龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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クルマにおけるスポーツということ(4)

2012年03月11日 13時29分12秒 | ガジェット

円盤投げの選手に一度きいたことがある。

「一番難しいのは投擲前の回転中に重心をどこに置くか、なんです。」

身体の中に回転の軸があることは間違いないが、力を円盤に最も効率よく伝えるためには、ただ身体の中心に重心を置いてクルクルまわしていればいいというものでもないらしい。
いかに手の中の円盤に、身体の回転によって生じた力をより強く、より遠くに飛ぶように制御しつつ伝達するか。
同じ回転系投擲でも、砲丸とはまたちがった制御が必要なのだ。
「身体の真ん中じゃなくて、ちょっとずれたところ。それが練習しないとすぐぶれる」
とも。

重心をどこに置くか。
なぜ私自身がロードスターに惹かれたのか、その理由の一つがわかったような気がしてきた。
およそスポーツ音痴な自分がスキーだけは楽しめたのか、という理由も。


体が発生する力を技術で制御し、外的ルールに従って状況判断を瞬時に行い、ゴールするなり相手を倒すなり、敵のいないところにボールを打つなりする、という考え。

きわめて素朴にスポーツを考えれば、そんな感じになるだろう。

しかし、力の発生源を漠然と「身体」とだけ捉えていればたぶんここから先には行けない。たとえそれが当のスポーツ選手であったとしても。

水泳の国体選手にきいた

「アニマルスイマー」

がそれにあたる。

小学生の頃には、何も考えずにひたすら速く泳ぐ奴がいる。でも、それはそこで終わりだ、というのだ。そういう選手は必ず壁に当たる。
そのとき、自分の泳ぎの現状を的確に把握し(ここにはコーチングが大きなウェイトを占めるのだろう)、課題を発見し、それ踏まえて身体にフィードバックした上で微細な制御が出来るようでなければ、国体レベル、国際大会レベル、オリンピックレベルへと自分を成長させていくことができないのだ、と。

アニマルスイマーは、身体能力に恵まれてはいても、意識は身体で速く泳ぐというレベルだから、努力も何となくのレベルで止ってしまうのかもしれない。

とするなら。

(人称に限定されない)力を、ルールに基づき定められた目標に向かって、与えられた環境の状況を常にフィードバックしつつ、その力を瞬時にかつ微細に制御して、
「世界と身体の動的輪郭を明示する」
行為こそが、スポーツなのかもしれない、と考えることが可能だ。

スポーツにおけるエンジンとしての力は、必ずしもマッチョな身体の筋肉のみによるものではなくてもよい。

いやむしろ、「獣欲業を制す」ではないが、身体内部に発生した力による一方的なねじ伏せだけが重要なのではなくて、身体外部に存在する「力」のありようを踏まえた制御もまた、内部に発生する力と同様に重要だ、ということになろう。

クルマの世界では、ひたすら速く加速し、また最高速にのみ秀でたクルマを
「直線番長」
と揶揄的に呼ぶ。
制御系なき力の顕現=マッチョ(厳密にいえば、過大なパワーをどう地面に効率よく伝えるか、っていうテクニックは必要だが、それはいかに困難ではあっても単純な領域にすぎない)。

無論それも痺れるような快感だ。

遅い車(人)に感動はしない。
速い車(人)に感動し、憧れる。

当たり前のことだ。

でも、人はそれだけでは満足しない。
むしろ、複雑な要素がさまざま絡み合った中で、超絶的な制御によって速度と力の軌跡が表現されることにこそ、スポーツの深い感動が潜んでいる。
だから、それを実現するには力だけでは足りない。

クルマで「走る・曲がる・止まる」+「スムーズに」ということになろうか。

それら制御しようとすれば、神が与えた物理法則に対する深い理解の上に、その可能性条件を踏まえた互いに矛盾する課題を乗り越える努力が必要になる。

そう、モータースポーツは、その場所に発生する。

だから、だれもがサーキットで腕を振るうことなど出来ない以上、モータースポーツは、あろうことかチューニング「命」の様相を呈してくるわけだ。

たぶんそれは、神が与えた必然性に基づくことなのかもしれない(笑)

速さだけが目的なら新幹線かジェット機に乗ればよいだろう。
だがその速さには身体が関与していないから、数字でわくわくするしかない(鉄道ヲタクの「乗り鉄」における「身体を伴った移動」の意味はまたそれはそれで面白いが、いまは措く)。

さてでは、「走る・曲がる・止まる」を高い次元でバランスするためには何をすればいいのか。

答えは簡単だ。

自動車は工業製品だから、基本的には高いお金を出せばよい。
200万弱の軽自動車のスポーツタイプと、2000万円のスポーツカーで、どちらが力=Gの制御において乗車した人間の官能を刺激するか、なんて比較するのもバカバカしい。

全ての車好きは「バカ」だ、という見解が説得力を持つ所以でもあろう。どんな車体だろうが、部品だろうが、チューニングだろうが、大抵のことはお金で解決がなつくのではないか?

クルマは決定的にモノだものね。

クルマは所詮道楽であって、スポーツじゃないっしょ、という「正しい結論」が出てきそうだ。
まあ、そういってしまえばその通り、でもある。

しかし実は、その道楽は、弄っているだけでは意味がない。フィギュア収集やゲーム機のレースとは違い、スポーツカーは、自分の身体によってその制御が実感されなければならない。
だから、スーパスポーツカーを所有している人が直ちにスポーツをしている、とは限らない。

金に飽かせてクルマは持っていても、その身体における歓喜を味わわなければなんの意味もないのだ。どんなに速くても、どんなに体感Gが強烈でも、自分の手の内にそれらの制御系があるのでなければ、そのお金持ちにとってスーパーカーは、あてがい扶持の遊園地のジェットコースターに過ぎない。

ハンドルが付いていて、自分でコンビニに行くってだけなら自転車でも足りるわけだしね。

どんなに貧乏であっても、自分の工夫やなけなしの貯めたお金でサスペンションを弄って、それがダイレクトに自分の身体における「乗り味」にフィードバックされたら、そこには「力」の制御における事件の現場が立ち上がっている、というべきなのだ。

ふぅ。

もう誰もこの迷走は止めた方がいいのかもしれないけれど、この項、行きがかり上もう少し続きます。