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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く5 その27 「水戸城本丸と城門です!!」

2014年05月29日 | 大洗巡礼記

 「二の丸展示館」を出て本丸へと向かいました。途中の道端に枝を広げるシイの老木を見上げました。U氏曰く「水戸藩のみならず戦国からの変遷も見届けてきているのであろうなあ」と。


 二の丸地区を東西に通る車道は、かつての城内通路をそのまま踏襲しているとされます。建物や施設の大部分はその南側に分布していたということです。


 二の丸と本丸とを分ける、深くて大きな堀切です。戦国期にはほぼこのような形になっていたらしく、水戸藩の時期には目立った整備工事がなされていないようです。堀底にはJR水郡線が通っています。


 高くて深い堀切なので、切岸の規模も相当なものです。簡単には攻め登れません。佐竹氏の時期にこれだけの状態に掘り切ったというのが凄いです。でもU氏に言わせれば、茨城県をはじめとする関東地方の城にはこのような大規模な堀切を持つところが少なくないとのことです。


 本丸地域は、現在は水戸第一高校の敷地になっていますが、その正門にあたる虎口の奥には、水戸城以来の唯一の建築遺構である「薬医門」が遺されています。単なる城門ではなく、城内の重要な場所に置かれた格式の高い門であったことが、その重厚な造りからもうかがえます。


 門の傍らにたつ案内板をしっかり読んでくれ、と言われたので、じっくりと読みました。建立の時期に関して「安土・桃山期」と推定されている、という点にびっくりしました。これは佐竹氏時代からの建築遺構なのか、と振り返ると、U氏はいよいよ誇らしげな表情になって大きく頷いてきました。


 だとすれば、この門は類例が希な戦国末期の建築であるわけです。常陸国の戦国大名佐竹氏の歴史を物語る貴重な遺産であるわけです。それが水戸城の「橋詰御門」であった可能性が言われるということは、要するに佐竹氏時代の水戸城の大手門にあたる可能性が高い、ということなのでしょう。


 そういえば、建物の各部材は大ぶりで武骨さがにじみ出ており、京都や奈良でも時々見かける室町戦国期の建築の豪壮さに通じる要素が感じられます。江戸期の城門は、部材を綺麗に揃えて仕上げも丁寧にする傾向がありますが、そういうものがこの城門にはあまり感じられません。


 とりわけ印象的だったのが、板蛙股の大きさでした。これだけで屋根組全体を支えているといった感じで、鎌倉時代の社寺建築の部材の雄大さを受け継いだような感覚にあふれています。


 脇戸は、もとは両側にありましたが、現在は向かって左側のものだけが残ります。はめ込むというより、単に内側から貼り付けただけの形式が余計に古さを感じさせます。


 門の扉は内側に開かれています。透かし部分が無いのも社寺建築の門形式に倣った古い形式を思わせますが、現存部材がオリジナルではないようなので、元からこういう状態であったかどうかは分かりません。


 本丸と二の丸とをつなぐ橋です。江戸期は木橋であったようですが、深い堀切をまたいでいるので、有事の際にこの橋を落とせば守備側が大変有利になったものと思われます。ですが、地形的には丘陵先端部に孤立する形となるので、長く持ちこたえられたかは疑問です。


 もと来た道を引き返して二の丸地域を移動中、茨城大学教育学部付属小学校の敷地脇に、御三階とも呼ばれた三階櫓跡の標識を見ました。遺跡の位置は標識よりももっと南にありますが、将来的にはこれを復元するという計画があるそうです。


 大手橋に戻ってきました。次に向かう弘道館が見えてきました。時刻は既に9時を回っていたので、いつでも内部の見学が出来るわけです。


 大手橋を渡って右側には、徳川斉昭の銅像がありました。水戸藩九代藩主で、現在の弘道館および偕楽園を創設したことでも知られます。十五代将軍徳川慶喜の実父でもあり、幕末期における尊皇攘夷運動の流れに大きな関与をもったことでも有名です。
 でも、地元水戸市民のなかでは、この方の評価については両極端に分かれるところがあるようです。U氏も「藩主としてはよくやった方かもしれんけど、改革を急ぎ過ぎてかなり無理があったらしい。この人が藩主だった時期は領民の生活も苦しかったらしいし、思想的にも先走りし過ぎのところが無くもない。名君と呼ぶのは尊皇攘夷派だけで、あとの大多数は冷めた目で見つめていたんと違うかね」と淡々と語っていました。
 私は幕末維新期の歴史には疎いので、そういう評価もあるのか、と聞き入るのみでした。 (続く)

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