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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く5 その29 「雄大な土塁と空堀です!!」

2014年05月31日 | 大洗巡礼記

 江戸期の弘道館は、現在の弘道館の敷地の倍以上の範囲におよんで調練場、馬場、医学館、天文台、文館などの諸施設がありましたが、大部分は茨城県庁舎や県立図書館、水戸市立三の丸小学校などの敷地に転じています。弘道館の北側の文館跡および西側部分が、いまは鹿島神社境内地を含む歴史公園地区として整備されています。そのなかにある幾つかの建物や遺物などを見て回りました。
 上画像は、弘道館の北に隣接する孔子廟です。当時の建物は第二次大戦中の空襲にて焼失し、昭和45年に復元されたのが現在の建物です。


 鹿島神社への参道の横にある古井戸です。弘道館のある地域は城内三の丸に属し、現在の公園地区は馬場に隣接して有事の際には兵馬を動員する範囲となっていたため、このような井戸も各所にあったといいます。


 八卦堂と呼ばれる八角形の覆堂です。内部には弘道館の建学精神を表記した記念碑が据えられています。江戸期の建物は第二次大戦中の空襲にて焼失し、昭和28年に復元されたのが現在の建物です。
 U氏が「水戸市が空襲を受けたのは、終戦直前の8月2日なんだが、その際に市街地は八割ぐらいがやられたんだ。爆弾は弘道館地区にもいっぱい投下されて孔子廟も八卦堂もやられたが、そのかわり弘道館の本館が奇跡的に焼け残ってくれた。水戸市民にとっては不幸中の幸いだったということかなあ」と淡々と語っていました。


 八卦堂の南側には、種梅記碑と呼ばれる石碑があり、簡素な覆屋根にて保護されています。徳川斉昭が弘道館や偕楽園に梅を植えさせた趣旨が刻まれています。これの拓本が、弘道館の至善堂の溜に展示されています。


 弘道館に隣接する鹿島神社です。徳川斉昭が弘道館の創設に際して常陸国一宮の鹿島神宮の分霊を勧請したものです。創建以来の社殿は第二次大戦中の空襲にて焼失し、昭和49年の伊勢神宮の第64回式年造替に際して皇大神宮別宮の「風日祈宮」の旧殿一式を譲渡されて正式の再興を果たしたものです。
 なので、伊勢神宮には二度お詣りしているU氏や私にとっては、「お伊勢さんの社殿」そのものでした。


 鹿島神社に向かって左側の老木群の下にある要石歌碑です。碑文は、徳川斉昭が日本の国や日本人の進むべき道を示したもので、原文を漢文としています。


 要石歌碑の漢文を読み下せば、「行く末も 踏みなたかへそ あきつ島 大和の道そ 要なりける」となります。これの拓本が弘道館の至善堂の御座間に掛けられています。U氏は二度声に出して詠み、「やっぱり日本の歴史や精神の故郷が大和国であるわけだなあ」と感慨深げにつぶやいていました。
 思えば、彼が京都造形芸術大学の講座を志してやってきたのも、一度は奈良や京都の古い歴史や文化に直に触れて学びたい、との情熱からでした。それでオリエンテーションの初日に席が隣だったのが縁となって親しくなり、その翌々日にはU氏を奈良に案内して山の辺古道を歩きました。その折、景行天皇の纏向日代宮伝承地にて、彼は「倭は くにのまほろば たたなづく青垣・・・」と詠んで感激にむせんでいたのでした。
 そのことを言うと、U氏は「また奈良へ行きたいなあ、来月にでも行こうかなあ」と言いました。


 要石歌碑付近から孔子廟を見ました。歌碑は孔子廟の南側に位置しています。この辺りの景観がU氏のお気に入りだと聞きました。


 弘道館の時計台にあたる、鐘を吊るした建物です。鐘は「学生警鐘」と呼ばれ、徳川斉昭による創設時の鐘はいま弘道館の資料展示室に保管されています。表面には徳川斉昭の和歌が刻まれており、読み下せば「物学ぶ 人のためにと さやかにも 暁つぐる 鐘の声かな」となります。現在のこちらには、模造品が吊るされています。


 公園一帯には桜の木も並んでいて、風に花びらが次々に舞っていました。地元の写真サークルとおぼしき団体が、カメラで色々な景色を撮っていました。


 弘道館エリアの史跡は大体回ったのかな、と思っていると、U氏が「君に最も見せたい遺構は向こうにある」と茨城県立図書館の正面へと進んで行きました。三の丸の南西隅、かつての調練場の南側にあたる場所ですが、そこには大きな土居がありました。
「これは立派やねえ」と言うと、「うん、立派だろう、28万4千石の構えの一部がこことあっちにしっかり残されてるぞ」と誇らしげに答えてきました。


 かつての虎口跡の土居をみながら空堀にかかる土橋を通って遺跡案内板の所に行き、U氏の説明を聞きながら案内文を読みました。さきに見てきた本丸や二の丸の高い切岸などは戦国期以来の規模を踏襲しているということですが、三の丸地区は水戸藩時代に追加されていますので、その遺構こそが水戸徳川氏の縄張りであるということになります。


 虎口に向かって右側にある土居は高く積まれて堂々とした姿を伝えています。案内板では「塁」つまり土塁としていますが規模的にはそれ以上であって、土居と表現するほうが実態に即しているでしょう。


 土居は虎口の左側にまっすぐ続き、高さに空堀の深さを加えた雄大な塁線を見せています。近世城郭ではだいたい石垣を築く部分ですが、水戸藩は最後まで石垣を構築しなかったので、三の丸の正面にあたるこの部分も完全に土造りのままです。
 ですが、規模が大きいので、戦国期城郭の構えとは完全に一線を画した大規模な土木量が投じられていることが一目瞭然です。


 そして空堀がまた立派なもので、深さは10メートルを優に超えています。土居の高さとあわせて堅固な防御線を具現しています。もちろん泰平の世には必要ない構えなのですが、御三家の一にして副将軍の意識にたつ水戸藩の威容を示すには、必要であったかもしれません。
 U氏は「これが、28万4千石の構えである」と何度も繰り返していましたが、たしかに現在の水戸城エリアの遺構のなかでは、最も見応えがあると思います。 (続く)

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