大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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日々の出来事 9月30日 ロビンソン・クルーソー

2018-09-30 10:36:16 | A,日々の出来事_







 日々の出来事 9月30日 ロビンソン・クルーソー







 今日は、ロビンソン・クルーソーが無人島に漂着した日です。(1659年9月30日)
ロビンソン・クルーソーは、無人島に漂着した日、大きな柱に “1659年9月30日、我ここに上陸す” とナイフで刻み付け、この柱で十字架を作って最初に上陸した地点に立てました。
 さらに、この四角い柱に毎日刻み目を入れ、7番目ごとに刻み目を2倍の長さにして週を表現し、さらにそのまた2倍の長さの刻み目を毎月の第1日目に入れました。
そして、ロビンソン・クルーソーは、この日付を刻みながら、1686年12月19日に脱出するまで、28年2ヶ月と19日間の冒険を繰り広げます。
 ダニエル・デフォーの書いたこの小説“ロビンソン漂流記” (1719年)は、スコットランドのアレキサンダー・セルカークの無人島生活を元に創作されました。
“アレキサンダー・セルカークの無人島生活”は実話で、1704年、チリ沖合のファン・フェルナンデス諸島の無人島であるマサティエラ島に、航海長であったアレキサンダー・セルカークが船長との争いがもとで一人置き去りにされ、4年4ヶ月の自給自足生活の後、1709年に海賊船に助けられたと言う出来事です。
 その後、1966年、このマサティエラ島は、ロビンソン・クルーソーの話のもとになった島と言うことで、ロビンソン・クルーソー島と改名されて現在に至っています。







  ロビンソン・クルーソー

















☆今日の壺々話







  古典的な“三つの願い”の話




「 あ~、もう、退屈だ。」
「 ホント、退屈だなァ。」
「 難破した船から投げ出されて、助かったのはこの三人だけだったよな。」
「 そうだよ、もう、この無人島に流れ着いて10年だもんな。」
「 あらっ、あんな所に壺があるぞ。」
「 ちょっと、開けてみよう。」

“ ボワッ。”

「 あっ、壺の中から、魔人が現れたぞ!」

『 呼ばれて飛び出す、ジャジャジャジャ~ン!!
 お前たち、三つの願いを叶えてやろう。』

「 ラッキー、ちょうど三人だ。」
「 ひとり、一つずつだな。」
「 じゃ、俺から行くぞ。
 フッ、フッ、フッ!
 世界中の富を手に入れて、ニューヨークの大きな家で暮らしたい!」

『 分かった。』

“ ヒュ~ン。”

「 あ、一人目が行っちゃった。
 じゃ、次は、俺だ。
 俺は、もっと凄いぞ、ムフフフフフ!
 世界中の富と、それから綺麗なネェ~チャンをいっぱい手に入れて、
 パリで暮らしたい!」

『 分かった。』

“ ヒュ~ン。”

「 あァ、二人とも行っちゃった・・・・。」
『 さあ、あとはお前だけだ。
 最後の願いを言え。』
「 う~ん、俺は、酒があれば充分なんだが・・・・。
 それに、この島の生活も静かで好きだし・・・。
 でも、話し相手が無いと寂しいなァ~。」

『 分かった。』

“ ヒュ~ン、あ!”
“ ヒュ~ン、あ!”

『 じゃあな。』



















     無人島




 無人島に一組の若い夫婦と若者が漂着しました。
男たち二人は助けの船が通りかかるかも知れないので、交代で海を見張ることにしました。
 先に若者が一番高い木に登り監視を始めました。
しばらくすると木の上から若者が叫びました。

「 ちょっと!
 人が見張りしてるからって、そんなところでセックスしないでくださいよ!」

夫はびっくりして叫びました。

「 何を言ってるんだ!セックスなんかしていないよ!」

しばらくして、また若者が叫びました。

「 セックスはやめてください!」

夫はあわてて叫び返しました。

「 だから、セックスなんかしてないったら!」

そうこうするうち、見張り交代の時間が来ました。
木の上に上った夫はつぶやきました。

「 ほほう、なるほどここから見ると、本当にセックスしてるみたいに見えるな。」



















航海実習




 職場の後輩が高校時代に実際に体験した話。
後輩の高校は船乗りの養成やってる学校で、実習で実際に船にのって海にも出てたそうです。
これはグワムだかハワイだかへの遠洋実習のときの話です。

 航海から何日かした早朝に突然、船が航行不能になりました。
船長、教官以下で原因究明したところ、機関には異常はないが、スクリューが動かないことが判明しました。
船尾から観察したところどうやらスクリューに異物がからまったとのこと。
 船尾から観察するかぎりなにか大きいものがスクリューに巻きついて、よく見ると大型のイカからしかった。
巻きついていない触手が海に漂っているが長さは少なく見積もっても15m以上はあった。(基準は船体で約50mだったそうです。)
イカの本体は船体の下に入って確認できず、おそらくすでに死んでいる。
スクリューを逆転させても触手は排除できず、直接取り除く以外ない。

 結局、ロープとカラビナでダイバー要員が二人ナイフとノコギリを持って、潜行作業のため海中へと消えていきました。
2~3分でダイバーが一人浮上し作業は困難で一時間以上はかかるのと、絡まっているのは見たこともないくらいの大型のイカであると言った。
ダイバーは作業に戻り浮き沈みしながら30分ほどたったころ、突然二人のダイバーが一緒に浮いてきて何か叫んでいます。
ふたりは「はやくあげろ!」と叫んでいました。
 わけもわからず船上で数人が二人のロープを引き上げました。
最中に船に少し大きめの衝撃に続き、地震のような揺れがありました。
それはダイバーを引き上げた後も数秒続き、最後にまた大きな衝撃とともにおさまりました。
船上のいる者は一斉に海中を覗き込みます。
みな声を失いました。

 船長以下が水面に見たものは、巨大なイカの本体部分とそれをくわえた有り得ない大きさの鮫の魚影でした
水深は約3mほどを目算で畳六畳ほどのイカと体長20mほどの鮫の魚影。
シルエットでしか目視していないが間違いなくホホジロザメに似た形。
それはそのまま海底へと消えていったそうです。
 おれはこの話を聞いたときマッコウクジラかジンベイを見間違ったのではと疑いましたが、同乗していたベテランも当のダイバーも間違いなくホホジロザメだと譲らないし、ジンベイがそんな大きいものは食さない、とのこと。
結局スクリューはシャフトを曲げられ作動不能になった。
おそらく鮫らしきものが絡まったイカを無理やり引きちぎったのが原因らしい。

 すったもんだして救難信号で通りかかった日本行きのオーストラリアの商船に牽引してもらい、数日後には日本に帰国したそうです。
スクリューに絡まったイカの足はほとんど消えていたそうです。
さて、彼らの見たものはいったいなんだったのでしょう?
いったい船長はどう報告して、航海日誌にはなにを書いたのか興味が湧きます。



















       良栄丸事件





  1927年10月31日、 カナダ西海岸バンクーバー島

 ワシントンのシアトル港への帰路についていたアメリカの貨物船マーガレット・ダラー号は、行方不明になっていた小型漁船良栄丸を発見した。
 ボロボロに朽ち果てた船体、ミイラの転がる甲板、白骨体、足の無い死体。
船室には、頭蓋骨を砕かれた白骨体とミイラがあった。
船室奥の部屋には、おびただしい血痕が染み付いていた。
 船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至るところに散らばっており、コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。
船内には食物も飲料水も無く、エンジン機関部は全て破損していた。
そして、船長室から見つかった3冊のノートには、信じられない惨状が書かれていたのだった。




良栄丸の情報


・重量は19tで1本マスト。
・船主は和歌山県の藤井三四郎。
・船長は三鬼時蔵。
・機関長は細井伝次郎。
・乗組員は12名。
・神奈川県の三崎港を出港したのは1926年12月5日。
・約1年間漂流していた。



 1926年12月5日、神奈川県の三崎港を出港した良栄丸は、千葉県銚子沖にマグロを求めて進んでいた。
天候も思わしくなく、エンジンが調子の悪い排気音を立てていたため、翌12月6日に銚子港に寄港した。
 しかし、エンジンに故障はなく、銚子の沖合いで大量のマグロを水揚げした。
が、暴風に見舞われて航行不能に陥ってしまった。
そして12月15日、銚子の東方沖合い1000マイルほど流された時、紀州船によく似た船が現れたので、信号を送ったり船員が叫んだりしたのに、応答も無く通り過ぎてしまったという。
 三鬼船長は漂流を決意、記録には“4ヶ月間は食べられる”と書いてあった。
12月16日にも東洋汽船と書かれた船が近くを通ったが、応答はなかったという。
なんとか日本へ戻ろうと努力したが、どうやっても逆に流されていった。
 記録にはこう書かれている。

「 どう工夫しても西北へ船は走らず絶望。
ただ汽船を待つばかり。
反対にアメリカへ漂着することに決定。
帆に風を七三にうけて北東に進む。
しかし、漁船で米国にたどりつこうとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見より困難なりと心得るべし。」



     日記記録


「12月27日。カツオ10本つる。」

「1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした。」

「2月17日。いよいよ食料少なし。」

「3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた。」

「3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、“ひとめ見たい、日本の土を一足ふみたい”とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする。」

「3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す。」

「3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し。」

「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、“おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える。”などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い。」

「3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ。」

「4月4日。三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。これもみな、餓鬼畜生となせる業か。」

「4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡。」

「4月14日。沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり。」

「4月19日。富山和男、沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡。」

「5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし。」

「5月11日。曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや。」


 しかし、記録を調べるうちに、奇怪な事実が浮かびあがった。
数十回に渡って他の船にであっていながら、救助に応答する船は一隻としてなかったことだ。
そして、良栄丸は太平洋横断の途中、たった一つの島さえも発見できなかったのである。
 しかし、アメリカの貨物船ウエスト・アイソン号のリチャード・ヒーリィ船長は、次のように述べている。 

「 1926年12月23日、シアトルから約1000キロの太平洋上で波間に漂う木造船を発見したが、救助信号を送っても返事が無いので近づきました。
しかし、良栄丸の船窓や甲板に立ってこっちを見ていた10人ほどの船員は、誰一人として応えず、馬鹿らしくなって引き上げたのです。」

だが、良栄丸の記録に、このことは書かれていない。

















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9月29日(土)のつぶやき

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