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読んだ本の感想と旅行の日記を書いていきます。
後、その他なんかあれば・・・

139冊目:「14歳からの哲学」

2015-06-29 21:15:28 | 
総評:★★★★☆ 深い。。。
面白い度:★★☆☆☆ 面白いというか難しい。。。
読みやすい度:★★☆☆☆ 難しいから読みにくい。。。
ためになる度:★★★★☆ 後でジワジワ効いてきそう
また読みたい度:★★★★☆ また機会があれば、ちょいちょい


2003年くらいに書かれた題名通り14歳のために書かれた哲学の本。
一応14歳向けに書いてあるだけあって、中学生くらいの人に諭すように書いてあるので、32歳で読んでいる自分としては、なかなか複雑な気分であった。
内容としては、タイトルには14歳とは書いてあるが、全然20代30代でも読める内容で、おそらく14歳だと内容がよくわからないんじゃないかと思う。
人間とは、心とは、善とは、言葉とは、仕事とは、勉強とは、と、色々なテーマで内容としては、とても深く、難しい。でも読むと色々考えさせられる内容なのであった。

作者の池田晶子さんは、文体から結構はおばちゃんかと思っていたのだが、後で調べてみると、40歳くらいの若い歳でこの本を書いていたようだ。しかも結構美人!
こんな色々物事を知ったような書き方で、40歳にして何を学んだんだろうと思う。何かしら悟っている感じは出ていた。
この池田さんは、実はすでにお亡くなりになっている方で、かなりの早逝であった。
なんかここまで若い人が、ここまで何か深い本を書いて、そして現在はもう亡くなっているなんて、なんか考えさせられる。


感想としては、良く分からないけど、深い。30個のテーマを一つ一つ理解するように読むと本当に時間がかかると思う。
一つ一つのテーマについて、とことん考えていて、結構強引な論法のところもあったりするが、池田さんの考えや思いが色々書いてあって、なかなか面白かった。新しい考え方を色々学べた本なのであった。

特に自分がいなければ世界が存在しない、とか、性や宗教についての考え方のところが面白かった。


感想はここら辺で、色々面白かったところを抜粋する。最初の「」は章の名前である。ちなみに「恋愛と性」については、面白かったので、章丸ごと抜粋させてもらった。また、アンダーラインのところは本では文字の上に点が付いていた箇所である。

「他人とは何か」
・自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、そういう意味で絶対的だということだ。この自分を「大きい方の自分」と呼ぶことにしよう。中学三年生の君は、「小さい方の自分」だ。これ以後の「自分」はすべて「大きい方の自分」の意味だ。
 君は驚くと思うけど、この意味で「世界」つまりすべてのことは、この大きい方の自分の存在に依っている。自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。(中略)
 続きを考えてゆこう。自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、当然、他人というものの存在もそうだということになる。世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、それらはすべて、自分が見ているその光景だ。もし自分が存在しなくて自分が見ているのでなければ、それらは一切存在しない。世界も他人も存在しない。なぜなら、それらを見ている自分が存在しないからだ。
 でも「自分が存在しない」ということは「ない」、ということも、先に気がついたことだったね。だから、やっぱりすべては存在するんだ。存在しないということはなくて、世界も他人も存在するんだ。すべてが自分として存在するんだ。なぜなら、自分でないものが存在するということはないからだ。「他人」なんてものは存在しないと最初に言ったのは、この意味だ。他人の存在を認めないとか、世界には自分しか存在しないとか、そんな子供のわがままみたいな話をしているんじゃない。これは本当に深くて、本当に難しい話なんだ。世界の謎そのものだと言ってもいい。これも、ここだけの話だけど、このレベルの議論についてこれるのは、世の大人でも本当に少数だから、君はそういう大人になれるよう今は目指してゆけばいい。自分だけが存在するんだから他人の存在は認めないんだ、なんて寝言を言ってる友だちには、認めないためには認めてなくちゃならないじゃないかって、言ってやれれば頼もしいね。
 自分は自分でしかないことによってすべてである。矛盾しているように聞こえるけれども、これも自分というものの存在の仕方の真実だ。矛盾というのはそれ自体が真実であるということも、ちょっと覚えておくと役に立つでしょう。自分はすべてなんだから、すべては自分である。これは矛盾ではないからわかるね。「すべて」というのは、文字通り、すべてのことだ。他人も、他人の体も、他人の心も、全世界、全生物、全宇宙、つまり森羅万象だ。大きい方の自分の、いちばん深いところでは、自分はすべてであり、また事実すべてとつながっているということだ。


「家族」
・じっさい、よく考えると不思議なことだ。どうして人は、家族と一緒に暮らしているのだろう。親や兄弟といっても、単にその人から生まれたとか、その人と同じ人から生まれたというだけのことであって、彼らが他人であることに変わりはない。どうして人は朝から晩まで他人と一緒にいて、しかも一生涯その他人と、家族という関係をもち続けることになっているのだろう。家族っていったいどういう関係なんだろう。
 この人はいったい誰なんだろう、と感じることはないだろうか。お父さん、お母さん、君が生まれたらそこにいたその人たちについてだ。なるほど、確かに彼らは君のお父さんでありお母さんだ。確かに君の体は、君のお父さんとお母さんが関係することによって生まれた。でも、君が君であるところのもともとの君は、誰から生まれたのでもないという不思議な事実には、前の考察で気づいたはずだ。つまり、誰から生まれたのでもない君にとっては、君のお父さんもお母さんも、君のお父さんやお母さんではないということだ。すると彼らはいったい誰なんだろう。気がついたらそこにいたその人たちは、君の親でなければ誰なんだろう。

・考えてもごらん。君はもっと幼かった頃は、お父さんお母さんというのは、何でもできて何でも知ってる全知全能の人みたいに思ってたかもしれないけど、そんあことあるわけないという当たり前のことについてだ。だって、君の親は、君が生まれることで、初めて親になったんだ。生まれた時から親だったわけじゃないんだ。君の親になる前は、君と同じように、人生についてあれこれ悩み、あれこれ迷う、普通の人だったんだ。そんな普通の人が、子供が生まれたからって、いきなり全知全能になるわけないじゃないか。「親の役割」なんて言いながら、彼ら自身、親になったのは人生で初めての経験なんだから、君の育て方だってよくわからなくて、毎日毎日迷っているんだ。そう思って、そんなふうに彼らのことを見てごらん。うるさいばかりのようなお母さんも、なんだ私と同じだなって、よっと可愛く見えてこないか。(中略)
 お父さんやお母さんの気に入らないところ、ダメだなと思うところを、ああ、そういう人なんだなと思って、受け容れてみてごらん。そして、この人はどうしてこういう人になったのだろうと、彼らの人生を想像してみてごらん。それこそが、子供が親から学ぶことができる人生の真実なんだ。親が子供に教えることなんかより、ずっと深くて、ちょっと哀しいものなんだ。


「社会」
・このことに気がつくことはすごく大事なことで、うまくこれに気がつくことができると、すべてがそんなふうにできあがっているということもわかるはずだ。「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。でも、自分の外に存在しているかのように思われる社会というものを、それならよく見てごらん。その社会に存在しているのは、やっぱり同じように思い込んでいる人々がいるばかりじゃないか。その人々の集まりのことを、「社会」と呼んでいるだけじゃないか。
 「ない」のに「ある」と思い込まれたものは、当然あることになる。自分の外に物のようにある社会は、当然自分に対立してあると思われることになる。社会は個人を規制するわずらわしいもの、個人主義のあの彼の捉え方だ。その極端なのが、わかるね、自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、他でもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言ってることになるのだろう。
 社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべきなんだとわかるね。なんでもすぐ他人のせいにするその態度を変えるべきなんだ。だって、すべての人が他人のせいにし合っている社会が、よい社会であるわけがないじゃないか。社会は、それぞれの人の内の観念以外のものではないのだから、それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがないんだ。現実を作っているのは観念だ。観念が変わらなければ現実は変わらないんだ。社会のせいにできることなんか何があるだろう。


「理想と現実」
・どうして人が何かをするかと言えば、そうすることが自分にとってよいと思われるからだ。歩くならば歩くことが、拒むならば拒むことが、その時の自分にとってよいと思われるからそれをするんだ。自分に悪いと思われることを、わざわざする人はいないよね。だから、人が何かをするということは、必ずよいと思われることを目指してするということなんだ。
 だったら、人が何かをするということは、必ず理想を目指しているということじゃないだろうか。理想があるのでなければ、人は生きてはいないはずだ。何かをすることができないからだ。理想なんかないから生きていたくもない、そう言う人だって、ご飯を食べようとする限りは食べることがよいことだと思うから食べるのだし、しょせん現実はそんなもんだよ、そう文句をいいながら生きている人だって、その文句を言うことがよいことだと思うから、その文句を言っているわけだ。その限り、誰もやっぱり自分の理想をちゃんと現実に生きているというわけだ。でも、現実に対して文句を言いながら生きる人生が理想だなんで、かなり空しいと思うだろ。
 しょせん現実はそんなもんだ、理想は理想にすぎないよ、そう言う人も、最初は理想をもっていたに違いないんだ。その理想をもち続けるのを途中で辞めてしまったが、理想を実現する努力を怠けているか、その言い訳をしているだけなんだ。でも、努力を放棄された理想は、単なる空想か、漠然とした憧れにすぎない。単なる空想なら現実になるわけがない。理想を実現しようと努力することこそが現実なんだ。
 理想がなければ現実はないということ、すこし実感できるようになっただろうか。目に見える君の人生や、君の人生を含むこの社会を、一番深いところで動かしているのは「理想」、目に見えない観念としての理想なんだ。ちょっと難しい言い方をすれば「理念」と言ってもいい。よりよくなりたい、よりよくしたいという、現実の原動力としての、その思いだ。このことを自覚している大人はとても少なくて、やがて理想を語る君に対して、「もっと現実を直視しなさい」と諭すようになるだろう。でも、見えるものとして現れた現実だけを見て、見えない現実を見ていないのは彼らの方なんだから、適当に聞き流すがいいよ。


「友情と愛情」
・本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。
 一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないとうことだね。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求めるような友だちは、やっぱり本当の友だち、本当の友情じゃないんだ。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられるもの同士の間でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?
 自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるよなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。

・どうして自分の好きな人だけを愛しちゃいけないんですか、どうして嫌いな人まで愛さなくちゃいけないんですかって、すごく素朴な疑問だよね。
 でも、その答えも、同じように素朴なものなんだ。いいかい、世の中には自分の嫌いな人、イヤな人がいる。でも、そういう人を嫌いだ、イヤだと思うその気持ちは、まさしくイヤなものじゃないか。自分にとってイヤなものじゃないか。自分にとってイヤなことはしないのが、自分を愛するということだ。自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしないんだ。そうじゃないか?


「恋愛と性」
・「⚪︎⚪︎君は××さんのことが好きなんだって!」というのが、友だちの間では、いつもすごい関心の的になるよね。あるいは、同性の友だちのことで悩むよりも、異性の友だちについての関心の方が、もっと切実なものがあるかもしれない。どうしてそうなのだと思う?
 これはまったく単純な理由だ。そこに性欲があるからだ。性欲、つまり性交をしたいという欲求だ。なぜ性交をしたいという欲求があるかといえば、子供をつくって子孫を増やすという生物としての本能が、そうなっているからだ。性欲というのは食欲と同じ本能的な欲求で、その意味ではまったくの自然なんだ。
 ところが、生物として子孫を増やすというそれだけのことなら話は単純なのだけれども、人間という生物の場合だけは、そう単純にはゆかない。他の動物の場合には、決まった発情期というのがあって、一年のうちのその期間だけ発情して性交するという仕組みになっているのに、なぜか人間にだけは、発情期がない。つまり年がら年中のべつまくなし発情している。いつでも性交できるし、いつでも性交したいという状態であるわけだ。
 そうすると、それが本来は子供をつくるための本能の仕組みであったという事実を、人は忘れがちになる。忘れて、性交によって発生する快楽の側ばかり関心がゆくようになる、そのうえ、性交するたびに子供ができるのでは大変なことになるというので、性交しても子供ができないような工夫をも人間は開発したから、性交を生殖とを完全に切り離すことが可能になった。つまり、性交の目的を生殖ではなくて快楽に限ることができるようになったんだ。こうして、性欲とは、生殖の欲求ではなくて快楽の欲求であると、実際に人々は思うようになっているというわけだ。
 「⚪︎⚪︎君は××さんのことが好きなんだって!」という話題に夢中になるのは、そこに、この快楽への予感があるからだ。本来は本能なのだけれども、字義通りには本能でなくなっているところの、その快楽への欲求があるからだ。本能であるところの食欲が、食べること自体を楽しむことによって、さまざまな食文化を生むように、本能であるところの性欲も、性交すること自体を楽しむことによって、さまざまな性文化を生むことになる。食文化における料理に当たるものが、言ってみれば、性文化における恋愛だ。恋愛は料理、自然ではなくて明らかに文化の一種なんだ。人間の性が、他の動物と違って、話が単純でなくなる理由もここにある。
 だって、考えてもごらん。恋愛、つまり誰か特定の異性を好きになるなんてことが、どうして本能の欲求であるはずがあるだろう。生命体を維持するための食欲、子孫を繁殖するための性欲。じゃあ恋愛は、何のためにするものだろう。自然法則にとっては恋愛なんて、無用のものでしかないはずだ。もし恋愛が自然の本能なのだったら、恋愛の相手は、誰でもいいのでなければおかしいね。子孫を増やすためだけなのだったら、雄と雌であればいいはずだよね。けれどもやっぱり、恋愛の相手は、必ず特定の誰かであるわけだ。⚪︎⚪︎君は××さんでなければだめで、⚪︎×さんではダメなんだ。どうしてそうなのだろう。
 これはよく考えると、すごく不思議で面白いことなのだけど、多くの人は、この不思議に気がつかずに、というよりも、刹那の快楽への欲求に目がくらんで、恋愛の対象と性欲の対象とを同じものだと思ってしまう。混同して錯覚してしまうんだ。じつはセックスしたいだけなのに、好きなのだと思っていたり、セックスすることが、好かれていることなのだと思っていたり、好きではないのはわかっているけど、とにかくセックスしたいから好きだと言ってみたり、これはわざと錯覚するとでもいうのかな、まあとにかく人間の性のややこしいことと言ったら、君も見に覚えがなくはないだろ。
 そんなふうに、人間の性への欲求というのは非常に強力で、ある側面からこの世を動かしている根源的なエネルギーなんだ。女性がオシャレをするのはこれによるし、男性が権力を誇るのもこれによることが多い。この側面からこの世の中のことをみてみると、なんかちょっと笑えてこないか。もっともらしい顔をして、もっともらしいことを言ってても、ひょっとしたらこれはホルモンのせいじゃないのかな、そう見抜ける目をもっていると、納得できることは意外と多いんだ。
 「多い」と言ったのであって、「すべて」と言ったわけじゃない。前に言ったね、「しょせん人間はその程度だ」という人は、しょせんその程度の人間なんだってこと。「しょせん人間はセックスだけだ」と言う人は、しょせんセックスだけの人間なんだ。ホルモンの衝動だけで行動して、首尾よくセックスできさえすれば、それが人生の意味なんだ。でも、その人がそうだからといって、すべての人がそうであるわけではない。もしそういう人が言うように、人間はしょせん動物なら、なぜ恋愛の相手は特定の誰かなのかについて、考えてみよう。
 君が誰かを好きだと思う時、なぜ好きなのか、自分で理解できるかしら。見た目がきれい、カッコいい、やさしい、頭がいい、理由は挙げれば挙げられるだろうけど、きれいでカッコいい人なら、その人でなくても他にもいるはずだよね。でも、なぜその人がいいのかしら。その人でなければダメかしら。
 よく考えると、人が人を好きになるのに明確な理由なんかないみたいだ。本当に好きなら、やっぱりこれも無条件なんだ。もしも、きれいでカッコいいという条件によって、その人のことが好きなのなら、その人が何かの理由で不細工になったら、たちまちイヤになるはずだよね。だったら、本当に好きだったのではなかったわけだ。お金にひかれる友情と同じで、見た目にひかれる恋愛というのも、やっぱり本当ではないわけだ。
 あるいは、見た目にひかれて付き合ってみたけど、話してみたら全然つまらないとか、セックスしたら飽きちゃったとか、すると、それも本当ではなかったことになる。もっとも、恋愛というのは、最初から本当のことではない。つまり遊びだと言うこともできる。毎日同じ料理を食べてたら飽きるから、毎日違う料理を食べたいってわけだね。でも、そういう遊びの恋愛が本当はつまらないものであることは、まさしくその行為が証明しているのじゃないだろうか。つまらないからこそ、そうして遊んでいるのじゃないだろうか。
 心は心、体は体という割り切り方をする人もいうようだ。恋愛は恋愛で、セックスはセックス、好きでない人ともセックスはできるから、セックスだけ別にして売ってしまおうという、それが売春という行為だ。体は売っても心は売らないという変な理屈だけど、見えも触れもしない心を売れないのは当然だ。たとえ売れるにせよ、売れるものなら何でも売ってしまおうなんて安い心を、わざわざ買う人なんぞいやしない。なのに、その子は、心が大事だから売れないのだと思っているのだから、哀れな勘違いじゃないだろうか。
 なぜ心は大事で、体は大事ではないのだろうか。心が大事なら、体も大事なはずなんだ。心と体とは別のものではなくて、同じものの裏表なのだということについて、「体」の章で考えた。人は、見える体のことは確かによく大事にする。手入れをしたりお化粧をしたり、なるほど時には売り物にもなるからだ。でも、売り物にするのだから、やっぱり大事にしているわけじゃない。じゃあ心は大事にしているのかと言えば、体を売るというその考えが、そのまま心を売ることなのだから、やっぱりこれも同じことだ。
 たぶん、したいことをすることが、心を大事にすることだと思っているのだろう。「誰にも迷惑かけないのに何が悪いの」というのも、売春する子の屁理屈だ。他人に迷惑をかけることが悪いことなのではないということは、「規則」の章で考えた。その通り、その子が売春したところで、誰も迷惑は受けないし、悪くなることも何もない。だけど、この世でたった一人だけ、大変な迷惑をうけ、大変悪いことになる人がいる。売春しているまさにその子だ。心も体も大事にしないで、それが悪くならないはずがないじゃないか。自分が悪くなることをすることが、どうしてしたいことをしていることになるのだろう。
 売春してる子、しようとしてる子は、これからの人生でひょっとしたら一番大事かもしれないことを、最初から亡くしてしまっている可能性について、考えてみるといい。セックスというのは、好きな人とするからこそいいことなのかもしれないのに、好きでない人とのセックスをお金に換えることで、そのいいことを一生知らないままでいるかもしれないとしたら、どうだろう。すごく勿体ないことだと思わないか。
 そういう人も、いつかは本当に好きな人を見つけて、かつての過ちに気づけたなら、幸いだ。友達をその数の多さだけで誇れるものではないように、恋愛やセックスも、その数の多さだけで誇れるものではないだろう。だって、口があるなら好きだと言えるし、性器があるなら性交はできる。そんなのは誰にでもできることなんだもの、しょせん動物なんだから。
 誰にでもできるのではないことは、動物ではない人間にしかできないことは、その人のことを愛することが、自分を愛することである、そういう恋愛をすることだ。自分を愛せる人でなければ、他人を愛することはできないのだったね。恋愛も同じだ。いや、動物としてのセックスがあるぶんだけ、恋愛こそが試されることだ。先は長いけど、そんなに長くもない。検討を祈るよ。


「仕事と生活」
・「生活」という言葉を、君はどんな意味合いで使っているのだろうか。眠って、起きて、ご飯を食べて、学校へ行く、そういう繰り返し、その毎日のことを「生活」と呼んでいるよね。楽しいこともあるけど、つまらないこともある、その毎日を生きることを生活することと呼んで、そんなふうに生活しているだけで、それ以上の意味はないよね。ところが、大人は、そうじゃない。気をつけてきいていてごらん、大人が「生活」という言葉を口にする時、ある特有のニュアンスがあることにやがて君は気がつくだろう。
 大人が「生活」という言葉を口にすると、その後は決まって、「-があるからな」「ーしなければならないからな」と続くはずだ。大人にとって、生活とは、「しなければならない」もの、大人は生活しなければならないんだ。この言葉遣いがいかにおかしなものであるか、君は大人になる前に是非か気がついておくがいいよ。


「品格と名誉」
・たとえば、小綺麗な格好をして、言葉遣いも気取っているけど、口を開けば人の悪口なんかを嬉々として喋るような人なら、ああ嫌味な人だな、上品に見られたくて気取っているんだ、下品だな、と感じるよね。事実、それは「げぼん」なんだ。なぜなら、関心の対象が他人や他人にどう見られるかということにしかなくて、自分の内面、精神性をどう高めるかということにはないんだから、そういう人の精神が高いものにならないのは当然だ。
 あるいは逆に、服装は小汚くて、言葉遣いもガラッパチだけれども、話をしてみれば、曲がったことが大嫌いで、どうすれば人の役に立てるかということを常に心がけているような温かい人柄の人もいるよね。きっと照れくさいから、わざとそういう態度をとっているんだ。すごくじょうひんな人、「じょうぼん」とは、こういう人のことを言うんだ。

・自尊心を保つ、ということとプライドがあるということは、間違いやすい。誰も自分が大事で、プライドがあると思っているけど、それなら他人に侮辱されても腹は立たないはずだよね。なぜなら、自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価なんか気にならないはずだから。もしそうでないなら、自分の価値より他人の評価を価値としていることになる。するとそれは自尊心ではなくて、単なる虚栄心だといことだ。
・「卑しい」ということは、精神にとって最大の恥ずべきことだ。卑しいことは、恥ずべきことだ。卑しいということは、精神が下位のものにへつらうことだ。それを得るために自分を売ることだ。


「メディアと書物」
・なるほど、地球の裏側の戦争の情報を知ることは、人生の大事なことを考えるためのきっかけにはなるだろう。でも、その前にはやはり、考えるとはどういうことなのかを理解していなければならないはずだ。そうでなければ、何のための情報だろう。メディアが手段だというのは、その意味では正確だ。しかし、今や世の人は、何を何のために知りたいのかを考えもせず、とにかく知りたいのだと、情報を追いかけて奔走している。手段の目的化という完全な本末転倒だ。
 生きるためには、今や情報は絶対に必要なんだという人が大半だ。実社会で仕事をしている人たちは、毎日毎瞬めまぐるしく変化する株式情報などを追いかけていないと、仕事にならないんだ。でも、だからと言って、仕事をするために生きているのか、生きるために仕事をするのか、何のために生きているのかという、人生にとっての最も大事なあの問いと、問いの答えとしてのその知識とは、少しも変化していない。ここではっきりとわかるだろう。情報は変化するものだけれど、知識というのは決して変化しないもの。大事なことについての知識というのは、時代や状況によっても絶対に変わらないものだということだ。
 考えてごらん。電話もテレビもなかった百年前も、何もなくて自然とともにあった五千年前も、そして、ネットだグローバルだの現代社会も、人が生まれて、生きて、そして死ぬという事実については、まったく同じなんだ。何ひとつ変わっていないんだ。生まれて死ぬ限り、必ず人は問うはずだ、「何のために生きるのだろう」。数千年前から人類は、人生にとって最も大事なこの問いについて、考えてきたんだ。賢い人々が考え抜いてきたその知識は、新聞にもネットにも書いてない。さあ、それはどこに書いてあると思う?
 古典だ。古典という書物だ。いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。何千年移り変わってきた時代を通して、まったく変わることなく残ってきたその言葉は、そのことだけで、人生にとって最も大事なことは決して変わるものではないということを告げている。それらの言葉は宝石のように輝く。言葉は、それ自体が、価値なんだ。だから、言葉を大事に生きることが、人生を大事に生きるということに他ならないんだ。


「歴史と人類」
・自分が精神であることを忘れた精神、物質主義的世界観の行き着く果てが、現代のこの光景だ。穴ぐらで石器を作っていた時代から、科学の萌芽、近代以降のその爆発的加速を経て、ついにここまで進んできたというわけだ。でも、おそらく石器時代の人々は、自然とともに生きるということが、生きるということの意味だったから、間違えてはいなかった。ギリシャの科学者たちだって、自然の不思議、謎への畏怖を忘れてはいなかった。だからこそ偉大だったんだ。
 けれども、宇宙は物質である。科学は万能であると思い込んで、精神のことなど忘れ果てた二千年後の現代人たちのしでかすことの数々を、そう思って冷静に見てごらん。
 何のために生きるのかを考えず、とにかく生きればいいのだとおもっているから、とにかく生き延びるための生命技術は、大変な発達の仕方をしているね臓器移植やクローン人間、もっと異様な技術も、これからどんどん出てくるだろう。生きたいという人の願いは自然なものだと、それらの技術を推進する人々はいうけれど、「何のために」生きたいと願うのかは、必ずしも考えられてはいないんだ。もしそれが、精神を貧しくする快楽や欲得のために生きたいのだったら、そのような人生に何の意味があるだろう。なぜなら、精神が豊かであるということだけが、人生が豊かであるということの意味だからだ。


「自由」
自分にも他人にもよいことを言うから、言論は自由なんだ。自分にも他人にもよいことをいうのは、誰にも正しい言葉のことだ。誰にも正しい言葉なのだから、それを言うのは私の自由だと主張する必要がない。つまり、人には、正しい言葉を言う自由だけがあって、正しくない言葉を言う自由はないということだ。だからこそ、人は正しくない言葉を言うときには、これは言論の自由だ、私の自由だと、他人に対して主張することになるんだ。面白いよね。
 なんであれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。このことはしっかりと覚えておこう。いいかい、「私は自由だ」と他人に対して主張するということは、その人が不自由であるからに他ならないね。つまり、「私にはしたいことをする自由があるのに、したいことをする自由がないのだ」と。いったいこれは何を言っていることになるのだろう。
 よいことをしたいのなら自由だし、悪いことをしたいのなら自由ではない。その善悪の判断を自分ですることをしないで、他人にその判断を求めているんだ。他人に自分の自由を求めているのだから、他人に与えられるような自由が、自分の自由であるわけがないじゃないか。
 自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくことなんだ。自分で判断するのでなければ、どうしてそれが自分の自由であるはずがあるだろう。自由は判断する精神の内にある。精神の内にしかないんだ。現在の自由主義社会の人々は、このことをほとんど理解していない。社会制度がどうなのであれ、精神さえ自由ならば、人々は完全に自由であり得るという普遍の真理についてだ。

・死への怖れが、人間の中では一番大きな怖れだ。これが人生を最も不自由にしているものだ。死ぬことを怖れて、人がどれだけ人生を不自由にしているかを想像してごらん。生き「なければならない」、食べ「なければならない」、みんなと合わせ「なければならない」、あらゆることがこの怖れから出てきているとわかるだろう。でも、死は怖れるべきものではなかったのだったね。考えれば、人は必ずそのことに気がつく。そのために精神というものがあるんだ。精神は考えて、自由になるためにこそ存在しているんだ。
 人間はあらゆる思い込みによって生きている。その思い込み、つまり価値観は人によって違う。その相対的な価値観を絶対的だと思い込むことによって人は生きる指針とするのだけれども、まさにそのことによって人は不自由になる。外側の価値観に自分の判断をゆだねてしまうからだ。この意味では、イスラム過激派も自由民主主義も、同じことだ。自分で考えることをしない人の不自由は、まったく同じなんだ。人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には、存在しない。(中略)
 あらゆる思い込みから自分を解放した精神とは、捉われのない精神だ。自由とは、精神に捉われがないということだ。死の怖れにも捉われず、いかなる価値観にも捉われず、捉われないということにも捉われない。何でもいい、何をしてもいい、なにがどうあってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。これは本当にものすごい自由なんだよ。たとえば、想像してみるといい。死ぬという思い込みから解放された精神が、永遠に存在する宇宙として自分のことを考え続けているといった光景だ。とんでもない自由だとは思わないか。こんな自由は、やっぱり怖ろしくてたまらないから、多くの人は、勝手知ったる日常の不自由に戻ってゆくのだろう。


「宗教」
・人が信じるのは、考えていないからだ。きちんと考えることをしていないから、無理に信じる、盲信することになるんだ。死後の存在をあれこれ言う前に、死とは何かを考える。神の存在をあれこれ言う前に、何を神の名で呼んでいるのかを考える。もし本当に知りたいのであれば、順序としてはそうであるべきだとわかるだろう。
 信じる前に考えて、死は存在しないと気がつけば、死後の存在など問題で亡くなるはずだし、死への怖れがなくなれば、救いとしての神を求めることもなくなるはずだ。そして、救いとしての神を求めることがなくなれば、にもかかわらず存在しているこの自分、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。この「なぜ」この謎の答えに当たるものこそを、あえて呼ぶとするのなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうかと。
 この意味での「神」は、民族や宗教によって違わないし、信じる信じないとも関係がない。なぜならそれは、自分や宇宙が「存在する」ということそのものだからだ。「存在する」ということは、信じることではなくて、認めることだ。それを事実として認めることだ。「ある」ということは「ある」ということであって、「ない」ということではないということを認めない人がいるだろうか。
 当たり前すぎて難しいかな。なぞなぞみたいだろ。そりゃそうさ、だって、それこそが究極の謎だからだ。「ある」ということの驚くべき不思議、神様だって、「ある」限りは、なぜ自分があるのかはわからない。「ある」ということに答えはないんだ。どうしてそうなのだろう?これってとてつもない可笑しいことだと思わないか。
 お釈迦様やキリスト、いにしての開祖たちは、みな、この謎の姿を見た人たちだ。決して答えを見出したわけじゃない。彼らが何かの答えを見出したと思って、人々がそれを信じようとするとき、それがいわゆる宗教になる。教団を作って、教義を作って、誰か権力者がいて、互いに争ってというあの愚かな構図だ。でも、謎には答えがないのだとわかっているなら、どうしてそんなことになるはずがあるだろう。
 これからの君は、古い宗教のそういった失敗をしっかりと自覚して、正しく考えて、新たな意識を拓いて行くんだ。


「人生の意味[1]」
・さらに、そもそもの前提を疑っていないということで、この考え方の不徹底さもわかるだろう。ここまで一緒に考えてきた君なら、もうピンとくるよね。そう、「死ぬ」ということは、すべてが無に帰するということであるのかどうかという、あの重要な一点だ。無は「ない」のだから、死は「ない」、だから死を前提にして生きることはできないという真実だ。
 この真実に気がつけば、多くの人たちがそれを時間だと思っている「時間」というもののあり方が、まったく違ったものになることもわかるはずだ。死はないのだから、生の時間は、終点としてのして向かって前方へ直線的に流れるものではなくなるんだ。でも、世の人は、時間は前に流れるものだという間違った思い込みで生きている。それで、いろいろ予定したり計画したりして、忙しいとか時間がないとか文句言ってるわけだけど、それはすべて自分でそう思っている思い込みにすぎない。時間というものは、本来、流れるものではないんだ。過去から未来へ流れるものではなくて、ただ「今」があるだけなんだ。だって、過去を嘆いたり未来を憂えたりしているのは、今の自分以外の何者でもないじゃないか。


「存在の謎[2]」
・たとえば、SFを読まない君だって、毎晩夢は見るだろう。君は、あれが非常に奇妙なものだということに、気が付いているだろうか。むろん、夢の中身は十分に奇妙なものだ。空を飛んだり、お化けから逃げたり、動物や他人に自分がなっていたりする。でも、もっと奇妙なのは、その奇妙なことを奇妙なことだと、夢の中では決して思わないということだ。奇妙なことは、夢を見るというそのこと自体なんだ。
 夢の中で他人になっている君は、それを奇妙にも思わず、その他人が自分だと「わかる」。どうして「わかる」のだろう。もしその他人が自分であるなら、では自分とは、その他人なのだろうか。それとも、その他人であると「わかる」自分なのだろうか。自分が他人であるとは、どういうことなのだろう。「自分」とは、いったい誰なのだろう。ここにも「自分」の謎が、顔を出しているとわかるね。
 君が普段それを自分だと思い込んでいる自分とはまったく違う奇妙な自分が、そこで夢を見ているときがついたなら、ここではヒントだけをあげよう。君は夢を見ているのではなくて、夢が君を見ているんだ。これがどういうことなのか、あとは自分で考えて行ってごらん。夢を考えるのには、得体の知れない面白さがあって、冒険者にはたまらない魅力のはずだ。もうひとつだけヒントをあげると、それは、宇宙というものそれ自体が、自分が見ている夢だからなんだ・・・


以上。こう振り返ってみてみると、かなり面白いことがかかれていたんだなあと思う。
でも自分が14歳の時じゃ全く解らなかっただろうなとも思う。でも、もうちょっと若くして読んでおいても良かったかなとも思う。
色々考えさせられる内容ばかりだったが、一見じゃ解らないと思う。また一から見ようとは思わないが、気になった内容については、ちょいちょい考えて振り返ってみたいと思う。

そんなんで、久しぶりに長くなったが以上☆
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