龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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インターネット&Googleは改めて凄い。

2012年01月27日 20時21分22秒 | 社会
久しぶりにフェイスブックにアクセスしたら、紹介の欄に旧知の名前がずらりと並んでいて、お友達登録依頼を一気に出してしまった(^^;)。

でも、知り合いの中で基本的にフェイスブックを使っているのは、はっきりいって私より年上はほぼ皆無、である。だから、今日登録依頼を出したのも全て20歳代の知人だ。
今までだったら一生連絡がつかなかった人に、あっけないほどたやすく連絡が取れてしまう。

不思議な時代だ。


私は知り合い自体が高齢なので、リアルタイムのやりとりはせいぜいメールどまりだけれど、同世代の登録率が高いとなると、フェイスブックは本当に「使える道具」になりますね。

それとはちょっと違うが、最近感激していることがある。

40年近くも前に流行し、どこかで1小節か2小節だけ聞きかじって耳に残り、今では題名も分からなくなっている歌、というものがいくつか記憶の中には断片的に残っている。

そういうものでさえ、誰かが気になって、あるいは誰かが覚えていて、たった一人だけでもインターネットの網の目に載せてくれさえすれば、いつかそこにたどり着ける、ということが分かってきた。

いや、そりゃあ、理屈では分かってます。
原理的に、ネット上に公開されたデータはいつでも誰でもアクセス可能なわけだから。
この感激はだから、幾分かは検索エンジンの凄さに関係している。
でも別の部分は、そんなこと(って失礼ですけど)までネットにアップしてくれる人がいるとは?!という種類の感激でもある。

たとえば、この前小学校3年生か4年生の時に配本されて図書室に入った推理小説全集のことをふと思い出して
「少年 少女 推理小説 全集 」
とかでググってみたら、みごと

「あかね書房」の「少年少女世界推理文学全集」

がヒットしてしまった。全巻古本屋さんで揃えてしまった人もいる、とか書き込みがあると、

「分かる分かる」
とかうなずいてしまう。

あるいは、「そんなあなたが」というフレーズだけ覚えていた曲でも、検索すると
小坂明子と中沢京子でヒットしてしまう。

「そんなあなたが」作詞作曲中沢京子<「ポプコン マイ・リコメンド ガールズコレクション」所収>

今日は『教行信証』に出てきた「阿難」が、注にもなくて(常識なんでしょうね、知らなかったけど<苦笑>)困ったから、ググってみると、アーナンダという釈迦の十弟子の一人、とか教えてくれるし。

日々そんな感じで利用していると、誰かが知っていることはGoogleが媒介となって必要なデータの側まで連れて行ってくれるという感じがしてくる。

ネット紀元前であれば、たとえば一番気になっていた
エイプリルダンサーの『コーヒーカップ』
なんて曲と再会することもなかった。そういう意味ではYouTubeも。

これは、確実に「記憶の質」を変えていく、と思う。
そして「記憶」というのは私達の「存在」のありように大きく関わっている。

そういえば、昨日届いた「日経サイエンス」に、記憶が失われる諸症状に対処する一つの方法として、耳にかけられる程度の超軽量超小型のカメラが期待されているという記事があった。
ちょうど『博士の愛した数式』に出てくる「メモ用紙」の代わりに、ビデオカメラないしスチルカメラが、失われ、間引かれた記憶を喚起する手助けになるのではないか、ということだろう。

冒頭に書いたフェイスブックのつながり具合を考えても、本当に世界は大きく動いている、とつくづく思う。

私は退職したら、クルマにのって日本中を旅したいと考えている。クルマは私達が子供の頃から、生活に魔法を掛けてくれる移動装置だった。

でも、今の20代の人にとっては、身体を移動させるこの自動車という金属の箱には、私達の頃のような「魔法」を感じたりはしないのだろう。

ネットにおいては、見いだされるものは全て見いだされる。
たとえば就職試験の面接官のおじさんの悪口をフェイスブックで書いたらその人に見られた、なんてことも普通に起こるのだろうし、Twitterのつぶやきを別々にフォローしていたら、その相手同士もその互いのtweetに反応し合ってびっくりしたりすることもたくさんある。

そう、ネット上では経済行為の脱貨幣化が進んでいるのだ、と今日、酒井さんていう人が呟いていたけれど、本当にそうなのだ。
めちゃくちゃな垂れ流しが続くネット上のゴミ言説の氾濫(無論このブログなんてもその一典型なわけですが)が、それでもどこかの誰かに、検索の結果、間違って届いてしまうかもしれない。

そう思うようになった。
それは3秒後かもしれないし、50年後私がいなくなった後かもしれない。

ネットで死んだ後メールの相手やブログの読み手にそれをどう伝えるかが「話題」になりはじめている。
正直、この生活があと10年も続いたら、お墓よりも死んだ後のネット上の関係の「整理」の方が重大な問題になるかもしれないと思う。

不思議なことになってきたなあ。

ネットの中に広がる「世界」の広さを測る単位ってないんだろうか。そして、この「世界」に「果て」ってないんだろうか。
素朴な小学3年生だった頃の自分にとっては、「世界の果て」がとっても深い謎のように思われていたものだが。






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