徳丸無明のブログ

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骨と音楽と呪術

2022-04-26 21:44:41 | 雑考
金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)を読んでの気付き。
この本は、考古学・人類学・民族学を専攻し、発掘調査も行う金関が、様々な媒体に発表した、おもに考古学に関する論考をまとめたものである。その中の一章「髑髏盃」で、インド洋アンダマン島のオンギ族や、台湾の高砂族、ヒマラヤ地方などに、人の骨を加工して様々な道具を作る「人骨文化」があるとして、次のような具体例を挙げている。


また、人の大腿骨や脛骨で、笛をつくって、祭りのときに演奏したりする。(中略)
この、人骨で笛をつくる風習は、しかし、この地方だけではなく、近東からアフリカにまでひろがっていて、例えば古代エジプト人は、人間の脛骨で笛をつくり、これを、その骨の名をとって、シビと呼んだ。これは今の脛骨の学名であるラテン語のチビアと同語であり、またその笛が唐代に中国に伝わって、尺八ともなった。「尺八」はチバ、すなわち脛骨からきた西来の名前だといわれている。このように、われわれがいま何気なく使用している品物や言葉にも、人骨文化の遺残はあるのである。


てっきり笛というのは、木をくりぬいて作ったのが始まりとばかり思っていた。しかしこのような文化の存在は、人骨を用いたものが笛の始まりである可能性を示唆している。
原始社会とは、呪術に覆われた社会である。人はみな、この世の理の説明を欲する。なぜこの世界があるのか、なぜ人は死ぬのか、なぜ天変地異は起こるのか。現代の我々には、科学がその疑問に答えを提供してくれるが、科学を知らない社会は、代わりの何かに解釈を求めねばならない。人間は、「わからない」ままではいられないのだ。
そして、科学以外の説明体系となると、基本的には呪術となる。この世は目に見えない力に満ちており、その不可視の力こそが理として万物に働きかけているのだと。
当然、人にも呪力は宿っている。腕力が強かったり、頭がよかったり、権力を有していたりする人ほど、呪力は強いとされる。そういった人々が死後、骨を加工されるのだ。彼らの秘めたる力を我が物とすべく、骨を身近な道具へと加工して身につける。脛骨の笛もまた、そのような意味合いのものであったのだろう。
そうすると、音楽の意味もまた、現在の我々が考えるようなものとは違っていたおそれがある。祭りや儀式などの特別な日にしか音楽を演奏しない部族もあるからだ。
それはつまり、現代日本にとっての娯楽としての音楽、スマホにアプリをダウンロードして、ブルートゥースイヤホンで四六時中気軽に聴けるような音楽とはまったくの別物としてある、ということだ。
儀式としての音楽は、時と場所と手順を慎重に選んで開催される。恐らくは、そうしないと力を正しく使えないから、もしくは、力が誤った方向に流れ、暴発してしまうから、なのだろう。呪術としての「音楽の力」が。
仮に、音楽は元々呪術としてあったとすると、毎日イヤホンから浴びるように音楽を聴いている我々は、少なからず呪力の影響を被っている、ということになる。
「呪力」と言うと、悪しきイメージしか湧かないかもしれないが、必ずしもマイナスの効果ばかりをもたらすものではない。しかし、その力に無頓着すぎると痛い目に合うかもしれない。「骨の笛」は、そんな警告を発しているようにも思える。それとも、骨の楽器を用いない音楽からは、呪力はきれいに祓われているのだろうか。
ちなみに「髑髏盃」には、次のような記述もある。


真偽はわからないが、わが国でも、水戸の常福寺の什宝の髑髏盃について、同じような話が伝わっている。『甲子夜話』などによると、徳川光圀が、自分を裏切った家臣の某を憎むのあまり、年月を経てその死体を掘り出させ、頭骨に金箔をほどこして、盃にしたという。
この盃は一升を容れた。光圀は酒豪であったとみえて、在世中、常にこれを用いて酒を飲み、酔うと、「蓮の葉にやどれる露は釈迦の涙かありがたや。そのとき蛙とんででて、それは己が小便じゃ」と歌っていたそうである。


徳川光圀、つまり水戸黄門ね。光圀って若い頃はけっこうヤンチャで、どこまで本当かはわからないが、ケンカで相手を斬り殺したり、女性を手籠めにしたりしていた、という話も聞いたことがある。
もちろんドラマの「水戸黄門」は史実とは違うんだけど、それにしても実像とのギャップが激しすぎる。
盃にされてしまった家臣は、助さん格さんに懲らしめられたのだろうか・・・ってんなわきゃねえ。


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
歴史なんてそんなもんだし (和田ヶゐ)
2022-04-28 19:10:44
隣人の過去だって分からないんですから(@_@)

歴史なんかわからないことだらけだし、英雄はいい部分だけしかフューチャーされませんしね

サッカーだって、初めは戦争で切り落とした頭蹴ってたって話も聴いたことありますよ
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和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2022-04-28 23:57:51
そうですね、人を殺してはいけないという倫理が生まれたのはごく最近のことで、それ以前に殺してはいけなかったのは仲間(共同体内部の人間)だけで、むしろ仲間が殺された場合は相手を殺すのが倫理だったらしいです。
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そうです (和田ヶゐ)
2022-04-29 21:41:28
今は(@_@)

ルールを守っていてもルールから逸脱した思考だけで異端扱いですから

よっぽど残酷かもしれませんよ
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和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2022-04-29 21:58:43
でも殺されることはないでしょ。
自殺に追い込まれることは間々ありますけど。
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殺されないことが (和田ヶゐ)
2022-04-30 20:42:01
結局平和じゃありませんからね(@_@)

無明さんが言うように、自殺に追い込むこともありますから

残酷さは時として、死よりも恐ろしいことになりますからね

当たり前ですが
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和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2022-04-30 23:48:15
はい、はい。
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