日々の出来事 5月7日 真田幸村
今日は、徳川家康が肝を冷やした、闘将、真田幸村の戦いの日です。(慶長20年5月7日)
大坂夏の陣、徳川方は訓練された兵15万5千、豊臣方は寄せ集めの浪人5万5千と外堀の無い大坂城、豊臣方圧倒的不利の中、豊臣方が勝つ唯一のチャンスがありました。
それは、闘将、真田幸村(本名、真田信繁)の戦いです。
豊臣側の武将、真田幸村は、敗色が濃厚となる中、正面から徳川家康めがけて決死の突撃を敢行しました。
そして、六文銭の旗印のもと、赤い鎧の真田軍は、徳川の旗本勢を撃破すると、徳川家康本陣へ三度に渡り猛攻撃を加えました。
これらの攻勢に家康本陣は大混乱に陥り、徳川家康はスタコラと逃げ出しました。
「 どうせ、大坂城なんて、直ぐに落ちるし、羊羹でも食ってゆっくりするか。
ん、何だ、あの騒ぎは?
六文銭に赤い鎧、真田軍だ!
信濃一国40万石やるから寝返れって言ったのに、言うことを聞かないバカ者め。
さっさと、討死しろ!
あれっ、越前松平勢がやられちゃったぞ。
な~に、まだまだ、旗本勢が食い止めるだろうって・・・・・、あ、潰された!
次、行け・・・、あらっ、潰された!
次、行け・・・、あ、潰された!
こんどこそ・・・・、あ、また、潰された!
大変だ、周りに誰も居ないぞ、
あわ、あわ、あわ、もう、そこまで来ている・・・・。
うわァ~、“家康はどこだ”って言う真田幸村の声が聞こえるぞ!
ひ、ひえ~~~~っ!
大変だ、大変だ!
どうしよう、どうしよう、おろ、おろ、おろ。
そうだ、馬だ、馬で逃げよう!
うわァ~、来たァ~!!」
後退中、三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのない家康の馬印を旗奉行は倒した上、家康を見失いました。
また、馬で逃げる家康自身も、もうだめだと切腹を幾度となく口走っております。
しかし、残念ながら、今一歩と言うところで家康を取り逃がした真田幸村は、徳川軍に飲み込まれ、四天王寺近くの安居神社で討死となってしまいました。
大坂夏の陣における真田幸村の奮闘ぶりは、島津家当主の島津忠恒の国許への書簡において記述が残っています。
☆今日の壺々話
智謀の将
本多忠勝 「でも信幸さんって、あんまり真田家出身って感じしないね?」
本多忠勝 「もっと謀略家みたいな人を想像してたけど・・・。」
真田信之 「真田家全員が智謀の将なわけやないから・・・。」
真田昌幸 「にせもの~!!」
真田信之 「ええっ!?」
真田信之 「にせものって言われても・・・。」
真田昌幸 「じゃあ謀略見せてよ! 真田家出身なら保身の術を知っているはずよ!」
真田信之 「え・・・そんな、真田やからって・・・。」
真田信之 (ハッ!!)
真田信之 「か、家名を保つため、私は東軍につきます。」
真田昌幸 「よっしゃ!!」
三方が原
織田信長 「家康って武田信玄と戦ったことあるんでしょ?どんな大名だった?」
徳川家康 「あはは、それが色々、逸話があってね~。」
武田信玄 「お~もらし~ お~もらし~♪」
武田信玄 「みみみ 三方が原で お~もらし~♪」
徳川家康 「はっ!」
織田信長 「?」
徳川家康 「…フ、フツ~の大名だったよ…?」
織田信長 「なんか握られてるのね…。」
騎馬
武田勝頼 「うわ~、壊滅した~。」
馬場信房 「なにしてんだよ!?
騎馬じゃ鉄砲に勝てないって言っただろ!?
無敵だと思い込んで無策で突っ込むからそうなるんだよ!
わかるだろ!?
な!?
わかってんだろ!?」
武田勝頼 「?」
馬場信房 「不思議そうな顔すんな~!!」
有名人の血液型
釈迦=AB型
キリスト=AB型
卑弥呼=B型
聖徳太子=O型
紫式部=A型
ガリレオ・ガリレイ=O型
ミケランジェロ=O型
藤原清衡=AB型
藤原基衡=A型
藤原泰衡=AB型
北条政子=O型
武田信玄=AB型
上杉謙信=AB型(誓文状)
明智光秀=AB型
織田信長=A型(血判、衣服)
豊臣秀吉=O型(血判)
石田三成=AB型
徳川家康=O、A、B型のいづれか
徳川秀忠=O型(血判)
伊達政宗=B型(遺骨)
上杉景勝=B型
北条氏政=A型
今川義元=A型
今川氏真=A型
武田勝頼=O型
真田幸村=B型
前田利家=O型
佐々成成=O型
柴田勝家=AB型
松永久秀=A型
足利義秋=O型
毛利元就=B型
浅井長政=O型
朝倉義景=AB型
斉藤道三=A型
この事実から、それぞれの性格を考えて・・・・。
血液型占いって、当たってるかな?
“泳 げ ! 宇 喜 多 秀 家 !”
慶長14年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける。
太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城。
そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた。
かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親。
秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁。
宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登。
黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次。
豊臣への為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永。
豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房。
秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成。
かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達。
しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった。
又、この七将達も思惑はそれぞれ。
真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…。
その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人。
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた。
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。
しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した。
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた。
「 真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……。」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない。
初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった。
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。
それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった。
「 何者ぞ!!」
叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成。
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた。
「 殿……。」
明石全登が、ようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた。
「 宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
秀吉に実の子、いやそれ以上の愛情を受け育ち、豊臣政権の五大老であった男が再び豊臣の為に戦うため帰った来た。
秀家( 俺が勝てなければ大坂は負けると思っていた……。)
家康「 どうした?勝負せんのか?」
秀家「 ふん…!」
秀家「 現段階で俺は家康に勝てないかもしれん。
だが…だが、豊臣は負けんぞ!」
真田「 残り数か月……!まだいけるよな!ウッキー!」
秀家(!!)
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秀家「 まだいける!後詰めの連中さえ動けば……!」
秀家「 くそっ!また福島に押し返された!」
秀家「 金吾が裏切り!?……あぁ!?」
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真田「 どうした?ウッキー?」
秀家「 ああ…まだいけるぞ!家康に勝てるぞ!」
宗茂「 気を付けろよ、長曾我部。
相手がいけるってムードの時に仕事をするのが政宗って男だ。」
政宗「 べシ!」
盛親「 味方ごと!?まずい、崩れる!?誰か後詰めを――。」
勝永「 ハッ…ハッ…。」
真田「 どけ!かっちゃん!!」
重成「 歳は四十越えて幾つですかね、大谷刑部どのの娘婿で、将来、大坂の救世主になるかもしれません」
大野「 真田は――討ち死にしたのか?」
後藤「 いい仕事したぜ、禿なりに。」
真田「 誰が禿か!」
大野「 おぉ!生きてる。」
淀「 不死身だ…。」
秀頼「 不死身!」
よし、後世へ記述を残しておこう!
『 慶長二十年五月七日。
奮戦虚しく真田幸村、毛利勝永ら討ち死にの報が次々届く。
徳川軍は大坂城を取り囲み、もはやこれまでかと諦めかけたとき急に城外が静かになる。
そこには一人の男がいた。
全身ずぶ濡れで海水を滴り落としながらゆっくりと城へ向かう。
その異様な姿と男の持つ威に圧されみな戦いを忘れて呆然と見送る。
そして大手門の正面で立ち止まる。
両軍全員が固唾を飲んで見つめるなか男が口を開く。
宇喜多秀家「 泳 い で 参 っ た!」
秀家泳ぎ着くの報は瞬く間に戦場を駆け巡り、徳川軍は驚愕し大坂方は奮い立った。
恩顧大名達は次々大坂方に身を投じ、徳川軍は敗走につぐ敗走を続け壊滅的な被害を出して関東へと逃げ帰った…。
その夜は上方中の人々が奇跡的な勝利に歓喜した。』
大野治長「 今宵は本当にめでたい。」
長曽我部盛親「 これも秀家公の威光の成すところ。」
速水守久「 左様、今後も大坂に留まり秀頼様を後見して頂きたいものだ。」
淀「 して、秀家殿は何処に?」
秀家の姿は既に大坂城にはなかった…。
大坂湾の海岸に一人の男の影があった。
大坂城を少し見つめ、振り返り、海へと飛び込み東へ…。
八丈島へ向けて泳ぎだす。
再び大坂に危機が訪れる時、男は帰ってくるだろう…。
泳げ! 宇喜多秀家
1572年 岡山で誕生。
1573年 近所の小川で泳いでいるところを家臣に目撃される。
1576年 旭川を泳いで渡る。
1577年 大雨で水嵩の増した吉井川を渡っているところを領民に目撃される。
1579年 児島湾横断に挑戦し成功する。
1580年 岡山の燈籠崎から櫃石島、岩黒島、与島を経て宇多津へ遠泳する。
1582年 瀬戸内海を泳いで東上し、本能寺の変を見物。即日泳いで帰郷する。
1586年 前田家の姫君と結婚する。前田利家に挨拶するため、敦賀から金沢まで泳ぐ。
1590年 小田原の役で伊勢から泳いで参戦。
1592年 名護屋から釜山の近郊東莱まで泳ぐ。
1597年 再度朝鮮へ泳いで渡る。
1598年 朝鮮から泳いで帰国。
1600年 関が原で敗北、大坂から泳いで薩摩に逃亡。
1603年 島津忠恒によって徳川家康に引き渡される。大阪まで瀬戸内海を泳いで渡る。
1606年 八丈島へ流罪が決まり、逃亡を恐れた幕府により、船で八丈島まで送られる。
1614年 島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。徳川勢に苦汁をなめさせる。
1615年 またも島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。敗北し泳いで八丈島へ逃亡。
八丈島にいたらしいが、大坂や岡山での目撃証言や、江戸城の御堀で泳いでいたのを目撃したという証言もある。
1655年 八丈島で逝去。享年83
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