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奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

三島由紀夫自決の真相をさぐる

2014-01-14 07:12:06 | 読書
 去年の秋、三島由紀夫の「不道徳教育講座」を読み、その才能のすごさに驚いた私は、

ほかの作品もふれてみたくなりました。

ですが、三島由紀夫が自決した訳に目をつぶり著作を読むのにどうしても抵抗を覚え、

二の足を踏んだまま、無為な日々を送り続けていました。

 ところが、昨年の暮れに、古本屋で「戦後派作家は語る」という本を見つけ、その帯紙

の「本書の対談には三島由紀夫氏自決の謎を解く重要な鍵が秘められている」という一文

に目がとまったのです。

 その本は、三島由紀夫が自決する一週間前に喋った対談集でした。

 そして、つい最近、三島由紀夫の自決にふれた「週間新潮が報じたスキャンダル戦後史

」と、「週間朝日が報じた昭和の大事件」という本を相次いで見つけ、彼の死の謎を探っ

てみたくなったのです。

 では、三島由紀夫の自決はどうやって行われたのか、「週間新潮が報じたスキャンダル

戦後史」から抜粋してみます。


 初冬らしくよく晴れた十一月二十五日は「楯の会」の定例訓練日であった。自衛隊市ヶ

谷会館の一室は、そのために予約されていた。
 朝十時過ぎ、集まった三十七人のカーキ色制服の隊員を前に、三島由紀夫氏(四十五)

が約三十分訓話をしている。ふだんなら、訓話のあと、隊内で軍事訓練を行うのが通例な

のだが、この日のプログラムは変わっていた。前日から、三島氏自身が自衛隊東部方面総

監部の益田兼利陸将(五十六)に面会を求めていたのである。総監と三島氏はこれまでに

も毎月一回程度は面談しているので、この面会予約はとれていた。が、市ヶ谷会館の中で

は、「楯の会」の会員同士でちょっとした激論があったらしい。三島氏が「五人で行く」

と発表すると、「全員で面会を求めて、乱入しよう」という声が上がり、「いや、穏当に

やろう」という意見が大勢を占めた。そして、三島会長ほか四名が予定通り、十一時前、

総監室を訪れる。
 総監室でのやりとりは最初は穏やかだったが、三島氏が軍刀を抜き、「総監、この刀は

素晴らしいと思うんですが、ちょっと鑑定して下さい」と言い、総監が刀のほうへ注意を

向けている間に、四人の学生が羽がいじめの挙に出た。
 そして要求したことが、「駐屯地にいる隊員達を本館に集め、そこて十三時までに講演

させよ。その間、逮捕および攻撃は一切行わないこと・・・。この条件が守られない場合

は、総監を殺害して自決する・・・」
 この要求を総監が蹴ったところ、三島氏らは激昂し、軍刀で総監を一撃したが、総監が

身をかわしたため、切っ先で右手首を軽く傷つける程度に終わった。
 それから総監を細ひもで後ろ手に縛り、騒ぎを聞いて駆けつけた山崎陸将補ら数人にも

重軽傷を負わせて軟禁、総監室を内側からバリケードでふさいで要求の実行を迫る。やむ

なく、要求を入れて約一千名の隊員を本館前に集め、三島氏の約十分の演説。この内容と

聴衆の反応とを、警視庁の警備課員が詳細にメモしていた。
 「何を言うか、ひっこめ」「英雄気取りになるな。降りてこい」とヤジ。
 「黙れ、男一匹、命をかけて訴えているんだ。よく聞け」と三島氏が叫んでも、マイク

なしの肉声では全員に聞き取れない。
 「諸君は武士だろう。自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして気がつかない

んだ。男は立つべき時には立つものだ。私らの側に立つ者はいないのか」
 最後の頃の彼の叫びは、悲痛でさえあった。ヤジを飛ばすのは兵隊と陸将クラス、下士

官はじっと黙って聞いていたのが印象的だった。
 演説を終えたあとの行動は、縛られた増田総監が目撃している。
 部屋に帰って来た三島は、「どうもよく聞いてもらえなかった」とポツンと言い、上着

を脱ぎはじめた。
 総監が大声でいさめたが、作家は青い顔をしたまま部屋のすみに座り込んで、割腹。
 「エーイ、と大声をあげて短刀を腹に刺した」と総監は見ているが、検証の結果、短刀

は腹に先端を突き立てただけで、すぐに隊員の森田必勝(二十五)、早大生、が介錯して

いる。その森田も自ら短刀を首に刺し、その首を同じく古賀浩靖(二十三)、神奈川大生

、がハネた。
 

 これが、三島由紀夫が自決の一部始終だったそうです。


 三島由紀夫が自決した理由を、文芸評論家の江藤淳はこう解釈しています。

 昭和十九年、三島氏が「花ざかりの森」をひっさげて日本浪漫派から登場してきたとき

は、「唯美ナショナリズム」の作家であった。
 以来、それは一貫していたと言えるかも知れない。
 しかし、間もなく戦争が終わって、三島さんは戦後派のアンファン・テリブル(恐るべ

き子供)となり、皮肉な才気あふれる作品を書く。国が敗れて、ナショナルなものが否定

されたとき、三島さんは美意識の鎧を着て、三島文学を鍛えあげて、そして、「金閣寺」

に至るわけです。
 ところが、それから「鏡子の家」を書き、この頃から三島さんは変わってきたと思う。
 文学作品の中に三島さんが燃焼する時代が過ぎたとでもいうか、そろそろナショナリス

ティックな心情を表に出せるようになったとき、鎧の必要がなくなり、彼の中で占めてい

た文学の嵩が減ってきたのではないでしょうか。そして、思想、行動でもってやる。それ

が68年辺りからの日本の激動の中で、どんどんエスカレートしていったんでしょう。
 60年安保の直後「憂国」を書く。これは政治的というより美的な作品だと、私は思う。
 しかし、これが映画化される頃になると変わってくる。今度はそれを映画の中で三島さ

んが演じることに重点が出てくる。行動者の方に振り子が動いたんです。
 「英霊の声」になれば、さらにイデオロギー的になってきます。しだいに三島さんにお

いて、文学は現実の行動に付け加えられた注釈みたいになったように思います。全共闘と

論争し、「楯の会」を作る。現実を舞台にして、自分の肉体をもって書くのがホントの彼

の作品なんですね。
 が、武田泰淳さんもおっしゃっているが、作家は自分の出来ないことを原稿紙に書き、

そこで踏みとどまっているものであって、ああいう美学を実践し始めれば、結局は死なな

ければなりません。「鏡子の家」以後、三島さんが、自分で作品になろうとしたとすれば

、作品を作家が完結させるように、三島さんは自分の人生を完結させなければならなくな

ります。普通は偶然の死によって完結するわけだが、三島さんの場合は、その作品と同じ

ように、細かく筋立てられて、必然の死が設定されるわけです。彼の政治的発言は作品の

中の描写のようなものでしょう。文学的自決というか、三島さんらしい。

 

 江藤淳氏は、同じ文芸評論家の小林秀雄との対談で、三島由紀夫の自決について討論し

ていますが、こちらの方がより詳細で、的確に論評しているのに驚いてしまいました。


では、次に三島由紀夫が自決する一週間前に文芸評論家の古林尚と対談した「戦後派作

家は語る」という本の内容にふれます。

 古林は、三島由紀夫との対談の前に、野間宏、武田泰淳、堀田善衛、埴谷雄高、井上光

晴、椎名麟三ら、戦後派の作家と対談していて、この対談は、戦後に対する反省から出発

したと話しています。
 
 私にとっての戦後とは、近代的自我の確立という言葉に集約されるところの、政治的・

経済的・人間的な諸権利の実現ということでした。(古林尚)

 ところが、古林と2歳しか年が離れていなくて、ほぼ同時代を生きてきた三島由紀夫は

、「日本の戦後革命では、合理主義に偏してしまった。人間主義に偏してしまった。」と

嘆き、三島ならではの美学をこう喋っています。
 
 「ジョルジュ・バタイユは、死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いてる

んです。その言うところは、禁止というものがあり、そこから解放された日常があり、日

本民俗学で言えば、晴と褻というものがあって、そういうもの・・・晴がなければ褻もな

いし、褻もなければ晴もないのに・・・つまり現代生活というものは相対主義のなかで営

まれるから、褻だけに、日常性だけになってしまった。そこからは超絶的なものは出てこ

ない。超絶的なものがない限り、エロティシズムというものは存在出来ないんだ。エロテ

ィシズムは超絶的なものにふれるときに、初めて真価を発揮するんだとバタイユはこう考

えているんです。」

 それに対し、古林は、「その超絶的なものが三島さんの場合にはすぐ天皇のイメージに

短絡してしまう。そして、エロティシズムはセックス抜きで、観念の高みに飛翔してしま

う。だけども確かバタイユは、反ファシズム運動という、それこそ具体的で日常性そのも

のである抵抗の闘いの中から、あの特異な理論を編み出しているんですね。」と答えます


 すると、三島は「ぼくの場合にはバタイユから啓発されたんで、バタイユそのものでは

ありません。ぼくの内面には美、エロティシズム、死というものが一本の線をなしている

。それから残酷もありますが、あれはコンクリートなもので、普通にはザッハリッヒ(客

観的、即物的)なものと考えられています。ところがこれを、バタイユはザッハリッヒな

ものとして扱っていません。ー中略ー バタイユは、この世でもっとも残酷なものの極致

の向こう側に、もっとも超絶的なものを見つけ出そうとして、実に一生懸命だったんです

よ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、今の人間は救わ

れないんだと考えていたわけです。」と返しています。

 
 こうした三島由紀夫の考えを、作家の澁澤龍彦が解釈した文章があります。
 それを読むと、三島由紀夫の自決した理由が、もっと明確になります。


 とうとうやったか、という気がした。ただ、私は彼の思想はまったく信用していない。

天皇制云々とか、右翼思想などのイデオロギーは、彼自身が行動を取りやすくするための

アリバイ工作に過ぎない。
 彼は本質的にニヒリストで、何も信じていない。自分の信じていないことにだけのめり

こんでいって、その結果がああいう行動になった。だから、彼の行動を理解するために政

治的、思想的な側面から考えていこうとすることには意味がない。
 アプローチの唯一の手がかりとなるのはエロティシズムだ。
 人間の本質、人間性というものを考えていくと、肉欲に突き当たる。
 そして肉欲のその裏をさらにえぐっていくと、結局死まで行き着かざるを得ない。彼を

死に到達させたのは、このエロティシズムを極致まで追求しようとする姿勢だったのだ。
 あの死によって美学を完成させた、という考え方には私は同調しかねる。美学だけなら

ば、別に行動する必要はない。しかし、彼はポテンツが高かった。そのために、美学を突

き抜けて行動にまで移さざるを得なかった。
 局外者を殺してはいないし、彼のやりたいことをやったのだから、周囲でどうこう言う

のは滑稽だ。エロティシズムの極致として、男と一緒に死にたかったのだ、としか言いよ

うがない。ニヒリストで、現在の何ものも信じていなかった彼は、全学連の学生たちが未

来のユートピアに向かったのとちょうど正反対に、過去のユートピアに目を向けた(心情

的には全否定、という意味で全学連と三島との間には共通したところがある、ともいえる

のだが)。そして、そこで人間性を追求した結果、彼のエロティシズム文学が生まれた。
 一方、マゾヒスト三島は、道徳的マゾヒズムとでもいうべき、聖セバスチャンのピュー

タリズム的死に大きく傾斜していた。
 そこから衆人蔑視の中で死を選ぶという態度が生まれてきている。そうしたエロティシ

ズムとマゾヒズムが渾然となった存在が三島由紀夫だったのであり、その思想に共感して

書いてもらった作品が、「血と薔薇」だったのだ。あの行動が彼のアリバイ工作であり、

エロティシズムの極致であってみれば、そこにはイデオロギーも社会的意味もありえよう

はずがない。まして、あの事件は、彼の作品の価値に何の変化を与えるものでもない。



 
 




 しかし、三島由紀夫が自決した日の朝、「新潮」連載の「豊饒の海」の原稿を、直接、

彼から受け取った編集者の小島千加子は、三島が自決した年にサンケイ新聞に寄せた文章

をもとに、こんなふうに書き記しています。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐ事は出来ない。このまま行ったら、日本はな

くなってしまふのではないかといふ感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代は

りに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある

経済大国が極東の一角に残るのであろう。「私の二十五年」(サンケイ新聞夕刊昭和45

年7月7日)

 現在の日本の姿を見透かした洞察力の凄さ。私達が漠然と感じている不安感、空虚感と

は比較にならぬ強い絶望感を三島由紀夫は抱いていた。
 保田与重郎は三島由紀夫の着目と感受力について、「人類滅亡の危機感にまで至るよう

な、人間の業に対する思考及び態度」と言い、「さらにその察知の能力、それは宿命的な

恐ろしさである」と捉えている。

 そして、小島千加子はこの文章を、こう結んでいます。


 歴史上に際立つ里程標として、三島事件は今後も折にふれ、私達を覚醒させるべく、強

い光芒を放ち続けるであろう。






 こうして、様々な人達の解釈と、本人の言葉で、三島由紀夫の自決の謎を調べた私は、

彼の訴えたかった事を知るべく、ようやく著作を読む意欲が湧いてきました。
 



   

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