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大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

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日々の出来事 6月4日(2)Tank Man

2018-06-04 20:59:50 | A,日々の出来事_






  日々の出来事 6月4日(2)Tank Man






 天安門事件の翌日(6月5日)、天安門前の10車線道路(長安街)で、彼は事件を鎮圧するために現れた59式戦車の車列の前に立ち、行く手を遮った。
場所は北京飯店南西の交差点。
 戦車は何度も彼を回避するために横に迂回しようとするが、その都度彼は戦車の前に立ちふさがり侵入を防いだ。
しばらくそれを繰り返した後、彼が戦車に飛び乗って中の兵士となんらかの口論をしていた様子が、CNNやBBCのクルーによって撮影され、世界中に配信され一躍その姿を知らしめることになった。
 ビデオ映像は、心配した他の市民(または私服警官という説もあるが不明)が彼を群衆の中に引き戻し、戦車が再び行進する場面で終わっている。
映像のほかに、1キロメートル弱離れた北京飯店6階に宿泊していたAP通信のジェフ・ワイドナーによって400mmレンズを使用した写真、またマグナム・フォト所属のスチュアート・フランクリンによる写真が撮影され、世界の新聞に掲載された。
 この印象的な映像や写真は何度も使われ、戦車の前に立って無言の抵抗をした彼は、西側諸国において中国の民主化運動の象徴的存在となった。
同場面は、ロイターの曾顯華によって、北京酒店1111号室からも撮影された。
 しかし、いくつかの理由のために曾顯華の写真は見落とされていた。
1998年4月の『タイム』誌はこの人物を「20世紀最も影響力のあった人物100人」に選び、2003年に『ライフ』誌はスチュアートの写真を「世界を変えた写真100」に選んでいる。
 この映像に対し、「この衝撃的な映像には2人の無名の英雄がいる。
それは戦車の前に立ちはだかった男と、彼をひき殺すことを躊躇した戦車の兵士だ」という意見がある。

 写っている男性の素性は謎に包まれている。
当時の学生指導者ウーアルカイシや中国の知識人にさえ、彼のことを知る者が存在しないことから、その場にたまたま居合わせた普通の中国人の若者の1人ではないかと言われている。
 イギリスのタブロイド紙『サンデー・タイムズ』は事件直後、この人物はWang Weilin(王維林、王维林)という19歳の学生であると報じた。
彼は後に「政治的内乱罪」と「人民解放軍のメンバーを覆そうと試みた罪」により起訴されたとも報じられている。
しかし、両者ともに確たる証拠が存在しない。
 彼のその後については、「すぐに処刑された」「刑務所の中で精神に異常を来した」「出所して台湾で暮らしている」などの説もある。
事件後、1990年の記者会見で、アメリカのジャーナリスト、バーバラ・ウォルターズからの「中国の自由の象徴というべきあの男はどうなったのか?」という質問に対し、江沢民は「死んではいないと思うが…」と言葉を濁しただけにとどまった。










     Tank Man

















☆今日の壺々話












  前に務めてた会社の話




 中国進出を決めたのはかなり早かった部類。
当時からタイ、インド、ベトナムあたりも候補には上がってた。
最終的に中国に決まった理由はいくつかある。
諸々でみると一番日本国内への供給でみたときのコストがよかった。
それとどこぞの省の中国押しもあった。

 実際中国での展開は谷あり谷あり。
まず工場での金型紛失が多発。
金型の保管庫の鍵を保管してる人がとかいうレベルではなく、発注した金型が出来上がったときかされて、受け取りにいったときには取られているレベル。
つくったはつくったのだから金を寄越せときたもんだ。
 そのあたりから契約先には社員を常駐させるなどの様々な対策が進んだ。
そうなると今度は自社工場から物が消える。
手薄なところからぽんぽんと消える。
気がつくと似たような製品を製造する商売敵が増える。
もちろん中国メーカー。

 そんなこんなではあったけれども、
はっきりいって被害を喧伝出来る状況でもなかった。
似たような苦境に陥ったメーカーさんもいくつかあったけど、事件化を企図して動き始めると必ずといっていいほど、警告かとおもうような検査が唐突にはいって操業が停止される。
中にいるやつが手引きしてるとしか思えないタイミングで、そのタイミングでその日程だと納期がと叫ぶしかないようなかんじ。

 それでもなんだかんだで儲かっていたから、
日本の本社では現地のこういうトラブルはみなかったことにしてた。
反日活動が活発化する前に人件費高騰問題は直撃してた。
うちの社の工場も中国の中では片田舎といった場所にたてたはずだけど、工場ができてから周りに家が増えたりなんなりで騒音に対する補償とか色々。

 撤退が決まった時から地獄がはじまった。
リストラ策をきめて現地人責任者とも話し合っていた頃、唐突に工場に役人+兵器乗せた車両に乗った何かが来た。
その後からあーだこーだと上の方がもめて、どーだのこーだのと言っている間に、工場長が帰国できなくなってる事が発覚。
本社から厳命されている製造機械の完膚なきまでの破壊。
これを実行したら永久に日本に帰れないと脅されていると泣きべそかいてた。
とにかくお前たちだけでも帰れと言われて、出国停止処分うけてない組みは帰国。

 本社は工場長から製造機械の破砕処理の完了報告を受け取って、立合いには別のエージェントを送り込んで処理業者が破壊するところを記録してた。
工場長がこうこうこういう脅しをされてたんですよというと、本社の人間はまさかそんなこと実行するわけがないだろうという。

 それから数年がたってもも工場長はいまだに帰国できてなかった。
リストラの際の工員の退職金とかの話には本社も応じていたんだが、工場跡地の土壌汚染やらなにやら、そもそも工場内で使っていない薬品が検出されたとかわけのわからない理由で訴訟多発。
とにかくありとあらゆる形で請求がきまくっていて本社唖然。
人質を取られる原因をつくった中国進出を決めた社長はひっそりと退職金もらって勇退。
 俺を含め中国に赴任してた組は、工場長を見捨てて逃げ帰ってきたことで調子崩して休職→退職コンボ多発。
あっちの工員は結構良い人おおかったけど中国政府が怖すぎた。

 この古巣の会社、
中国進出を決めた時の社長の経営手腕を失った後、次期社長には恵まれずに、結局類似製品つくってる中国メーカーに出し抜かれて、今じゃシェアを大幅に削りとられて二流メーカーまで落ちた。
 
 一人の優秀な工場長と社長が中国に関わって社会的に抹殺された。
そういうお話。

















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しづめばこ 6月4日 P522

2018-06-04 19:07:05 | C,しづめばこ



 しづめばこ 6月4日 P522  、大峰正楓の小説書庫で再開しました。


小説“しづめばこ”は読み易いようにbook形式になっています。
下記のリンクに入ってください。
小説“しづめばこ”



大峰正楓の小説書庫です。
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日々の出来事 6月4日(1) どすこい豊臣秀頼

2018-06-04 09:55:12 | A,日々の出来事_








  日々の出来事 6月4日(1) どすこい豊臣秀頼







 今日は、豊臣氏が滅亡した日です。
1615年6月4日、豊臣秀頼と淀殿が自害し大坂夏の陣が終結しました。
前年の大坂冬の陣の和議で、大坂城は堀を埋められていたため、まともな防御をすることも出来ず、徳川方の圧倒的な兵力の前に壊滅しました。
 豊臣秀頼は、イメージ的には公家風の軟弱で小柄なお坊ちゃま君のような感じですが、実際は身長197cm、体重161kgの相撲取りのような“どすこい男”です。
徳川家康は、二条城で豊臣秀頼と会見した時、そのカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもある程、武将としての威厳があったとされています。
 身長152cmしかなかった豊臣秀吉から、どうしてこんな“どすこい男”が生まれたのでしょうか。
ルイス・フロイスの“日本史”には“豊臣秀吉は300名の側室を抱えていた”とあるのですが、子供が二人も出来たのは淀殿だけでした。













参考






 五大老へあてた豊臣秀吉の遺言状




秀よりの事       (秀頼のこと)
なりたち候やうに    (成り立つように)
此かきつけ       (この書き付け)
しゆとしてたのミ    (五大老衆に頼み)
申候 なに事も     (ます。何事も)
此ほかにわおもい    (此の他には、思い)
のこす事なく候     (残すことはありません。)
     かしく

返々秀よりの事     (かえすがえすも秀頼のこと)
たのミ申候 五人    (頼みます。五人)
のしゆたのミ申候    (の衆、頼みます。)
いさい五人の物ニ申   (委細は五人の者に申し)
わたし候 なこり    (渡してあります。名残)
おしく候 以上     (惜しく思います。以上)

八月五日 秀吉 御判








豊臣秀頼と徳川家康の会見の後、流行したとされる落首




  御所柿は 独り熟して 落ちにけり
    木の下に居て 拾う秀頼








豊臣秀頼のどすこい体格



 豊臣秀頼 197㎝ 161㎏ > 白鵬 192㎝ 156㎏





     白鵬(参考)








豊内記(徳川時代)



秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう。


















☆今日の壺々話













   大坂城にて






「 ねえ、ねえ、か~ちゃん。」
「 何よ。」
「 僕の大好きな蒲鉾まだ~。」
「 今、持って来るように言ってあるから、もうちょっと待ちなさい。」
「 早く、食いたいよ~。」
「 もう、うるさいわね。」
「 ねえ、ねえ。」
「 まだ、何かあるの。」
「 この前も聞いたけど、本当のおと~ちゃんは大野治長?」
「 違います。」
「 でも、か~ちゃんと大野治長は乳兄弟でしょ!」
「 うるさいわね。
 お前のおと~ちゃんは、豊臣秀吉!」
「 でも、それは表向きのおと~ちゃんでしょ。」
「 蒲鉾は、まだかしら・・。」
「 う~ん、違うのか・・・・。
 じゃ~、石田三成でしょ!」
「 あっ、蒲鉾がきたわ。
 そんなこと言ってないで、早く食べなさい。」
「 うわぁ~、蒲鉾が来た!
 パクパクパク。」
「 おと~ちゃんは、豊臣秀吉!
 はい、言ってみて。
 言わなかったら、蒲鉾を取り上げるからね!」
「 おと~ちゃんは、豊臣秀吉!」
「 そうそう、それでいいのよ。」

“ ホントに勘の鋭い子供だわ。
 DNA鑑定が無くてよかった・・・。”




















  予言





 ある日、平穏な家庭に赤ちゃんが一人産まれました。
その赤ちゃんは驚いたことに、産まれたばかりですぐに言葉を発したのです。

「 おじいちゃん!」

おじいちゃんはひどく喜び、涙を流したそうです。
 ところが次の日の朝、おじいちゃんはポックリ死んでしまいました。
妻は平然と言いました。

「 偶然よ。」

しばらくして、赤ちゃんはまた、言葉を発しました。

「 おばあちゃん!」

すると、次の日の朝、おばあちゃんがポックリ死んでしまったのです。
妻は平然と言いました。

「 偶然よ。」

しばらくして、赤ちゃんはまた、言葉を発しました。

「 おとうちゃん!」

成り行きを知っているおとうちゃんは震え上がりました。
でも、運命は逆らえません。
おとうちゃんは覚悟を決めました。

しかし、次の日の朝、おとうちゃんは元気に目覚めてしまったのです。

「 あらっ、生きてるぞ?」

妻は言いました。

「 ホラ、偶然だったでしょ!」
「 そうか、偶然だったのか。
思い過ごしって怖いなぁ~。
どれ、新聞でも取ってくるか!」

玄関ドアを開けると、新聞配達の兄ちゃんが何故か倒れていたのです。


















信長の子供の名前





長男 奇妙丸
  次男 茶筅丸
  三男 三七
  四男 次
  五男 坊丸
  六男 大洞
  七男 小洞
  八男 酌
  九男 人
  十男 良好
  十一男 緑


かなり、テキト~!




















首切り茂吉





 首切り茂吉と言う農民がいる。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出ている。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。
 鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われている。
あまりの残虐性と強さのため、武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
 高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あっさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と、怒鳴りあげたと言われている。
その後、信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は知られている。
 かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな・・・。」と言われて、引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
 一体、人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと、織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。
有名ではないが、まさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。



















    織田信長から来たメール






初めまして
自分はタイムスリップしてきた
織田信長と申します

ご存知かと思いますが
有名な武将です

昔 もぅ少しで天下統一の所を部下の光秀に
裏切られ
生死の境をさまよっていた時に
急にタイムスリップしてしまいました

今まで身を潜めていましたが

このサイトで貴殿のプロフィールを見て
目が覚めました
よろしかったら
拙者と共に天下統一目指さぬか?

目指そうかな・・・・。


















カルサン弥助






 織田信長の家来に、カルサン弥助という黒人がいました。
宣教師が下働きの黒人を連れてくることがあったとはいえ、日本で黒人を見る機会が殆どなかった時代です。
 彼は東アフリカのモザンビーク辺りの出身と言われています。
日本に来るまではイタリア人宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに仕えていて、彼を見た信長が肌の色に興味を持って引き取り、以後、信長の家来になりました。
 その時、肌の黒さが信じられなかった信長は「墨でも塗ってあるのでは」と思い他の家来たちに体をゴシゴシ洗わせました。
それでも色が落ちず、信長はその時初めて地肌が黒いという事に納得したそうです。
 ヴァリニャーノの下では奴隷同然に扱われていたという弥助も、信長は「家臣の一人」として迎え入れました。
幾多の戦いにおいても活躍し、しかも信長の相当のお気に入りだったみたいです。
 彼の最期は分かっていません。
「本能寺の変」で信長死去の後、本能寺を脱出しますが明智光秀に捕まってしまいます。
ところが光秀は「黒人は人間ではない」と言って殺さず、そのまま開放しました。
それ以降の記録はありません。



















三本の矢








 毛利元就は仲の悪い息子達を城に呼んだ。

「 お前達はなぜそんなに仲が悪いんだ。
今日はおまえ達に結束がどれだけ大事か話をしてやろう。
まずこの一本の矢を折…やめろ!
いいか、まずこの一本の…や~め~ろ!
喧嘩をするんじゃないよまったく…。
この一本っちょっやめろ!
この一…隆元やめなさい!いいかい、いま大事な話を…ちょっおまっや~め~ろ!
とにかくこの一本のって、こら元春、矢で叩くじゃないよ!隆景も泣くんじゃないよ。
いいかいこの一本の矢を…やめなさい。
こらこらそっちの矢は触るじゃないよ、
父さんの話しを聴きなさっ ちょ やめなさい!そっちの矢はまだ折るじゃないよ。
あっ こら、や~め~ろ。」

















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6月3日(日)のつぶやき

2018-06-04 08:27:28 | _HOMEページ_






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