龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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孤独死について

2012年03月09日 00時38分26秒 | 社会
「孤独死」のニュースがTVで流れている。

でも、ちょっとひねくれて言わせてもらえば、死ぬときはおそらく、誰だって「一人」なのではないか。

一人で生きることが出来て初めて、「孤独死」がクローズアップされる。

一番の課題は都会の中での「孤立」ではなくて、一人で生き、一人で死ぬことがこれから「当たり前」になっていくであろう変化に対して、社会の「瞳」や「システム」が追いついていない現状なのではないか。

別に親しくもない隣近所の人に毎日チェックされたら、私が独居老人だったとして、うんざりするだろうと思う。
もちろん、近所づきあい=人間同士のお付き合いは大切だが、「死んだ時」を素早く察知するとか「死ぬ前」に察知して病院送りにするのを主目的としてチェックを入れられても、正直挨拶に困る。

セキュリティシステムとか、要請があればそんなにコストをかけずに医療や行政が、「独居老人」もしくは「弱者寄り添い世帯」を支えることは可能なはずだ。

敢えて「個」=「孤」を選ぶ都会の隠棲者の静謐を乱す必要はなくて、さまざまな形の支援を提供するオープンな行政政策は、ネットワークを利用すれば、システムとして安価に実現できるんじゃないかなあ。

隣近所とか、無理でしょう、もはや。
市役所だって全世帯の動向をいちいち日々手作業でフォローするのはありえない煩雑さだろう。

ただ、そういう行政サービスを自ら利用することができる、情報や人的ネットワーク、積極さ、余裕がある人はたいていその他の面のセーフティーネットも持っていて、「孤独死」というか周囲から隔絶した形で最期を迎えてしまう個人や世帯は、行政の支援システムの前提から既にこぼれ落ちてしまっているのが現状なのかもしれない。

そこの根っこは深いのかもしれない。

そういう境遇にある多くの人は、病院に行くことを望まずに死を迎えるわけでもないだろうし、食べ物すら手にいれられずにいることを自ら選択しているわけでもないだろう。

基本的な生存権を支える支援「システム」のネットワークを整備し、道具としてそれが使えるようにすることと、そういう支援の「情報」が、生存権に直結しているのだという私達自身の自覚(と行動)が必要になる。

難しい。
「今まで通り」じゃダメ、なことは分かる。だったら、どうすることが前に進むことになるのか。
考えて、一歩進む。
それが必要だねぇ。

やっぱり、何について考えていても、考えているうちに、東日本大震災と原発事故のことに思考が自然と還ってきてしまう。
「今まで通りじゃだめだ」
と思いつつも、
「普通に生きること」
に懸命で、そのことでいささかならず「疲弊」しているという自覚を抱えて、とりあえず「1周年」からは逃避したい、とも思っている。

「孤独死」した人は、こんな風にいっときニュースになって、その後忘れられていくことを望んだわけでもないだろう。
彼らは本当はどうしたかったのか。
誰かに助けてもらいたかったのか。
私達生きている側の人間は、何をすべきだったのか。そして何をしていくべきなのか。
亡くなった人達には何かできることはなかったのか。どうしてそこにたどり着いてしまったのか。

取り返しの付かないこと、を考えていくと、いつしか同じ場所にたどり着く。
しかし、その「取り返しのつかない」という意味での「人為のリミット」=「裂け目」の前に立ちつつ、なおも思考しようとする時に見える世界像を、なぞっていく必要がある、と感じる。

「孤独死」がなにか簡単な問題にすり替えられるのだけは避けたいと思うのだが、うまく形にできないままだ。






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