会進出を推し進めるのであれば、不幸な未来が待ち受けているかもしれないのだ。反動の誹りを免れないかもしれないが、「女性は社会進出しないほうが幸せかもしれない」という批判的視座だってあったほうがいい。あらゆる可能性を排除せずに検討すべきなのだ。
「社会進出を達成するためのやむを得ない代償として、あえて自殺率の上昇などの不幸を受け入れる」というのもひとつの選択なのかもしれないが、そんな未来を望んでいる女性などひとりもいないだろう。
そして、「女性を不幸にしない社会進出」が達成されれば、それは「男性解放」にも寄与するだろう。女性の、自殺率を上昇させない社会進出・人間関係を希薄化させない社会進出が達成され、その筋道が理論化されれば、それを応用することで、希薄な人間関係に苦しみ、自殺に追いやられる男性を救うことができるかもしれないのだ。(より厳密に考えると、管理職の男女比が半々になれば、男性が出世競争から降りることに抵抗がなくなったり、出世競争の苛烈さが緩和されたりすることによって、自然と解放に向かい、自殺者数が減少する、という変化も期待できる)
親しい人間関係を築くことが不得手な男たち。テーブルで隣り合った人と気楽におしゃべりを交わすことができない男たち。孤独に陥りやすく、最終手段に自死を選ばざるを得ない男たち。
これら男たちの不遇は、社会的地位を専横してきたことへの、当然の報いなのだろうか?
そんなことはない。「男はかくあるべき」という社会の規範によって、男たちは高いステータスを目指すよう仕向けられている。たとえその社会設計そのものが男性の手によるものであったとしても、みながみなそれを望んでいるわけではない。好むと好まざるとに関わらず、「男なら当然のこと」として強いられているのだ。拒絶すれば「女々しい」という烙印が待ち受けている。そこには、ほぼ選択の余地はない。
社会設計に携わった人にせよ、女性を締め出したいとか、社会的地位を独占したいといった願望しかなかったわけではなく、女性を養う「強者の責任」を念頭に置いていたはずなのだ。重い役目、厳しい仕事は自分たちが引き受けると。苦役を女性に押し付けてはならない、男性が斉一に担っていればいいと。社会的地位を独り占めしてきた男たちを、単純に悪者として責めることはできない。

「女性を不幸にしない社会進出」はどのようなものになるのか。その設計図はどのような形をとるのか。僕の頭ではうまく想像することができない。専門家の提言を仰いだり、当事者の女性の意見を広く集めるための公聴会を開いたりといった手続きの積み重ねが必要になってくるだろう。
とりあえずできるのは、現状に「まった」をかけることだ。現状は、急ぎすぎている。いや、焦って前のめりになっていると言うべきだろうか。「格差是正」「差別撤廃」の美辞麗句に目が眩み、自分たちが選び取ろうとしている未来の暗部が見えなくなっているのだ。
そのため、とにかく明日にでも女性の社会進出を達成させようと、多くの女性を管理職に就かせ、政治家の過半数を女性に置き換えようと躍起になっている。政治家の男女比を対等にするために、過渡的な対策として、女性に一定の議席を割り当てるクオータ制の導入を訴える人も多い。
すでに女性が社会進出を果たしている――フェミニストの視点からは先進的な――国々と比べれば日本は大きく遅れているわけだから、のんびりしすぎということはあっても、急ぎすぎなどというのはお門違いに聞こえるかもしれない。実際、日本の「遅れ」を指摘する声は多い。3月2日に発表された世界銀行の報告によると、男女の経済面での格差が、日本は190か国中104位。OECD(経済協力開発機構)加盟国内で最下位となった。国際女性デーに合わせてイギリスのエコノミスト誌が発表したOECD主要29か国の女性の働きやすさランキングで、日本は28位。7年連続でワースト2位となった。先日の内閣府による男女共同参画社会に関する世論調査では、男女の地位が平等だと答えた人は14.7%。4年前の前回調査より6.5ポイント減少し、1995年の最初の調査以来、過去最低の水準となった。これらのデータを眺めていると、女性の社会進出の推進は、もはや「まったなし」に思えてくる。
しかし、社会進出が女性を不幸にする恐れがある以上、それは慎重の上にも慎重であるべきなのだ。社会進出の達成とともに自殺が急増するようなことになったら、目も当てられない。女性が社会進出を果たしている「先進的」な国々だって、その代償としてなんらかの病弊を抱え込んでおり、日本のメディアは、その暗部から都合よく目を逸らしているだけなのかもしれない。もしこのような情報の偏向が意図的に行われていた場合、メディアは責任を問われなければならないだろう。一面的な報道で世論を煽ってきたことになるのだから。
だからいったん立ち止まり、「女性の社会進出を推し進めるにはどうしたらいいか」ではなく、「女性を不幸にしない社会進出はどのような形になるのか」を考える。安易な社会進出は幸せより不幸せをもたらすかもしれないという危機意識を持つ。
優先すべきは社会進出ではない。幸せなのだ。


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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
1日しか行かないような場所で (和田ヶゐ)
2023-05-08 19:23:20
隣の人に話しかけるお年寄りの女性を見て(@_@)

これが出来たらナンパなんか簡単に出来るんだろうな

なんて思いながら、それが出来る線のようなものはどこから存在し

どうやってその線を越えられるのだろうかと

思ったものです
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和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2023-05-08 23:33:38
線ねぇ・・・。
人柄なのかもしれないし、経験なのかもしれないし。
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まあ (和田ヶゐ)
2023-05-11 18:15:49
その線をなんと呼ぶかは問題ではなく(@_@)

となりにきれいなねーちゃんが座ったときに話しかけることが出来るかどうかが問題なんですよ!!!

オレなんか顔も見れないです!!!
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和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2023-05-12 00:42:22
まあわかりますよ。
それをどうにかしたいのなら、恥をかくのを覚悟して経験積むしかないんでしょうね。
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 (和田ヶゐ)
2023-05-18 18:25:03
まさに(@_@)

逃げるは恥だがなにがしですね
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