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徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

方言と標準語

2015-09-23 23:21:23 | 雑文
前回、熊本弁について書いた。
今回は方言と標準語について。
日本人は皆、どこの地域の人であっても、日本語で話をすることができる。当たり前に思われているこの状況は、標準語を定めたことによる。
小生が、熊本弁で本州の人に
「そぎゃん心配せんちゃよかよ」
と言う。
本州の人は
「え、なに?」
と訊き返す。で、小生は
「ああごめん、そんなに心配しなくてもいいよ」
と言い直す。
このような会話ができるのは、標準語教育があればこそ、である。
明治以降、日本は東京の言葉を標準語とし、学校教育をこれで行い、新聞その他刊行物も、基本は標準語となった(口語と文語の歴史もあるだろうが、割愛)。その後、順次誕生したラジオ、テレビもそれに倣う。
江戸以前の人々は、地方が違えば会話をすることができず、筆談をしていたのではないか、といわれている(書き言葉は全国共通なので)。
標準語教育のおかげで、日本中の、様々なお国言葉を話す人々同士が、会話することができるのである。
ところで、ひとつ引っかかっていることがあるのだが、この標準語というのは、東京が首都になったことにより選ばれたものである。首都の言葉を基準に据えたわけだ。もしも、歴史の経緯により、京都が首都だったら、京都弁が標準語になっていただろう。大阪や鎌倉が首都になることもありえたかもしれない(歴史詳しくないから何とも言えんが)。
要するに、東京の言葉が標準語になったのは、結果的に東京が首都になったからであり、それまでは東京弁(江戸弁)も、数多く存在する方言の一つに過ぎなかった。
よく地方の人が「訛ってますよ」と注意されることがる。それ以外にも、標準語の、方言に対する優越感を誇示される場面に出くわすことがある。
小生は、それを見るにつけ、
「たまたま標準語に選ばれたぐらいで威張ってんじゃねえよ」
と思うのである。


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熊本弁に「嫌い」はない

2015-09-23 22:29:56 | 雑文
ある日ふと気付いたのだが、熊本弁(及び、それに類する九州弁)には「嫌い」という言葉がない。
これは、「嫌い」と言わない、嫌いという感情表明がなされない、ということではない。
標準語の「嫌い」に直接対応する言葉、「嫌い」にイコールで結び付けられる言葉がない、ということである。
どういうことか。
まず「好き」だが、これは熊本弁では「好き」もしくは「好いとる」である。好きの否定形「好きじゃない」は「好かん」である。で、「嫌い」もまた「好かん」であり、「嫌い」の否定形「嫌いじゃない」は「好かんこたなか」である。
「嫌い」は「好き」の否定形によって表されているのである。
遠まわしの、ややひねった言葉で「嫌い」は伝えられるのだ。
では、何故こうなっているのか。
これは、争いごとを好まない熊本の穏やかな県民性が、否定的な言葉を直接表明することを避け、もって回った言い方をさせている…といった説明づけも可能だが、こんなのはこじつけに過ぎない。そもそも、遠まわしな言い方、という視点自体が、標準語との比較において成立するのであって、熊本弁内部の世界では「好かん」は直接的表現である(それしか言葉がないのだから)。
まあ、そうなっているのはただの偶然、でしょうな。


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内ポケットにナイフを忍ばせて

2015-09-23 15:49:30 | 雑文
時々ニュースで「路上や電車内などの出先で、たまたま居合わせた他人と口論になり、所持していたナイフで相手を刺した男が逮捕された」というたぐいの事件が報じられる。
小生は、それを聞くたびに違和感のようなものを感じる。
「まるで、トラブルが起こることが予めわかっていて、ナイフを持っていたみたいだ」と。
これには「簡単にトラブル起こすような危ないヤツはナイフ持ってて当然だろ」という答えが返ってくるかもしれない。
まあ、確かにそうかもしれない。でも、それだけじゃないような気がする。
自分の人生を振り返ってみる。赤の他人と、口論やケンカにまで発展したトラブルは、一度もない。火種はいくつかあった。自分か相手が突っかかっていたら、ケンカに至っていただろう。
殺傷事件を起こした犯人の典型的な証言として、「以前他人とトラブルになったことがあり、それ以来護身用にナイフを持ち歩くようになった」というのがある。
人は、通常トラブルを避けようとするものだ。ケンカに発展しそうになれば謝るなどして事態の収束を図るし、そもそもそのような場面をあらかじめ回避しようとする。危険な場所には行かない。不審な人物には近寄らない。
ナイフを所持している人物の行動は、それとは違ってくるのではないだろうか。
ナイフがある、ということで気が大きくなる。いざとなれば、ナイフがあるから大丈夫。最終的にはナイフが自分を守ってくれる。そんな考えが生まれる。そしてそれが、人間に本来備わっている危機回避能力を――意識的にか無意識にか――オフにする。すると、回避できて当然のトラブルを、回避できなくなる。
いや、それにとどまらないかもしれない。むしろ、自分から積極的にトラブルへと向かっていくようになるかもしれない。
なにせ、ナイフを持っているのだ。ナイフのある自分に、何か出来るものならやってみろ、という気分で街を歩くようになるだろう。
それから人間というのは、所有物に関して、「せっかく持っているのであれば、ぜひ使ってみたい」という衝動に囚われるものだ。ナイフも例外ではないだろう。
さらに言えば、「予言の自己成就」というのがある。ナイフを護身用に携帯する人間は、ナイフとは、「りんごの皮をむくもの」でも「枝を剪定するもの」でもなく、「人を刺すためのものだ」という認識があるはずだ。であれば、ナイフを携帯した時点で、「自分はいずれこのナイフで人を刺す」と自己暗示――大げさに言えば、呪い――をかけているようなものだろう。
ナイフを持っている人物は、持っていない人物と同一ではない。同一人物ではあっても、心理状態はまるで違う。
ナイフを携帯した者は、そのことによってトラブルを回避できる確率が高まったと思っているかもしれないが、実際はその逆に働いているのではないか。

この事を考えると、全米ライフル協会の、あの有名なテーゼを思い出す。
銃社会のアメリカでは、時々乱射事件や、連続発砲事件が起こる。その度に銃規制すべしとの声が上がるが、これに反対し、規制を封じ込めてきたのが全米ライフル協会である。
献金などを通じて、政界に強い影響力を持つ彼らが、口癖のように繰り返しているのが、
「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」
というもの。
要するに、銃撃した人間が悪いのであって、銃そのものは悪くない。銃撃した人間を裁くのが適切であり、銃を裁く(規制する)べきではない、ということだ。
確かに、言葉だけ聞いてると、なんだか正しく聞こえる。
だが、全米ライフル協会は、肝心な部分を見落としている。
銃を所持している人は、所持していない人とは違う。その理路は、もちろんナイフのケースと同じである。
銃がない社会の方が、銃を所持できる社会よりも、はるかに安全かもしれない。銃規制に反対する人々は、その可能性に思い至ることがない。
今、全米ライフル協会は見落としをしている、と書いた。しかしそれは正しくないかもしれない。彼らとて、そう無知ではない。銃を携帯することで心理状態が変わることぐらい、ちゃんと気付いているはずだ。気付いていながら、あえてそのことに触れないようにしているのではないか。自分達にとって不利益となる問題を、見て見ぬフリをしているのではないだろうか。
根の深い問題だ。解決の糸口はどこにあるのだろう。


オススメ関連本・町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』文春文庫