龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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219歳の週末

2012年10月08日 23時54分43秒 | 社会
週末、85歳の伯母と80歳の母を連れて温泉旅行をしてきた。
総勢219歳のお泊まりである(笑)。

松島の海は穏やかで部屋の眺めもよく、露天風呂からも松島のパノラマが一望できる、すこぶる快適な週末だった。
とはいえ、高齢のお二方ゆえ、「歩く」ことが既にもう大変な難事業。

一人は車椅子、もう一人はその肘掛けに掴まりながら杖をついて歩くという状態でお風呂場に向けて部屋を出発したが、ときどき休まないと歩きの方の足が限界になってしまう。

タンデム走行可能な(つまりは165歳を縦に並べて押せる)車椅子が欲しくなった(笑)。

しかし、足下はおぼつかないが口元は元気である。
合計165歳トークは、対象の生死老若男女を問わず冴えわたる。
戦前のことから昨今の近所の噂まで、あっという間に瞬間移動しながら話は止まるところを知らない。
超高速連想ゲームに付き合っているかのようだ。

血圧が高かったり、歯がなかったり、足が悪かったり、ガンを抱えていたり、血糖値が高かったり、耳が遠かったり、それはそれは薬を飲んだりさまざまな道具を使ったりしなければならない状況だ。

だが、3人が口を揃えて同意したことがある。
それは、補聴器のありがたさだ。

眼が見えなくなればだれでもコンタクトレンズか眼鏡を掛ける。
ところが、それに比べると人は一般にまだ耳が遠くなることに対しての意識が相当程度低い。

実は、耳が遠くなると、世界の「気配」は耳が聞こえていたときと比べて1/10ぐらいになってしまう。
「1/10」という数字には無論根拠はないが、かなり控えめに言った数字だ。
「1/100」といってもいいぐらい、それはそれは大変なハンデになる。
それなのに、年寄りが嫌がる・面倒がるといって補聴器を強く勧めない若者は多い。
そして年寄りもまた、生活を縮小していく「覚悟」をすればいい、と思って、補聴器の装着を真剣に考えない。

だが、たとえばこの219歳サミットも、補聴器がなければ成立しなかった。

どうか、身近に耳が遠くなった人がいたら、補聴器を強く強く進めてあげてください。
今の補聴器は、かなり性能が上がっています。
身近な人とのコミュニケーションの最後の砦の一つ、聴力が補えるのであれば、面倒がらずにチャレンジする価値はあります。

私は、父親が衰弱して無くなるまでの3週間、毎日彼を「観察」しました。
脳が決定的な損傷を受ける障害の場合は私には分かりませんが、そうではない場合、認知能力が低下することは、決してただちに知的能力の低下を意味しません。そこを勘違いしている人が結構いるかもしれない(特に若い人の場合)と危惧します。

先に衰えるのは、情報の出入力と処理の能力なのです。記憶であろうが、外部の情報であろうが、知的能力を司る意識にたどり着くデータが少なくなっていくのであって、核にある「意識」が混濁するのは最後の最後であるように思われます。

いや、厳密にいえば、入り口までデータは到達しているのに、肝心の知的処理能力が衰えている、ということももちろんありえます。私はその辺りの脳科学のシステムについては分かりません。

ですが、「意識」は、混濁するまでは空転してでも動き続けている。
刺激を与え続け、それを肯定的に処理できる環境があれば、次第に全体的な能力が失われていくとしても、それはよりゆっくりとより穏やかな変化に止まる。

少なくても、見ることや聞くこと(そして食べることも!)について、私たちは高齢の人の傍らにあって、よりその支援に敏感であるべきでしょう。

生きることは、外部とのインターフェスを整え、内部記憶とのインターフェースを整えて、環境と切り結んでいくことかもしれません。
ま、当然高齢者だけの問題じゃないんだけどね。

いろいろ考えさせられる週末でした。


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