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ゆるキャン△の聖地を行く8 その3  北条氏の夢の跡

2019年09月11日 | ゆるキャン△

 函南から県道11号を西下し、国道136号線下田街道に左折して南下、10分ほど走って韮山に至り、願成就院に行きました。門前駐車場の範囲も旧境内地に含まれ、上図の標石が立っています。

 願成就院は、鎌倉幕府の初代執権を務めた北条時政が北条氏の氏寺として建立しました。その創建を「吾妻鏡」では文治五年(1189)と述べますが、その安置仏像は運慶によって既に三年前の文治二年(1186)から造り始められているので、文治五年は寺としての構えが整って経営が始まった時期を示すのでしょう。

 

 寺は、その後も堂塔の建立が続いて規模を拡大しています。『吾妻鏡』にもその経緯が散見されますが、昭和45年の発掘調査によって南塔、南新御堂などの位置が確認され、また北側には庭園の池が広がっていたことが測量調査にどによって判明しています。北条時政、義時、泰時の三代によって完成した浄土系伽藍の構えが明らかになっています。
 上図は、南塔跡で、基壇が復原され、発掘調査で出土した礎石が並んでいます。

 

 現在の境内地は、創建時の面積の四分の一以下になっているとされますが、それでも地方の古刹としては広いほうに属します。江戸時代の藁ぶき屋根の旧本堂と、昭和30年建設の鉄筋コンクリート造の大御堂とが並びます。上図の奥に見える建物が大御堂です。

 

 私が初めてこの寺を訪ねたのは、昭和62年8月、大学三回生の時でした。ゼミの先輩達と、この寺に伝わる運慶の作品群を拝観するためでした。
 あれから30年余り、元号も平成、令和と転じました。御覧の通り、くたびれて黄昏つつある貧相な男に成り下がりましたが、初訪時の心の鼓動と渦巻くような感動は、今も胸に鮮やかです。

 

 境内地の墓塔墓石群です。かつては境内内外に散在していたもの、発掘調査等で出土したもの、などを一ヶ所にまとめています。それにしては中世期の遺品が少ないです。鎌倉幕府滅亡後の衰微退転ぶりが伺えます。

 

 境内の一画には、北条時政の墳墓があります。北条氏は歴代がそれぞれの菩提寺を持ったため、墓所もばらばらに所在しています。武家の一統が墓を同じくするのは、江戸期になってからです。

 

 大御堂に行き、久しぶりに運慶作の国宝の仏像群を拝しました。
 その仏像群の詳細については、願成就院の公式サイトを御覧下さい。

 

 願成就院を含めた韮山守山の地は、鎌倉幕府だけてなく、次の室町幕府の重要拠点にもなりました。六代将軍足利義教の四男の足利政知が鎌倉公方として下向したものの、一族の足利成氏との対立から関東に入れず、ここに館を構えました。成氏が下総の古河で公方を称したため、これに対して現地の地名である堀越にちなんで堀越公方と呼ばれました。その御所の広大な遺跡が、願成就院の北にあります。

 

 現地では、昭和57年と昭和60年に発掘調査が行われ、堀越公方の活動時期と重なる15世紀代の遺跡と遺物が発見されました。室町幕府の地方政治拠点の実態が示される重要遺跡として国の史跡に指定されました。
 さらに、遺跡の下にさらに13世紀代の遺跡か確認されており、伝承にいう北条時政の邸宅跡ではないかとされています。

 

 現地に立つ遺跡案内解説板です。上図の②が現地の堀越御所跡、⑥が願成就院、そして①がこれから訪ねる北条氏邸跡です。

 

 堀越御所跡の向かいには、道をはさんで上図の石標が建っています。北条政子の産湯の井戸が奥にあります。

 

 これがその井戸です。北条政子の産湯の井戸かどうかはともかく、付近の一連の遺跡遺物と同時期のものであるのは間違いないようです。一個の方形石をくり抜いて作られた井戸枠が見事です。後世の石組み井戸とは全然違う贅沢さです。鎌倉幕府の経済力のほどが伺えます。

 

 この広い空間は、まだ発掘調査が実施されてませんが、北条氏にまつわる井戸がありますから、この範囲も北条時政邸宅の一部にあたるのかもしれません。

 

 西側の狩野川ぞいの地に、上図の守山西公園かありますが、その一帯が北条氏の邸宅跡です。

 

 鎌倉幕府は、文字通り鎌倉に置かれましたが、執権歴代の北条時政、義時、泰時らはここ伊豆北条の邸宅を本拠地として、鎌倉との間を頻繁に行き来しています。一所懸命、の語句の通り、本貫の本拠地を大切にする鎌倉武士の典型例といえます。

 

 北条氏邸は、鎌倉幕府滅亡ののち、一族の寡婦や女児が集まり住むところとなり、多くの戦没者の鎮魂のために円成寺という尼寺が建てられました。
 一帯は、平成4、5年に発掘調査が行われ、上図の奥の広い範囲で邸宅跡および寺院関連の遺跡か検出されました。遺跡遺物の年代観から、北条氏邸および円成寺の跡であることがほぼ確実となり、国の史跡に指定されています。

 

 発掘範囲の外にも、関連遺跡とみられる土壇が並びます。右のマイカーと比べれば、土壇の大きさが分かるでしょう。
 この土壇は守山と呼ばれる丘陵の北端の尾根を削って造成されたらしく、上にもさらに郭のような削平地が二段あります。守山の山頂には詰めの砦であった守山城がありますから、その関連遺構であるかもしれません。

 

 しかし、現地にいると、次第になんというか、空しい気持ちに沈んでゆくのでした。

 かつては、日本の歴史上最も独裁色の強かった軍事政権であり、その擁する軍事力は実質的に300万騎余りであったとされ、当時の世界においては最強クラスの陸軍であった鎌倉幕府でした。
 室町幕府や江戸幕府のような倫理観や道徳思想はまだなく、実態としては殺戮、強奪、放火などやりたい放題のヤクザ同然の連中が御家人を名乗って源頼朝のもとにはせ参じて忠誠を誓ったのが鎌倉幕府の武力の始まりでしたから、当時の人々にとっては恐怖の的でした。
 近畿地方を管轄する一機関に過ぎない六波羅探題ですら、50万騎を擁して睨みをきかせ、天皇や公家も圧倒され恐れるのみでした。

 しかし、そんな恐ろしい連中が、御家人としての第一の任務である、有事の際の滅私奉公、を一時たりとも忘れずに武芸の鍛錬に励んだことが、結果的に日本を危機から救うことになります。二度の元寇の来襲を受けて全て撃退したのです。
 幕府とは、その長たる征夷大将軍とは、征夷の称の通り、外敵より国を護る事が第一の任務である軍事ポストですから、鎌倉幕府はその機能を正しく発揮したことになります。当時の執権は北条時宗、見事に祖国防衛の総指揮の大任を果たしてくれたわけです。これだけは、どんなことがあっても、日本人として感謝せねばならない、と私は思っております。

 ですが、史上最強クラスの軍事政権でさえ、歴史には勝てないのです。栄華を誇ったであろう北条氏の本拠地に、いまは何も残っていません。栄枯盛衰とはこのことか、祇園精舎の鐘の音が聞こえてきそうだな、思いつつ、記念の自撮りをやりました。

 しかし、いつまでも感傷にひたっているわけにはいきませんでした。次の移動から、本格的に「ゆるキャン△」聖地巡礼になるからでした。  (続く)

 


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