2019年8月31日、京都移転にともなう諸作業および諸手続きが全て完了して数日後、久しぶりに「ゆるキャン△」聖地巡礼に出かけました。4月の身延および諏訪方面への巡礼から、ほぼ5ヵ月後のことでした。
今回の巡礼地は、原作コミック8巻の舞台である伊豆でした。20代後半から30代前半にかけて仏教美術や中世戦国史の勉強のために3度訪れ、函南、韮山、修善寺、河津、下田の5ヶ所で史跡や古寺を訪ねたりした地域です。なので、アニメ聖地巡礼とあわせて、懐かしの場所も幾つか訪ねてみよう、と考えていました。
最初の計画では、暑さがやわらぐ9月中旬に実施することにしていました。ところが、絶対に行きたい二つの聖地の一方である堂ヶ島のトンボロが、9月2日に干潮の最低水位に達して作中と同じ状態になり渡れることを気象庁の潮位表で知ったため、予定を10日ほど繰り上げて計画を練り直しました。
さらに台風接近による天候悪化が9月4日以降、との予報に接し、巡礼期間の最終日を9月3日と決めました。
そのうえで、原作にて伊豆キャンプが描かれる第49話までの範囲を調べて聖地を絞り込み、まだ全部が出揃っていないように思われた伊東エリアを外して次回に回すことにしました。それで、大瀬崎、天城越え、稲取細野高原、下田の海浜公園と瓜木崎、西伊豆の堂ヶ島、西伊豆スカイライン、達磨山の7ヶ所にまとめて所要時間を算出し、2泊3日ぐらいにおさまるようにしました。
これに、懐かしの場所も幾つか訪ねるべく追加し、旅中の補給拠点となるガソリンスタンド、コンビニ、食事処、スーパーなどの位置も考慮して、最終的に3泊4日の行程にまとめました。宿は、「ゆこゆこネット」で費用が5000円以下の候補地を絞り込み、温泉利用可を条件として伊豆長岡、下田、伊豆松崎の3施設に決めました。
かくして巡礼の第一日目となった8月31日の午前7時半に京都を出発しました。京都東インターから名神および新名神を進み、伊勢湾岸道をへて新東名に入り、第一休憩地点と定めた上図の長篠設楽原サービスエリアに着いたのは、9時47分でした。
30分の休憩の後、ふたたび新東名を東上し続けました。原作にて各務原なでしこの父、修一朗が話した「あのどこまでも続く静岡のながーい道」を、ひたすら走りました。
第二休憩地点の駿河湾沼津サービスエリアに着いたのは12時11分でした。施設の建物がお城のような洋館スタイルなのには驚きましたが・・・。
建物の外壁にラブライブの大きな垂れ幕がかけられているのにはもっと驚きました。
内部のあちこちにラブライブのキャラクターパネル、ポスター、タペストリーがありました。なんで、と首を傾げましたが、現地沼津がラブライブの聖地であることにやっと気付きました。
しかも、グッズ類の売店までありました。思いっきり派手にコラボしているようです。もう、どちらを向いてもキャラクター達の笑顔が並んでいました。ファンとおぼしき人も何人か居て、一様に幸せそうな表情で写真を撮り、グッズを買っているのでした。
これからゆるキャン巡礼に行くんだよ、と自分に言い聞かせずにはいられなかったほどの、濃厚過ぎるラブライブ空間でした。
身延も五条ヶ丘も、これぐらい派手にバーンとやっちゃいなさいよ・・・。ゆるキャン、気合とノリで完全に負けてますよ・・・。
気を取り直して、二階の展望所から南を見ました。駿河湾の向こうに伊豆半島の陸地が望まれました。
あの陸地の右端あたりが、今日の訪問予定地のひとつ大瀬崎だな、としばし眺めました。天気は予報の曇になるどころか、全くの快晴でした。それは良いのですが、暑さが問題だな、と考えました。
暑さに弱いので、いろいろと対策を講じなければいけません。飲み物は水にまとめ、ジュースやコーヒー類は避けました。帽子は当然で、タオルも首に掛けて汗がシャツにしみこむのを防ぎました。
新東名の長泉沼津インターから伊豆縦貫道に進み、大葉函南まで行って下に降りました。すぐに左折して141号清水函南線をしばらく走り、東海道線の函南駅の近くで里道に右折しました。
来光川沿いの道を山中に登ること数分、最初の訪問地である上図の「かんなみ仏の里美術館」に付きました。
現地は桑原といい、昔に訪れた時には桑原の長源寺の薬師堂を目指してそこの24体の仏像群を拝したのですが、いまその仏像群はこちらの「かんなみ仏の里美術館」に移されているのでした。大半が国重要文化財および県指定文化財であるために管理保全が必要なのと、薬師堂の老朽化が進んだのとで、2008年に地元桑原区より函南町に寄付されて収蔵展示施設が建てられた、という経緯であったようです。
大学での第一専攻が仏教美術史で、とくに鎌倉幕府黎明期の関連仏像にも興味があったため、20代後半に一度、30代前半に一度、この地を訪ねています。
鎌倉幕府の初代執権を務めた北条時政の長男で、源頼朝の挙兵に呼応して石橋山合戦で討死した北条宗時がこの地に葬られたといいます。現在も、函南駅の近くには墓塔があります。それとは別に、彼を祀る墳墓堂が存在したことが「吾妻鏡」の記載によって知られます。
その墳墓堂はいつしか廃絶したようですが、その仏像は桑原薬師堂にて守り伝えられてきた阿弥陀三尊像にあたる可能性が強く、いまではほぼ定説に近くなっています。
生きていれば源頼朝政権を支えてよきプレーンとなったであろう宗時であり、器量は父の時政以上であったといいますから、その戦死は鎌倉幕府黎明期の一大損失であったに違いありません。この人が生きていたならば、後に時政が専横に走って失脚することも、妹の政子が尼将軍と恐れられるほどに権力を掌握することも、無かったのかもしれません。鎌倉幕府の基盤ももう少し固められたかもしれません。惜しい人材であったのは、間違いないでしょう。
とにかく、歴史上の一つの物語がこの地に埋もれています。それを今も無言で語り続ける仏像たちが祀られています。ロマン、と言ってよいかもしれません。かつての私はそういうのに憧れて、無理して奈良から鉄道やバスを乗り継いでこの地にやって来たのでした。
その日の若き自分を思い出し、胸にひたひたと寄せてくる諸々の感慨に身を任せてなにか心地よい気分になりつつ、初めて見る新しい施設の入り口をくぐりました。 (続く)