20日に開催されます「みなと酒田トライアスロンおしんレース」は
おかげさまで25回目となりました。
プログラムの後ろの方に、歴代のプログラムの表紙の写真一覧が載っています。
国内で最初にトライアスロンの大会が開かれたのが鳥取県の皆生温泉です。
今年で30回目と聞きました。
その数年後、宮古島大会(BSで生中継されトライアスロンブーム到来のきっかけとなりました)、
アイアンマンジャパンびわ湖(Mrアイアンマンデイブ・スコット参戦)、
国内初の51.5kmのレース天草大会などビッグなレースが次々と産声を上げて、
トライアスロン元年と呼ばれたのが1985年(昭和60年)。
第1回おしんレースはその翌年1986年に誕生しました。
開催のきっかけは、当時酒田市に提言する市民グループ
「さかた50人委員会」のメンバーの発案でした。
発起人今井和彦氏(現カスタムエージェント社長)が傾倒していたのが、
フォークシンガー高石ともやさんの生き様。
(高石ともやさんは皆生トライアスロンの初代チャンピオンです)
まだ国内でもトライアスロンの大会が少ない時代だったので、
全国から参加者が集まりました。(内7割が初トラ、私もその一人です)
おしんレース。
おしんのしんは辛抱のしん。
辛抱=耐える(鉄人レース)というわけです。
第5回大会までは川南地区の公道を使った広いエリアでレースが行われていました。
浜中海岸で水泳、
広野地区の田園地帯を自転車で駆け、
袖浦地区の松林を走って土門拳記念館にゴールしました。
しかし5回の大会中、海のコンディションの関係で3回は水泳が中止。
これはいただけません。
そこで第6回大会からはレースをフルモデルチェンジ。
庄内トライアスロン協会が全面的に主管し、
日本を代表する大きな大会に育って欲しいという思いから、
名前を「日本海トライアスロンおしんレース」に変更しました。
そして会場を大浜海岸(スイム中止のリスクが小さい)に移し、
湾岸のクローズドコースを周回するレイアウトにしました。
レースエリアをコンパクトにしてスムーズな運営を目指したのです。
続きは明日。
おかげさまで25回目となりました。
プログラムの後ろの方に、歴代のプログラムの表紙の写真一覧が載っています。
国内で最初にトライアスロンの大会が開かれたのが鳥取県の皆生温泉です。
今年で30回目と聞きました。
その数年後、宮古島大会(BSで生中継されトライアスロンブーム到来のきっかけとなりました)、
アイアンマンジャパンびわ湖(Mrアイアンマンデイブ・スコット参戦)、
国内初の51.5kmのレース天草大会などビッグなレースが次々と産声を上げて、
トライアスロン元年と呼ばれたのが1985年(昭和60年)。
第1回おしんレースはその翌年1986年に誕生しました。
開催のきっかけは、当時酒田市に提言する市民グループ
「さかた50人委員会」のメンバーの発案でした。
発起人今井和彦氏(現カスタムエージェント社長)が傾倒していたのが、
フォークシンガー高石ともやさんの生き様。
(高石ともやさんは皆生トライアスロンの初代チャンピオンです)
まだ国内でもトライアスロンの大会が少ない時代だったので、
全国から参加者が集まりました。(内7割が初トラ、私もその一人です)
おしんレース。
おしんのしんは辛抱のしん。
辛抱=耐える(鉄人レース)というわけです。
第5回大会までは川南地区の公道を使った広いエリアでレースが行われていました。
浜中海岸で水泳、
広野地区の田園地帯を自転車で駆け、
袖浦地区の松林を走って土門拳記念館にゴールしました。
しかし5回の大会中、海のコンディションの関係で3回は水泳が中止。
これはいただけません。
そこで第6回大会からはレースをフルモデルチェンジ。
庄内トライアスロン協会が全面的に主管し、
日本を代表する大きな大会に育って欲しいという思いから、
名前を「日本海トライアスロンおしんレース」に変更しました。
そして会場を大浜海岸(スイム中止のリスクが小さい)に移し、
湾岸のクローズドコースを周回するレイアウトにしました。
レースエリアをコンパクトにしてスムーズな運営を目指したのです。
続きは明日。