龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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吉本隆明の訃報を友人のメールで知った。

2012年03月17日 07時07分17秒 | 大震災の中で

吉本隆明の文章は、読んでもさっぱりわからない。その話からなさはいっそ清々しいほどだ。だが、その分からなさは小林秀雄や石川淳や花田清輝、蓮實重彦を読んだときの分からなさとは全く異なっていたし、江藤淳に至っては、知らないことや納得できないことは多々あっても、何一つ「分からなさ」は感じなかった。
哲学書を読むときのもどかしさともまた違うような気がする。

友人からメールで教えてもらったときも、その「分からなさ」の手触りがすぐに蘇った。
以下はその友人に送った返事です。メモ代わりに書いておきます。

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大きなヒトを失いましたね。

そうはいっても正直なところ吉本隆明の文章は私には何を言っているのか皆目見当がつかないものばかりでした。

ただ、だからこそあらゆる関心事について吉本がどう語るか、はいつも気になっていました。

何かについて語ってはいても、それ自体が新たな問いを生み出す
「ズレ」や「齟齬」
の手触りが確かで硬い、そんな印象もありました。

石川淳とか小林秀雄だったら、わかる分からないじゃなくてどこかスカッとした、というかスカしたというかところがあって、それは分かる。

でも吉本隆明のことばは私にとってはいちいち腑に落ちない。ここまで分からないのは、異常なものを感じた。何か発話されているおおもとの場所が違うという印象があった。

そういう意味では、私自身の読書がある読解可能(あるいは読解可能というより追随可能)な「スタイル」を追っているにすぎないということの限界を、異質なテキストの力で示し続けてくれたという点で、たったその一点においてだけ、もっとも「他者」の言説であったことは間違いない……そんな思いを大人になってからは抱いていました。

しかしそれも10年以上前のこと。

私が「大人」になるまえのことです。今だったら私は吉本隆明をどう読むのだろう?その興味はここ最近ずっと抱いてはいました。

彼が親鸞について書いていた、というおぼろげな記憶をたよりに(ネットではまだ検索していないのです)、そのうちじっくり読んで見たい、と思いつつ。

……今検索したらありました。

『最後の親鸞』

何せ全く読めていないのだから、学問の恩義というほどの関わりはなかったと思う。

しかし、その「読めなさ」を付き合わせる魅力があったこともまた確か。

追悼の意を込めて読んでみます。



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