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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

小手川正二郎『蘇るレヴィナス』(水声社刊)を読み始めた。

2022年03月22日 10時43分31秒 | メディア日記

小手川正二郎の『蘇るレヴィナス』を読み始めた。

レヴィナスに先行する現象学(フッサール、ハイデガー)を今読み直すのは難しいが、デリダの『暴力と形而上学』ぐらいは読んでおきたいと思いつつ、レヴィナスの主著『全体性と無限』だけを脇に置きつつ、この本(『蘇るレヴィナス』)を読んでいる。

疑いなく良書である、と感じる。

本も何十年か読んでいると、内容が十全に理解できるかできないかは別のこととして、少しは

①この本は読むべきなのか?

②それとも次いでにしておくのがよいのか?

③読んでいる暇はない、類いなのか?

④暇があれば参照しておこう、なのか?

の匂いを嗅ぎ分けることができるようになる。

本というのは、読まなければ分からない、という意味ではエンタメ体験に近い。知識を得るために読む読書、だけが読書ではないのは当然として、読んでみなければ分からないに違いはないのだけれど、その文体、その姿勢、そのテキストが向き合っているもの、そういうものを感じて、その匂いが自分と出会おうとしているかどうか、が割と重要になったりもする。

哲学を専門としているわけではない一読者としては、いわきFCのホームゲームも、哲学書もエンタメとしては変わらないのだと思う。

ただし、そのエンタメには「生きること」の賭け金が少量ながらかかっている。

なんでもいいというわけにはいかない所以だ。

あ、『蘇るレヴィナス』に戻る。この本がステキなのは(まだ読み始めたところですが)、

①妻子以外の親族をホロコーストで失ったユダヤ思想家

②西洋哲学の伝統に対する批判

③他者論が中心

といったイメージ(これらは図書館にいってレヴィナスの入門・解説書を借りてくると漏れなくついてくる)に対して、レヴィナスの論理をもっと丁寧にかつ具体的によもうぜ!と提案してくれていることだ。

それでもやっぱりデリダの『暴力と形而上学ーエマニュエル・レヴィナスの思想試論』は読んどかなくちゃならないのかあ、とも思うが。

 

単にレヴィナスの言うことを同語反復するのでもなく、外側から上のようにカテゴリーで理解するのでもなく、レヴィナスを徹底的に読むぞ!という冒頭の問題提起に惹かれる。

専門書とはいえ論文ではなく一般の素人(私たち)に向けられた本は、こういうところが重要だと思う。

いきなり専門的な前提を飛ばして書かれても、勉強する学生ならいざしらず、私たちはそのルールを漠然と理解することに読書のエネルギーを割かれ、対象とする哲学者について考察する手前で尽き果ててしまうことが多々ある。早わかり程度の大枠は理解しておくとしても、トリヴィアルな(というか学者にとっては厳密なということになるのだろうが)前提に躓かないよう、大きな目的、目標を提示してくれるのがありがたい。

 

「読解なき批判は空虚であるが、批判なき読解は盲目」

という小手川さんの、序の末尾の表現を頼りにして、これから本編、行きます。

でも、なんかレビナスの『全体性と無限』って、用語の使い方が独特で油断すると読者の理解の範囲で理解してしまいかねない面って、確かにあるんじゃないかと思う。叙述の仕方も思いのほか「普通」で、こういってよければ「官能的」ですらある。分からないんだけど、納得できる、みたいな部分がレヴィナスの本文にはあるような気がする。そういう語り方の姿勢がある、ということね。書いてあることが分かるということとはまた別の次元で。

それを文学的というなら、デリダの超絶技巧的なレトリックとは別の仕方で文学的、かもしれないとも思う。アレントなんかにも共通する「叙述の姿勢」の特異性みたいな。分かんないけど。
とりあえず、よみます!

 

 


読むべし!秋保亘『スピノザ 力の存在論と生の哲学』読了

2022年03月07日 04時07分54秒 | メディア日記

秋保亘氏の『スピノザ 力の存在論と生の哲学』を今読み終えた。

大きな満足感に包まれた読後感だ。

大げさな、と人は言うだろうか。でも、あのスピノザのテキストを巡る何がなんだか分からない諸説乱立する状況の中で、それぞれの研究者や哲学者たちがそれぞれの立場から自分の読みの角度でスピノザのテキストの意味を拾っていく感じに付き合った挙げ句、なんだかよく分からないところに置き去りにされるような、あの感覚……それがこの本にはほとんど感じられなかった。

他の先生方も、専門的には理の通ったあり得べき解釈をしてるんだろうと推測はするのだが、第一スピノザのテキストに出てくる用語が全く馴染みのない言葉が多く、しかもスピノザが定義するその言葉の定義の解釈がまたさまざまに分かれているものだから、「スピノザを読む」って行為がしたいのに、難解な研究のすれ違いの間で途方にくれてしまうというのが正直なところだった。まあ、スピノザは異質だ、なんて脅されたりもし、だからこそ好奇心もそそられたりするので、そういうもやもやしたよく分からない「沼」に入っていくのもまたスピノザを読むスリル、なのかもしれないけれど。

ところが、秋保亘氏のこの本は、延々トリヴィアルな(と素人には思われる)テキスト解釈や諸説の提示の迷路に読者を誘うのではなく、大きな構想を明示し、その骨太な骨子を読者と共有しつつ、私たち素人の読者を見捨てることなく、最後まで連れていってくれるのだ。
これはなかなかすごいことだと思う。
前半でいえば、何故「定義」が重要なのか。あの『エチカ』の幾何学的な記述の意味は?という誰もが抱く疑問について、研究者の「主観」や「感想」ではなく、『知性改善論』の丁寧なテキスト読解を踏まえて、その疑問を一つ一つ丁寧に解きほぐし、結論にたどり着かせてくれるのだ。

ここでこの本の魅力をわかりやすく説明する力が自分にないのは本当に残念だが、スピノザについて考えたい人には間違いなくお勧めの一冊だ。あくまでテキストの読みに即しながら、しかも大きなスピノザの全体像の把握にまで、読者を誘ってくれる。章や節ごとに、課題を確認し、論の終わりにはそれを、章の目的に即して整理してくれる。そういう配慮のある専門家の一般書は、なかなか得がたいものだと思うのだが、いかが?

 


秋保亘『スピノザ 力の存在論と生の哲学』を読む。けっこう感動。

2022年03月04日 12時23分28秒 | メディア日記
著者の、博論ベースのスピノザ研究本てある。2019年の刊行。割と最近ですね。

まだ『知性改善論』についてが終わって、その読解を踏まえた『エチカ』論に入ったところまでしか読んでいないが、これはおもしろい。
 秋保亘氏の「私たち」には、一緒に誘われる感がある。つまり、「難解」と言われ、諸説入り乱れてスピノザが用いる用語の意味すらスタンダードの解釈が確立していないような状況において、スピノザの「私」がもっともよく現れている(モノの一つであると感じられる)テキスト『知性改善論』をまっとうに正面から読み抜いて、それを主著『エチカ』読解に向けての基盤として押さえようという書き方が、まず納得行くし、同時に『エチカ』のスタイル、幾何学的叙述様式について(私にとっては)初めて納得のいく説明を受けたような気がしている。

ここまでスピノザがどうして「定義」に拘るのか、彼ほど丁寧かつクリアに説を立ててくれている本はなかったように思う。
もちろんそれが(わたしにとって)納得がいくというのは、上野修、國分功一郎、木島泰三、河村厚、江川隆男各氏の本を読み進め、自分なりに書簡集を含む著作の間をうろうろして、訳が分からない10年を過ごしたから、なわけだが、それにしてもスピノザは、テキストに即した分かりやすい説明を誰もしてくれないのに、多くの人が魅了され、あるいは批判する対象となる、不思議さを持っている。

分からないだけならまだよい。
分からないのに、それでも個と普遍性を掴もうとする、、いや掴もうとするならこれでしょう?と誘われる感じがあって、その誘惑に乗ろうとすると、誰かの解釈の道筋になってしまう、という「わかりやすさ」になってしまう。

もちろん学者さんのそういう著作の説明はありがたい限りなのだが、秋保亘氏が本文中でも何度か触れるように一緒に読み進めていこう、という姿勢こそがスピノザに惹かれた理由なのだったなあ、と、ここまで読んできてようやく思うようになった。
自分の中の勉強の歩みとしては

ドゥルーズ→スピノザ→上野修→江川隆男→國分功一郎

が一つの段階だったとすると、

レヴィナス→朝倉友海→木島泰三→河村厚→秋保亘
が第二段階ということになろうか。

ようやく自分でテキストに向き合っても面白くなってきた。それでも、テキストの細かい部分になると、いろんな説があって、到底素人ではその妥当性を判断などできない(ラテン語を勉強したくなる所以なのだが、生きているうちには間に合うまい)。

それでも哲学者の主著なんぞというモノ直接触れる意義があるとしたなら、決して文学と同列に扱うつもりはないけれど、(古典)文学を読むことの意義と他人の空似程度には似ているような気もしてくる。

つまり、様々な異説、諸説の概ねの方向性というか重なりとズレがありそうな場所を意識しながら、自分で歩いてみたい道を歩いて見、迷ったら少し戻ってまたちょっと違う道を歩きなおしてみる……

そういうことがそれなりに(自分なりの水準で)出来るようになると、人文系の読書はメッチャ愉しくなる。
ゲームと違って攻略書もバグだらけということもあるし、それは実はバグではなく、それはもしかすると別の果実へ至る道かもしれず、攻略書の異同を含めて本編を改めて楽しむ糧になっていく、みたいな。

一つだけ感動点を書けば、徹底的に具体的個別的なモノと向き合おうとするからこそのスピノザの「定義」なのだ、あの幾何学的叙述なのだ、という本書の主張に痺れた。

水平因果と垂直因果というスピノザ読解の「技術的用語」を木島先生から教わったばかりだが、そして朝倉友海氏の『概念と個別性』においてはその垂直的な「概念」がいかにして個にたどり着くのかの思考の道筋をもらったが、秋保亘氏は真っ直ぐににテキストを読みながら読者を誘ってくれるという点で、感動させられた。

スピノザ読解のスタンダードになるかどうか、とかそういうことは分からない。
しかし、ここにこういう形でスピノザを読んでいる人がいる、ということだけで勇気が出てくる。

そんなことを思った。

木島泰三先生の近著二冊、河村厚氏のこれから出る一冊を含めて、こほ秋保亘の『スピノザ 生の存在論と生の哲学』、個人的にはオススメです。
もちろん入門書なら、國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ』イチ押しですが。國分さんにも、『スピノザの方法』以降の、本格的な『エチカ』本を書いてほしいな。


続・村上靖彦『ケアとは何か』を読む。

2022年02月11日 07時00分00秒 | メディア日記
この本を読んでいると、だんだん苦しくなってくる。
書かれていることや書かれ方が問題なのではない。読んでいるうちに受け止めるこちら側の心の受容の容量を超えてしまうのだ。

言葉にならないことを言葉にすることは、苦しさそれ自体とはまた違ったレベルでの困難を抱えることになる。

この困難を乗り越えても私たちは存在の肯定を求め続けるものなのか?

これは、単なる問いではなくある種の切なさや闇に関わる辛さだ。
そう思う。筆者は穏やかな筆致でこれを書き進めているけれど、深くて重いリアルがそこにあるのを感じ、たびたび本を置いて深呼吸をしなければ読み進められないという感じになる。

看護士や福祉を職業とする人やそれを志す人にとっては瞳を逸らすことができない営みだし、それは職業の問題ではなくここで取り上げられているのはもちろん生きることのリアルそのものだ。私にもささやかな介護の体験や看取りの経験もある。教員として手出しのできない困難の前で手をこまねいていた負い目もある。
そういう諸々がどっと、心の中から読んでいるうちに召喚されてくる。

難しいことは、書いていない。平易な言葉で、介護や福祉の現場の聞き取りを中心に書かれていく。

しかし、読み手はある種の覚悟が必要になる、そんな種類の本な気がする。

ぜひとも一家に一冊常備されたい。

ただし、読むのは体調に万全を期してから、って思うのはちと大袈裟かな。


村上靖彦『ケアとは何か』(中公新書)を読む

2022年02月10日 07時39分00秒 | メディア日記


ケアとは何か-看護・福祉で大事なこと (中公新書, 2646) https://www.amazon.co.jp/dp/4121026462/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_5KRN0DCYK0Q2ZGVJBMNC

を読んだ。昨日著者と餃子屋さんでたまたま少しだけお話をする機会があった。私にとって最も重要な本のうちの一冊である『自閉症の現象学』の著者と会えるというのはメチャメチャ嬉しいことだったが、村上さんは、『自閉症の現象学』の方法というか書き方を批判的に乗り越えようということで、ここ十年ほどは看護師さんなど臨床の現場で聞き取り中心に仕事をしておられる、ということだった。

そういえば私の大好きな医学書院の
シリーズ・ケアをひらくの中の一冊、
『摘便とお花見』
摘便とお花見: 看護の語りの現象学 (シリーズ ケアをひらく) https://www.amazon.co.jp/dp/4260018612/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_1HGCNSPQV1FSV8N9DWAD

も村上さんの著作だったのをころっと忘れていた(読んでたのに)。

そこで思い出してしまったのが、ふじみ野市での在宅ケアの医師が猟銃で撃たれる、というあの事件のことだ。

バルネラビリティ(vulnerability)という用語があるらしい。
ネットで調べたらプログラムなどでの(ハッキングされやすい)脆弱性、と出てきた。
ここでの意味はもちろんそういうことではない。
弱さ傷つきやすさとかのことだそうだ。

フラジリティfragility(傷つきやすさ)とは違うのかな?

ともあれ、弱さを支え、肯定するためには、ケアする側が対象となる者に寄り添い、弱さを共有することが重要になってくるわけだけれど、今回のふじみ野の不幸な事件においては、老母の介護をしている老息子に、その介護を支援していた医師が殺害されるという痛ましい結果となった。

無防備で寄り添えば、最悪命を奪われることがある。この事例はもちろん極めて例外的なことだが、そこまではいかなくても、ある種の「危険な領域」に踏み込まねばならない瞬間は間違いなくあるに違いない。

この本では直接的にこのような困難は、主題的には語られていないが、村上さん自身のコトバでいえば、

「こういう研究は人を傷つける加害性を持っているのでなないか?」そういう意識を強く抱いています」

と言っておられた。直接的には『自閉症の現象学』についての極めて厳しいと思われる自評のコトバだったが、ケアの現場に立っている人々も、それを研究している人たちも、弱さを共有するということの持つ、深くて傷つきやすくて難しいなにかに直面しつつその営みを続けているのだろうな、と改めてつよく感じた。

介護の仕事をしていた若者が、ケアをしていた相手を次々に殺してしまうという辛い事件もあった。

ケアの現場にある「弱さを肯定し、支える営み介護については、ぐるぐるしながらなお考えていかねばならないと思う。




続・仲正昌樹『現代哲学の最前線』(NS新書)

2022年02月09日 07時00分00秒 | メディア日記
ざっくりと流し読みしていると、現代における「哲学」の様子が、走馬燈のように流れていくかのようで、とても気持ちがよい(笑)。

もちろん著者による早わかりだし、そのスタンスも読んでいくうちになーんとなく感じるところはある。
でもそこ(著者のスタンス)が重要なわけではなく、現代の哲学プレーヤーが大きく言ってどんな問題意識を持っていて、どんな文脈の中で減給されているのかが、この「走馬燈」を見ているとそこはかとなく分かってくる。

なんていうのかな、目配せの効く大学の先生にゼミの合宿とか飲み会で、「ぶっちゃけ新実在論ってなんですか?世界はないとか偶然だとか、意味分かんないですー」とか「ロールズって何であんなにけちょんけちょんに批判されたんすか?無知の平等とかっていいと思うんすけど」とか「哲学に自然主義とかきーたこともねーす」とかいって、先生に30分ぐらいで的確かつざっくりした説明を受けるような感触、とでもいえばいいだろうか。

もちろん、先生相手にそんなことをきくと、「じゃあ来週までにあれとこれをそれを読んでレジュメ書いてこい」とか言われかねないわけだけれど(笑)。

そして、挙げ句の果てに「答えが欲しくなったらやばいからな」と脅される(笑)

そういう楽しさが、この本にはある。

雑誌『現代思想』とかを読んだりしたことがあるとか、何らかの哲学や思想の本を読んだことがある人向けですけどね。

腰巻き惹句にあるとおり、論争の構図をざっくり知りたい人、つまりなんか読んでみたけどこの人とこの人の対立点とかわかんないし、1グループにまとめられてるけど実際この人たちどこがちがうの?とか困ってる人(私のような人)向け。

ある意味、とても役に立ちます。

いわゆる普通の羅列的な早わかりではないので、「問い」のありかがおぼろげに分かっているか、それが分からなくてイライラしているか、という条件の下での良書、ですかね。

この先には、後書きにもあるように

「なかなか理解させてくれない、身体的に拒否感を覚えるような、手ごわいテキストを読むべきだ」

という新たな「宿題」が待っている。その準備段階の早わかり、見取り図として、こういう本はとてと大切だ思う。



NS新書『現代哲学の最前線』(仲正昌樹)を読む

2022年02月08日 07時00分00秒 | メディア日記

この著者のことは全く存じ上げないので、単なる読後の印象に過ぎないのだが、この本を読んでいると、大学の先生が同じジャンルの専門家(この場合は哲学者)について、自分の専門家の立場は踏まえつつも、単に自分の専門家の立場から一刀両断して終わり、というのではなく、学生と雑談的に話してくれる敷居の低さを観じた。

もちろんちょっと皮肉っぽく(そりゃないだろうけど)みたいな口吻もかんじないでもなく、しかしそれはそれとして早わかり的に教えてくれる感じ、といえばいいのか。

重要なのは、「問い」について説明してくれていることだろう。

あとがきの一句もこの先生らしいビターな「学生たち」への警句が書かれてある。

「今まで全然分からなかった"哲学"が、急に『したたかに生きるための知恵』に思えてきたなら、要注意だ」

これはとても大切だとおもう。
答えじゃなくて問いが大切、ということでもあるし、哲学は基本的に「生き方」とか「啓発」とはおよそ正反対の営みだぜ、という辛さがこのコトバには込められている。
まあ、この仲正昌樹の名前を冠した本にしてはずいぶん「優しい」とは思うけれど。

でも、手ごわいテキストにチャレンジする前には、どうしたって概略の地図は要るよね。

何度哲学者の主著に挑んで玉砕したことか(笑)

そういう素人の経験というか蓄積からいって、この本は、頼りになる。

全部の人の主張を説明したりしていないから、読者はそれぞれその論者の論を参照して初めてこの本の意味が分かる。ただ、おおまかな配置図のようなものは与えられる。

初めから自力でそれを全部やっていては素人は身が持たない。
そういう意味で、ありがたい。

哲学と、それを受容しようとする読者のギャップのさり気ない指摘、後書きだけでも読む価値があるかな(笑)

面白い!映画『大怪獣のあとしまつ』

2022年02月07日 07時00分00秒 | メディア日記
映画『『大怪獣のあとしまつ』
を観てきた。
おもしろい!
何か特別なコトが起こるわけではない。
怪獣の死体処理をどうするか、というだけのお話しで、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、これは間違いなく土屋太鳳の映画だ、と思って観ていた。西田敏行があと何本本編に出られるのか、とか、岩松了の雰囲気はこの監督に合ってるんだろうなあとか、山田涼介、格好いいとか、濱田岳が渋そうに演技してるとか、いろいろあるかもしれないけれど、私は二時間ずっと土屋太鳳を眺めて暮らしていた。

もちろん、福島の住民として、「戦後処理」としての怪獣の後始末はそのまま原発事故の後のドタバタを重ねずにはいられない。
ただ、なんとか50みたいな眉間にしわを寄せた作品ではないから、真面目にみようとすると、ひたすらダダスベリの不出来なギャグで事故が覆い尽くされる印象を持つかもしれない。

自らその危険を感じる人はみない方がいいかも。

無駄にキャストが豪華なもの良かった。『第9地区』のような安価なB級というより、賑やかしの娯楽作だろう。
だいたい怪獣退治といえばウルトラマンと相場は決まっているわけだから、人間には手に負えないと相場が決まっている(笑)

そんなこんなを踏まえて、面白かった。
土屋太鳳が好きになった!
以上でした。



続・読むべし『テヘランでロリータを読む』

2022年02月04日 07時00分00秒 | メディア日記

アーザル・ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』の読書会をした。

私は、当時(1980年~90年にかけて)のホメイニのイラン、についてほとんど何も知らない状態でこの本を読んだこともあって、まず書かれている状況についての知識が勉強になった。次に、閉塞した状況(イスラム革命当時とパンデミックの今をごっちゃにするのはもちろんどうかと思うが)の中で続けられる、文学作品についての読書会についての本をZoomの読書会で読む、という体験それ自体がちょっと楽しかった。さらに、これは小説ではなく、イラン革命時の時代を生きた,文学に関わる者たちの群像を描いた自伝的回顧録であり、それゆえの平明さというか、大学教授らしい目配りの利いた叙述が、わかりやすくてスッとこちら側に入ってきた。付け加えると、フェミニズムの立場に立った視点も「今」にしっくりきて、読みやすかったといっていい。

また、時代的な背景を考えると、2000年代初頭、イスラムについてこれだけわかりやすく内側にいた人が書いてくれたということで、世界的ベストセラーになったというのもうなずける。20年の時を経ても、そういう意義はまだまだ失われていないという印象を受けた。こちらの不勉強もあるわけだが。

一方、読書会のメンバーからは、結局これは単声的な叙述に終始していて、イラン革命の真っ只中で人間たちが政治的文化的軍事的宗教的混沌と混乱を生きた証として読むには、圧倒的に平板なのではないか?という疑問も出された。

たしかに、ここで大学教授が描く「文学」についての評価は、革命によってみじんも揺るがない。女性たちが日々被り続けている悲惨なリアルに対しても、ギリギリのところでは沈黙を持って遇するしかない。また、教師としての語り手に敬意を持ちつつ、距離を持ちながら革命にコミットしている人間たちについても、その距離を保ったままの語りに終始しているのではないか、という不満というか、食い足りなさを指摘する声もあった。

この単声的という指摘、全てを語り手の認識に回収してしってしまう叙述の型などは、「小説読み」にとっては本当にもったいない、という印象を持つだろうこと、想像に難くない。大学教授であって小説家ではない、というのなら、その小説を読むということ、小説と向き合うこと自体が、アンチイスラム革命としての「教理」を超えた「文学的」な力を生み出していく、そんな試みが全くなかったのはやはり解せない……。

 

そんな話も出ていました。

ともあれ、そんな不満を言いたくなるほどには、様々な人びとの姿に触れられていることは確か。

人びとの姿も、文学作品も、イスラム革命の悲惨さ、イランイラク戦争の現実も、端正な説明の範囲を超えていないというのも確かで、それをこの叙述の美点とみるか限界とみるかは、読み方によって変わってくるのだと思う。

 

しかし、いずれにしても読むに値する素敵なテキストであることは間違いありません。ポリフォニックな、登場人物が混沌の中でもがきつつぶつかり合い、すれ違い、奔流に飲み込まれる、そんな「小説」ではありませんが、そんな「小説」をないものねだりしたくなるほどには刺激的でもあり、彼女たちの『ロリータ』彼女たちの『ギャツビー』彼女たちの『ジェイムズ』と私たちのそれを引き比べてみたくなる(つまり未読なら読みたくなり、既読なら読み返してみたくなるという意味で)引力がまちがいなくありました。

驚くほど読みやすいです(なぜかオムハン・パムクの『雪』のことを思い出してしまいましたが、あの猥雑さ、滑稽さ、パワー、訳のわからなさのようなものは、これだけの混乱を描いていても全くといっていいほどありません。そこが賛否両論にもなったわけですけど)。

わたし的にはお勧めだなあ。

 


新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)を読む。

2022年01月24日 07時00分00秒 | メディア日記
昔買ったことがあるはずなんだけれど、本棚を無くしてだいぶになるのでもはや探しようもないので、ふと読みたくなって図書館から借りてきた。
題名通りラカンの入門書である。
フロイトの「子どもたち」による精神分析という業界における政治とラカンの関係、メラニー・ジェイムズクラインとの関わりなど、伝記的な部分もあるが、大文字の他者とか対象a、無意識は言語として構造化されているとか、おなじみの?説明が分かりやすく書かれていて、復習するのに好適である。
全く最初に読むのは少し敷居がたかいかなあ。まあでも、面倒くさいラカンの早わかりとしては間違いなく頼りになる。

トリヴィアルな学問的差違にこだわらず、禅、統合失調症の症例、ヴィトゲンシュタイン、デカルトのような既知のものと対比しながらラカンの概念を説明してくれるので、とてもありがたい。

この本を読みながら、スピノザのことを考えている。ラカンには、(21世紀には失われた)、20世紀におけるパラノイア的な自己の根源・根拠を求めようとする狂おしいまでの傾向性があった。
しかし、21世紀は明らかに自閉系の時代であり、自閉系の課題はむしろ、構造化されることなくたった一人で世界の中にあることだ。それは孤独ではない。

おそらく、今を生きる人々の「孤独」について語る言葉は、20世紀的なノスタルジーに回帰していくのかもしれない、とすら思う。
もちろん、ラカンの語るコトバは、私たちが言語=思考を続ける限り重要でありつづけることは間違いない。

スピノザは、世界=自然=神とみる。そこに外部はない。

ラカンはたどり着けない根源を求め、言語によって他者の欲望を内面化するシステムを提示してくれる。

たどり着けない外部=他者からの→自己像、という形で、本当には触れることが出来ないものを析出することにより自己を何とか作りだす。

それに対してスピノザは、端的に「自由」は無知からくる、と言い放ってしまう。世界は必然だ、と言い切る。


もちろんスピノザは17世紀の哲学者だから、無意識概念もなければ言語についての哲学的分析とも無縁だった。だから、当然ラカンをそこに直接重ねて考えるわけにはいかない。

しかし、
デカルトの
cogito ergo sum
(私は考える 故に私は存在する)

と、それに対するスピノザの書き換え(補足注釈?)

ego sum cogitans
(私は考えつつ存在している)

の関係は、私と私の関係が異なった捉え方をされている、という印象を持っている。

その隙間に、ラカンの影を見ることはあながちムチャでもないだろう。

スピノザの言っていることが「非人間的」な無茶振りなのか、それともラカンのパラノイア的な自己への思考からの解放なのか、あるいは……

そんなことを考えてみるのも楽しい。

いずれにしても「自己」とか「自由」とか「意志」とかを手放しで自分の手にすることはもうないのだろう。

それでよい。それがよい。

年寄りになるとスピノザ好きが増えるんだよねえ、と知り合いのアレントを専門とする哲学者が言っていた。
なんだか悟りとか救いとかに近い話になりそうでイヤだけど(笑)

このあたり、もう少しはっきりしないままうろうろしてみたいと思っている。

とりあえず、チャレンジしてみる価値はありそうな一冊です。







読むべし『テヘランてロリータを読む』アーザル・ナフィーシー(河出文庫)

2022年01月23日 07時00分00秒 | メディア日記

河出のサイトはこちら。


イスラーム革命後のイランの首都テヘランで、密かに続けられた読書会。
そこで読まれたのははナボコフの『ロリータ』、フェッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、オースティンの『高慢と偏見』ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』……。
作者が大学を辞めてからテヘランを去る二年間の間の読書会の様子が書かれた回顧録である。
だから、小説ではない。
しかし、解説の西加奈子も書いているが、
この本は小説のコトバを具体的な生活の中で読むことのリアリティの濃密さがこれでもか、というくらい詰め込まれている。
筆致は穏やかだが、それだけにこの本は私たちに、様々なレベルで様々な意味で「読むこと」の意味を問い直すよう迫ってくる。

今ここでこの本を読むこと、あの小説を開くこと、そういうことを内省的に深く深く考えていくことを自然と始める自分がいる。

来週この本の読書会をする予定だ。
幾重にも折り重ねられた「読むこと」と「生きること」のエネルギーが、本の中から溢れてくるのを感じる。

ぜひともお勧めしたい一冊。



映画に飽きたのでスピノザに戻る。

2022年01月21日 07時00分00秒 | メディア日記
木島泰三『スピノザの自然主義プログラム』
を読んだ。
十全に理解したとはとてもいえないが、考えていたらふとこ地ラの本をを読み返してみようという気になった。
朝倉友海『概念と個別性 スピノザ哲学研究』



 
である。詳細は上記のURLに本人のまとめが書いてあるのでそれを参照されたい。
 
木島泰三の『スピノザの自然主義プログラム』が、どちらかといえば
「機械論的自然観」あるいは「唯現実論」を(自然の側から)突き詰めていくのに対して、朝倉友海の『概念と個別性』は、理性の働きの側からスピノザの「個別性」に向き合おうとしている。
 
平たく言えば、デカルト的な精神と物質の二元的な捉え方を脱構築しようとしたスピノザの哲学を、物質というか延長というか、個別的な様態(現れ)の側からアプローチして乗り越えるか、精神というか思惟と言うか、概念の側からアプローチして乗り越えるか、の違い、という印象を(素人としては)うける。
 
そういう意味では叙述の方向性、議論の前提とする立場はほとんど正反対といってもいい感じがする。
 
しかしどちらにも共通しているのは、スピノザの哲学のふつうに考えると過激すぎるというか、荒唐無稽にも聞こえてしまう理解困難さとどう立ち向かうか、という厳しい姿勢だ。
いずれも哲学の研究をしているひとなのだから、「厳しい姿勢」などというのも失礼なのだが、
スピノザを早わかりしようととしてつまづくのが、まずもって実体と様態の間にある「属性」というカテゴリーであり、その属性のうちで人間が知っているのは「思惟」と「延長」のふたつだけだ、という話に進んでいくと、とたんに霧がかかったように面倒くさくなる。
 
実体というのは神様であり自然の摂理であり、アンチ超越神であり、これは分かりやすい。
様態というのも、私たち個別の人間とか物質とかだから、これも分かる。
 
問題はその神様と物質(や人間)の間にあってそれを繋いでいる「属性」という概念だ。
 
どう考えてもデカルト哲学の変奏のようなものであって、無理矢理感が拭えないと見る人もいるだろう。私も以前は漠然とそんな風に感じていた。
 
でも、このあたりに意外と人は惹きつけられてしまうのですね。
 
過激とも見えるスピノザの世界像、すなわち
 
世界はたった一つの実体であり様態(全ての個物)はその実体(神様=自然の摂理)の表現なのだ!
 
という外部を徹底的に排除した世界像は、一部の読者の熱狂的な支持を受け続けている。
 
まあ、その図式はわかりやすいと言えば分かりやすい。
 
だが、間に入っている二つの「属性」としての思惟と延長、つまり平たく言うと精神と物質というその二つを、二元論ではなく平行論として理解するっていうのがなにやら面倒くさいし、わざわざそんなことをするのはデカルトの亡霊につきあってるからなの?と突っ込んですませたくなる。
 
ところが、この二つの本を並べて読むうちに、スピノザを読む人たちみんなが、なんだか困っているツボ、のようなものがだん団見えてくるようにも思う。
 
つまり、
 
「精神は身体の観念である」
 
というスピノザの、この思惟と延長が相乗りしてるような、個別的な身体=普遍的な精神の二重性のあたりを、どう捉えていくか、あたりがむずかしいのかなあ、と。
 
 
未だに少しも腑に落ちてはいないのだが、「腑に落ちなさ」のありかがすこし見えてきたような、そんな気持ちになる。
 
もう、よく知っているヒトにとってはこの迷路に立つような感じは不要なのだろうし、また、興味のないヒトにとっては300年以上前の哲学者の話など意味もないのだろう。
 
しかし、足を痛めて家の中に入るしかないヒマな自分にとっては、スピノザの「属性」という意味の分からないカテゴリーをなぜ設定したのか、興味が尽きないのだ。
 
もう少しスピノザの本をひっくり返して読み直そうかな。

終・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月20日 07時00分00秒 | メディア日記

コナトゥスの説明の辺りから難しくなってしまって、木島泰三氏の敷いた道筋をまだ十分に理解できてはいない。

実際、私は今まで「コナトゥス」を「より良く生きる努力」といった風に理解していた。<志向性を持った力>が内在しているってイメージといっていいだろうか。この本の主張するスピノザは、その「コナトゥス」にともすれば忍び込んでくる「目的論的」な因果関係の先取りを徹底的に潰していく。

つまり、著者の言うコナトゥスはあくまで自己に固執する努力と、行為へと向かう力であって、何か「より良き」目的を持っていたりしないのだ。

え、じゃあ人間の「生きる志向性はどこへいっちゃうんだよ」とちょっと思ってしまうが、冷静に考えてくならば、この著者の主張は、かなり説得力があるようにも思えてくる。

目的を持ち、そこに向かって働きかける力、というイメージは、結果から原因を導き出す倒錯を招く、という指摘はなーんとなく分かる。

自由意志の否定と必然の肯定が、運命論を招き寄せるというのも、分かるような気もする。つまり、自由意志の否定が、不思議なことに、何か一つの結果を必然的にもたらしてしまうというニヒリスティックな運命論を招いてしまう危険に対して、スピノザの姿勢は十分に対抗できるのではないか、ということでもある。

必然と偶然の関係についての言葉の使い方も、もう少し自分で練習・訓練しないとまだ整理できない。

それでも、「あれかし」と祈ることが、目的から逆に現実を規定しようとすることではない、ということは分かるつもりだ。

今ある現実こそが唯一の現実だというこの著作におけるスピノザ像においては、「可能」の意味も当然変わってくる。

スピノザを読むにはOSを変えないといけない、という意味が、よく分かる。

もう少し整理しつつ、考えてみる必要があるけれど、

「全ては神の本姓の必然性により今あるごとく決定されている」

というスピノザの思想は、悲観的運命論とは全く別の「自由」と「力」に手が届くのではないか、という予感を持つ。

十分に頭が働かないのでそれをまだクリアに書けないのがもどかしいけれど。

目的を徹底的に排除した必然は、ある種の偶然とも呼べるのか。

哲学は、概念を捉え直しながら構築していくものだから、その辺りがついていけないんだろうと思う。
けれど、興味深い。

 

 

 


ガイ・リッチー監督の『ジェントルメン』を観た。

2022年01月19日 07時00分00秒 | メディア日記
私にとってのガイ・リッチーは、かの初期名作の一つ『スナッチ』なんだなあ、としみじみ。

いや、面白くなくはないと思う。

イギリス(ロンドン)の麻薬地下組織のボスが引退を仄めかしたことで生じる次期裏社会権力の闘争、なんだけど、どこに転ぶか分からない感じが今ひとつで。

つまり、反転はあっても動きが今ひとつなんだよね。上手に描写するより、速度がほしい。
ま、旧来ファンのないものねだり、でしょうね。
他のガイ・リッチー作品、

『コードネームU.N.C.L.E』

ぐらいは観ておくかな。

ここまででU-NEXTの無料期間の試用は終了。退会しました。
とはいっても『ジェントルメン』はその中でも有料(399円?)だったんですけどね。


ガイ・リッチーの映画『コードネームU.N.C.L.E』は楽しかった。

2022年01月19日 07時00分00秒 | メディア日記

ガイ・リッチーの映画『コードネームU.N.C.L.E』を見た。

『ジェントルメン』ほど期待して見ていなかったせいか、楽しい時間を過ごせた。
1960年代なのだろうか、ベルリンの壁が存在し、東西対立があり、原爆製造の秘密を巡ってスパイ組織が暗躍するというノスタルジックな世界を、当時の街とかクルマとかファッションとかを丁寧に(たぶん)再現して見せてくれる感じもいい。
TV番組としての「ナポレオンソロ」は子どもの頃地元のTV局では放映しておらず、親戚の家に泊まったときぐらいしか見られなかったからリアルタイムでは知らないのだが、当時のスパイ物(007の映画も流行っていた時代ですね)、たとえばイアン・フレミングの小説なら読んでいたはずだ。

そんなこんなを含めて、堪能できる一作だった。

個人的には『スナッチ』の印象があまりに強すぎるのだが、それと比較しさえしなければ楽しめる娯楽作品かと思う。

21世紀になって、みんなが楽しめるスパイ娯楽映画を作れるその腕は確かなんじゃないかな。
当然のようにエンディングでイスタンブールの事件に続く感じを匂わせているところなんかも昔風で素敵。
「続編がほしい」とファンが言いたくなる気持ちも分かる。
それも含めての、模倣というかリスペクトというか、パロディというか、遊んでる感じなんだろう。
英米合作映画、とwikiにはあるけれど、やっぱりイギリステイストは感じますね。そういう意味でも楽しい。

お暇で、スパイ映画に対する郷愁をお持ちの向きにはお勧めできる作品ですね。