龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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先日、文房具屋さんに立ち寄ったら

2012年03月29日 23時12分10秒 | ガジェット
色彩雫(iroshizuku)というインクの新色シリーズのキャンペーンをやっていた。
併せて、そのインクの色が見た目でも楽しめる、透明軸のカジュアルな万年筆もずらりと並んでいた。

もう、それだけで「そそられる」。

しかし現状、万年筆で多色の筆記をカバーするのはどう考えても無理があるので、その中から2色(冬柿という渋いオレンジ色と、松露という落ち着いた感じの緑)を、パイロットの透明軸とソネットに入れて使っている。

その他の色はスリッチ(Slicci)という極細ゲルインキボールペンでカバー。
ちなみにこのスリッチは、細いのにスムーズで、途中で途切れて(とくにHi-Tech C のように!)「ムキーッ」となることが皆無なのも気に入っている。でも、書き味はやっぱり柔らかくて腰のある、万年筆が最高だ。

ちょうどドイツ車のサスペンションがいいとか、レガシィの四駆のコーナリングのテイストが、とかいうのと、万年筆の書き味とって、どっかシンクロしているような気が(こうやって無理矢理重ねて書いていると)してきた(苦笑)。

色彩雫(iroshizuku)は現在21色。洒落たボトルデザインもグッド。

詳細はこちらへ。
http://www.pilot.co.jp/products/pen/fountain/iroshizuku/index.html

この機会に万年筆デビュー、いや、付けペンでもガラスペン(これが意外に書き味がいいのです)デビューでもいいので、インクを揃えてみたりするのはいかがでしょう?
そうなると次は原稿用紙とか便せんとかを選びたくなったりしてね(笑)。

趣味はそうやって増殖していくのが定め?





知人に万年筆を趣味にしている人がいる

2012年03月29日 22時44分46秒 | ガジェット
知人に万年筆を趣味にしている人がいる。

ただ書くだけなら105円のボールペンでこと足りる。

だから、実用品として考えれば彼のコレクションはほぼ「ムダ」だ。
中には未だにインクを装填したことがない(従って、インクをちょっとつけて試し書きをしただけ!)のものもあるという。

万年筆に趣味マインドを動かされたことのない私には理解できない領域だ。

まあ、私も万年筆なら何本か持っているが、高が知れている。
1番高いものが大橋堂(仙台)の6万円のもの。
これは趣味で原稿用紙を埋めるときとサインに使用。

2番目はもうパイロットの742(2万円のMF)。これをほぼ20年近く実用品として使っている。
その前は7500円ぐらいのパイロットカスタム(14KのF)を5年近く使っていた。

あとは普段使いにサファリのラミー(3500円)とか、ペリカンの普及版透明軸(1万円)、それにパーカーのソネット(安売りがあるのでオープン価格)も定番だ。それぞれ何本か入れ替えて使っている。

その中でも秀逸なのはパイロットの742。
手になじみ、何十年使ってもへこたれない。
実用品としては必要十分を満たしている。

大橋堂は筆圧の強い書き方に耐えられるボールペンのように丸いペン先のもので、これはクルマでいえば趣味のオフロード用とでもいった趣き。
実はあまりオフロードを走らないSUV、という面でも似ているかもしれない。
実用品としては、赤インクを入れて採点に使っても面白いのかもしれない。
実際そうやって使っている同業者もいる。ちょっと勿体なくて私はできずにいるけれど。
ともかく、趣味と言えるのはこの1本だけだ。

さて、件の知人はレベルが違う。
コレクションとして何十万円もするような限定版やら蒔絵ものなどを、何十本も並べて悦に入っている。
真正の万年筆ヲタクにちがいない。

ま、しかしながら、ことさら「文房四宝」を喩えに出すまでもなく、古来、モノを書く地位にあった士大夫は、文房具をこよなく愛し続けてきた。武門が「愛妾換馬」してきたごとくに。

考えてみれば、脳味噌からわき出てくる言葉を液体として紙に流出させ、インクの沁みとして痕跡を残す筆記具は、料理人の包丁のように、あるいはゴルファーの手袋やボールのように、野を駆ける武者の愛馬のように、「ゲームのルール」に則って世界と脳味噌を橋渡しするインターフェースの役割を果たしている。

万年筆に戻れば、モノの手触り、持った時の重量、バランス、インクの流量の微妙な制御、紙の吸い込み具合、接触する紙面との滑りぐあい、ひっかかりの度合い……

それらは、実は微細なものではあるけれど、「モノ」と接してその向こう側に「世界」を感じる重要な、あるときには決定的な手だてにもなる、そんな事件の現場、でもあるのかもしれない。

たとえば、自分の趣味に置き換えてみると、40代まで、家族が乗れるワゴン車だったり、長距離を乗るならディーゼル、だったり、エコなリッターカーだったりと、クルマはライフサイクルの中で、あるいは時代の中で、自分は自身で選んだつもりでも、無意識にチョイスされてきた。

たとえその時どんなにそれが強く「欲しい」と欲望されたものであっても、適切に消費されていくべき商品にすぎなかった、とも言える。

あるいは、工業生産品を趣味として収集したり、実用品、機能的な道具の枠組みを超えた数や質を求める心性を「ヲタク」というとして、でもそれは縮減された世界像の「箱庭」の構成物であり、その限りにおいて収集者は世界と繋がっている、という印象を抱く。

「何を馬鹿なことをやっているんだ」

と。

オープンカーを購入したときも、誰に直接言われたわけでもないのだが、その「声」を意識した。

具体的に
「雨が降ったらどうするんですか」
などと聞かれたこともある。

「屋根をしめるに決まってるでしょ」
と答えたが(苦笑)。

あるいは、
「こんなクルマに乗るのはキチガイだよね」
と冗談めかして言われたこともある。

まあそれはまだ良かった。基本的にクルマは田舎に住んでいれば足として必要だし、長靴を履こうがサンダルだろうが、とにかく足に靴を履かねばならないように、クルマも生活の必需品だ。あとは何を履くかは趣味の問題。足は所詮2本しかないように、クルマは誰であろうが一度に1台しか乗れないのだから。


クルマって、高い買い物だから、それなりに相手の美点を見つけて惚れようとするし、そうでなければ長く付き合えない。
そしてたぶん初めて本当にクルマと出会って感応したのがロードスターだったのだとすれば、それはそれで自分の中で納得だった。

家族持ちはミニバン、とかいう宣伝に彩られた「生活」の物語とは全く違った「体験」だったし、誰に強制されたのでもない、「文化」との出会いだったわけだから。


さて問題は二台目の購入、である。

次に二台目のクルマを買うとなると、他人の規範じゃなくて、自分自身の中の「規範意識」が、解消しがたい罪悪感を醸し出すことになる。

趣味ってなんだろう、実用ってなんだろう。文化って、装いって、振る舞いって、表象って……
いろいろグルグルし始める。

言い訳としては、趣味と実用という二本立てを立てることもできる。

実用→4駆レガシィ VS 趣味→オープンロードスター

あるいは用途が違うのだ、と実用の旗を二本立てておくこともできる。

実用 ( 実用4駆レガシィ VS 趣味→オープンロードスター)

でも、どう考えても怪しい。我ながら道を踏み外しはじめているとしか思われない。

別の文脈で、震災後のアニバーサリーリアクションで、耐えていた緊張に耐えられず「蕩尽」による弛緩・解放を求めているのだ、とでも言っておくか(苦笑)。

そんな風にグルグルするのも、意外に面白くなくもないが。

さて、まさか3台目はないと思う。
思うが、もし万が一3台目を手にしたら、あとは無限に続く、のだろう。それが「やみつき」って奴だ。

いや、実際に庭にあるのは2台でも、それがお手玉のようにグルグル交換されはじめたら、それはもう既に「3台目」ということと同じ。

そういえば、別の知人(そういう知人が多いんです)にバスのミニチュアだけを集めている人がいて、

「思い返せば3つめを買った時から始まってましたね」

という「迷言」を述懐していたっけ。

趣味は「3」という数字からアディクション(溺れ)が始まるってことか。

この項、とりとめなく続きます(苦笑)。