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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

國分功一郎×白井聡『暇と退屈の倫理学』刊行記念トークイベント|第2弾のこと

2011年11月24日 22時31分43秒 | 評論
國分功一郎×白井聡『暇と退屈の倫理学』刊行記念トークイベント|第2弾のこと

『未完のレーニン』白井聡を読了。
次の課題本
『「物質」の蜂起をめざして-レーニン、<力>の思想』白井聡
を読み始める。まだよく分からないが、対談の白井さんを重ねて読むと、「徹底的に行くところまで行く」というアグレッシヴな印象がさらに強くなってくる。

『未完のレーニン』の方は、
「だいたい今時レーニンって……」
とかいう温い感じで読み始めたら、あっという間に置いてきぼりを食らってしまった感じもあって、十分文章についていけなかった。

また、11月19日の時も、正直、白井さんと國分さんのトークを聴いているときは、どこか「齟齬」を感じていました。二人の話が十分に噛み合っていないような気がして。

まあ、今もその感じが全く解消されたわけではありません。
でも、白井さんのぐぐっと内部に向かって潜りながら「飛ばす」感じは、遠くから響き合わせるべき調べなのかもしれない、とこの二冊目を開いてようやく考え直し始めています。

デカルトの方向に展開していった近代とは違ったもう一つの可能性をスピノザに見ている國分さんと、
ロシア革命・ソビエト連邦の方にいった20世紀社会主義とは違った別の「力」をレーニンに見ている白井さんとは、背中合わせにずっと近しく響き合っているってことなんだろうか。

この二人を同時に読むと、すげえ肩に力がはいっちゃいそうですけど、その「力」に満ちあふれたドライブ感がたまらないです。

そうそう、『暇と退屈の倫理学』をクラスの高校生に貸し出ししたら、
「まだ第1章読んだだけですけど、すんげー面白いですっ」
って感想でした。
やっぱりやるなあ『暇倫』。






國分功一郎『暇と退屈の倫理学』刊行記念トークイベント|第一弾を観た.

2011年11月16日 00時27分41秒 | 評論
『暇と退屈の倫理学』刊行記念トークイベント
第一弾が動画(USTREAM)で公開されていたのだが、犬の看病などで後回しになり、ようやく今晩通しで観ることができた。

http://www.asahipress.com/hima_web/#talk_01

『暇と退屈の倫理学』はスピノザ哲学の研究者である國分功一郎氏が、すぐれて「個人的な関心」にこだわって構想10年、描き上げた「哲学者による自己啓発本」(by千葉雅也)です。

そして、上記イベントは、ともにドゥルーズ哲学研究者で(も)ある國分・千葉両氏が、本の刊行記念として行ったもの。

大上段の直球勝負イメージのスピノザ主義者國分氏の「朝」のようなすがすがしさと、ラカン的分析を前提とした「夜」の楽しみ=「トランスアディクション」をぶつけてつっこむ千葉氏の対比が面白かったです。

本自体は読めばいい、というか、読めば楽しめる。
というか、この本は基本エクリチュールをプロセスとして楽しむ以外にない(「結論が大事なのではなく過程が大事なんだという結論」ではなく<笑>)わけで、だからむしろトークは、その本の外部の楽しみとして楽しむ「別メニュー」になっていました。

真正面から生きる倫理を問うていく「自己啓発本」を丁寧に「脱構築」してくれる千葉さんの「追及」の愛に満ちた「かいがいしさ」がむしろこのトークのキモだったかもしれません(笑)。


「生成変化を乱したくなければ動きすぎてはいけない」
っていうドゥルーズの言葉がお気に入りだっていう千葉さん、いい味でした。

全部で1時間半ほどですが、興味のあるかたはどうぞ。

でもまずは本自体の方がお勧めかな。

本を読んだ後で、誰かと喋りたいけどすぐには相手が見つからないという人がいたらぜひ!



野矢茂樹『語りえないものを語る』(講談社刊)を読む

2011年09月28日 21時47分54秒 | 評論
読んだ本の感想は、普段は別のサイトの分担なのだが、今回はこちらに書く。

野矢茂樹『語りえないものを語る』(講談社刊)

がメチャメチャ面白かった。
講談社のPR誌『本』に連載されていたものの単行本。
(注の方が長くなった、なんて書いてあるけれど、それはもしかするとこの本の魅力の本質の一つかもしれません)

ヴィトゲンシュタインとかデイヴィドソンとかグッドマンとか永井均とか野矢茂樹自身の以前の著作とか、まあ「そっち系」の、かつて読みかじったり耽読したりした哲学者の言葉が、この著者の思考の歩みの中できれいに再配置されていき、それらが道々見えてくる風景とか標識とか里程標とかになり、かつその「遊歩」とでも言うべき思考の歩幅と相俟って、えもいわれぬ楽しさがココロのそこから湧き上がってくるのを押さえることができなかった。

楽しさを満喫しつつ、この本を読んでこんなに楽しいと思う人は世界でどれだけいるんだろう、とも、ふと思った。普通の本ならそんなことは思わないのに。

この相対主義とか独我論とか、言語と世界との関わりとか、どう考えても狭い路地に入っていく哲学っぽくもあり、同時に哲学プロパーには軽んじられかねない「ああそっちね」系のテーマでもある(ように感じられる)この領域を、こんな風な足取りで一緒に遊びながら歩いてくれる筆者がいることに、驚きつつ、果たして読者はどれほどいるのだろう、とちょっと気になるのである。

國分功一郎の『スピノザの方法』なら手放しで誰にでも薦めたくなる。

この野矢茂樹の『語りえないものを語る』は、薦める人も選ばなくちゃ、と思う、そんな感じだ。

どちらも私にとっては今年最大級の収穫です。あと1冊見つかったら、今年のベスト3は決まり、かな。

何がいいって、たとえば
「一般的に言って、ウィトゲンシュタインになんらかの哲学的学説を帰すことには慎重にならねばならない。(中略)そういうときのウィトゲンシュタインの通例として、とりあえずそれで行けるところまでいってみるという態度がある」

とか書いてあって、まあその指摘自体は、たしか『論理哲学論考』の後書きでも『青色本』の後書きでも繰り返し触れていることなのだけれど、そういう哲学の「文体」に対する言及がさりげなくしかも適切になされていて、それがこの文章では自らの文体についても適切な距離感が保たれている。
以前はウィトゲンシュタインを読んで「勘違い」する「そっち系」の輩を諭す感じがあったのに、それが影を潜めて、『水曜どうでしょう』的快楽に近くなってきた、とでもいうか(笑)。

それがなんともいえない文章の「タメ」をもたらしていて、読み終わるのが惜しいほどだったのです。

それは、デイヴィドソンを引用するにしてもグッドマンを持ち出すにしても、クワインに言及するにしても、バランスの取れた言及では必ずしもなく、筆者の文章と引用とが、たかも筆者自身が言及した「ウィトゲンシュタインの通例」のごとくに「タメ」のあるつきあい方をしていく、その「保留」したり「同意」したり「反論」したりする「間合い」が爽快で、とても気持ちがいいのです。

素人の私が読んでいても、必ずしも公平に引用されているのではないのかもしれない、と思う。
でも、それが分かる「公平さ」っていうのは、ちょっとない「公共感覚」なのです。

これは國分功一郎さんの『スピノザの方法』を読んだときのきわめてクリアな感じと通底しています。
もちろん、野矢茂樹さんの文章のクリアさとは同じじゃないんですがね。
野矢さんの方は見通しがいいクリアさではなく、その場の焦点距離の取り方や絞りの選択が的確、という感じ。
國分さんの方は、若い研究者の序論、って感じだから、もっと明晰に語れることを語るっていう方にウェイトがかかっている感じです。

哲学書を読んでいてこういう喜びの感覚を味わうのは、かつてはそう多くなかった。
20年前ぐらいになるだろうか、永井均の『子どものための哲学』(講談社現代新書)を読んだときかなあ、初めて味わったのは。つまりは、学説の話じゃなくて、素手で付き合ってくれる感じ、というか。

最近はこちらが年をとったせいか、手練れの書き手が現れてきたせいか、喜びの頻度が心なしか増しているような気がします。

実のところ、自分の置かれた状況(心境)が、哲学的文章を渇望するほど現実に躓いている、というのが実情なのかもしれないけれどもね。

ともあれ断然お薦めの1冊。
でもたぶん人を選ぶと思う。
安い本じゃありませんから購入にはご注意を(2700円)。

上野千鶴子の退官講義と小松左京の訃報

2011年07月29日 22時21分43秒 | 評論
上野千鶴子の退官講義の記事があった。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201107280425.html
インターネットの放送はこちら
http://wan.or.jp
実に感慨深い。大きな影響も受けたし、きわめて政治的な(言説権力を意識的に用いた)ことばの操り方に、呆れた思いを抱いたこともある。

「わかっててやってるんだけどさ」
という感覚は、今でいえば宮台真司の「言葉使い」に近いかもしれない。
「社会学者って胡散臭い」
ということを隠さないスタンス、とでも言えばいいだろうか。

それが「弱者」の場所に立って闘う、となれば、花田清輝(古いね<笑>)を引用するまでもなく、そして引用したって知ってるヒトはほぼいないだろうが、優れてレトリカルな側面を持つのは当然の帰結でもあった。

「にもかかわらず」、なのか「それゆえにこそ」、なのか「それとともに」なのかは意見の分かれるところだろう。

しかし上野千鶴子的言説が魅力的だったのは、にもかかわらず「論理」の力を徹底的にクリアに持ち続けていたからだ、という点は、それなりに同意を得られるのではないか。

退官したからといってそのファイトスタイルが変わるわけでもあるまいが、大きな時代の区切りを感じる。

時代の区切りといえば、小松左京の訃報(80歳と聞く)はもっと感慨深かった。
私にとっての小松左京は『エスパイ』であり『日本アパッチ族』であり『果てしなき流れの果てに』だ。

小学校の頃、小松左京の存在は、ほとんど奇跡のように思われたものだ。
もう一つの奇跡は平井和正の『犬神明』シリーズ×2の存在なんだけど。

SFのおもしろさは明らかに、当時エンタテインメントとして「色物」扱いだった。
そんなことさえ「歴史的事象」になってるんだろうね。
SF的なるものが「当たり前」のエンタテインメントとして認知されていく過程を知る者にとっては、小松左京の死は、これもまた大きな時代の区切りの一つと感じられるのではないか。

星新一のそれは、時代性を超えた「巨星、堕つ」って感じだったけれど。

私はSFから宗教をそして神を学んだ。それは
小松左京の『果てしなき流れの果てに』であり
光瀬龍『百億の昼と千億の夜』であり
ハインライン『異星の客』であり
山田正紀『神狩り』であり

それは「想像力」の問題であると同時に、「思考の臨界」における「現象」の問題であり、超越論的な「リアル」の問題でもあった。

大人になってから改めて「文学」とか「小説」とか「哲学」とかいう「ジャンル」を踏まえて再度思考を繰り返していくことになるわけだけれど、種は全て、子どもの頃のSFが撒いていてくれていた、と言う気がするのは、たぶん私達の世代の「ある集団」には共通した認識なのではないか。

「面白くて何がいけないんだろう?」

高校生の時、倫理の授業で担当になったハイデガーをレポートしながら、こんな面倒なことを分かりにくく書くより、SF1冊読めばいいのにな、と思っていたことをふと思い出した。

ようやく数十年の時を経て、ハイデガーが見ていたものをもう一度考え直す場所にようやく近づいているっていうのは、進歩がないって話なんだろうか。

上野千鶴子も小松左京も、現実という「大きな柄の絵図面」を、鋭い論理のドライブ感と繊細な「読みや分析」に支えられた想像力・構想力によって、まるで「思考の基盤それ自体」を大きな風呂敷か旗ででもあるかのように鮮やかにひっくり返してしまうその手品のような膂力にほれぼれするそんな読書体験を与えてくれた人だった。

ちゃんとどこかでそのバトンは受け継がれていくのだろうか?
私は息を潜め、ゆっくり老後を過ごしつつ、その兆しを待ちたい、と思っている。



最近「正義」論を4冊立て続けに読んでいる。

2011年01月10日 17時09分00秒 | 評論
最近「正義」論を4冊立て続けに読んでいる。
言わずと知れたサンデル現象、といいたいところだが、私の場合は神学論崩れ、みたいなところもある。

スピノザ→カント→中世神学→グノーシス→ギリシア哲学→サンデル先生
                         ↑
                       フーコー

ってながれ。早わかり流浪の民の面目躍如である。

神様なんていねえよ!
普遍的真理や正義なんてねえよ!

というのは分かるのだが、それでもなお
「神は要請されなければならない」
ってところから抜け出せないんだよねえ。
普遍性アディクション系らしいというべきか。

しかし、
「共同体」アディクション系や「ルサンチマン」アディクション系と会話も出来ないのはどうかと思うし、

かといって早わかりだけじゃあセカイの1/10ぐらいしか見ないで終わってしまいそう。

その点、原テキストを徹底的に読み、内面化していく行為はセカイを1/2で生きることには繋がるだろう。
その上で、そのテキストを複数化しつつそのズレ・隙間の痕跡をたどって行ければ、もうちっとは「豊かな」「知」にたどり着けるのでは、という浅ましい根性がなくならないわけで。

で、ロールズの『正義論』ってわけです。

日暮れて途通し、です。

でも、たいした能力ではないにしても、それにしたって結局「読み書き」しか能がないとすれば、それ以外のことをやっている暇はそろそろ残されていないかと(苦笑)。



身近に漂う閉塞感について(1)

2010年11月05日 23時11分32秒 | 評論
身近に漂う閉塞感について(1)

30年勤続の表彰を受けた。

県職員が県費を使ってお手盛りの表彰をする、というのが果たして今の時代に適合した振る舞いなのかどうかはなはだ疑問に思うけれど、表彰してくれるというので、されました(苦笑)。
まあ、賞状1枚の話なんですがね。

さて、30年間同じ仕事をしてきて、職業としては十年一日のことをやっているだけ、とも言えるはずなのに、なぜか近年、「閉塞感」を強く感じるようになってきた。

年を取って変化に対応しにくくなったからだろう、と言われればそうかもしれない。
いつだって年配者は「いまどき」をぼやくものだよ、という指摘も当たっているのかもしれない。

だが、自分が若い時には何かもっと「別の未来」がどこかに(そんなものはありゃしなかったが)あるような気がしていて、今日よりよくなる明日(それは自分が成長し、変化する、という自分への期待が大きかったかもしれない)を夢見つつ、現在のつらさを耐えていたような気がする。

今は、それができないのだ。
「50歳過ぎて仕事でリスペクトされない人間は辛い」
と村上龍が言っていた。

別に50歳とは限らない、と思う。
20歳だって「仕事できない」という周囲の評価は辛いだろう。
ただ、20歳なら、今まで生きてきた以上の時間を費やして自分を変えたり磨いたり、新たなチャレンジをしてもまだ40代だ。

私の自営業の友人たちは皆、口をそろえて「30代までの失敗は、40歳からで全部取り返しがきく」と言っていた。
勤め人の40代からは、むしろ死んだふりしてリスクヘッジをしていた「ツケ」を払わせられるのかもしれない。
いや、40代はまだいい。仕事や家庭に夢中になれるだけの状況やプレッシャーや体力など諸々が本人を「必死」や「夢中」に導いてくれるから。

50代になって子育ても一段落し、自分を支えるモチベーションも「右肩下がり」になってきたところで、体力の衰えも自覚させられ、病気の一つも抱えつつ、時代は「閉塞」感を強く抱えている……

そして、求められる仕事の質と、応対するべき状況(若者、というべきか日本人、というべきか、地域のあり方、というべきか、子育ての現実、というべきか、教育に求められる質というべきか)とが、あまりにも大きく変化しようとしている。
自分が体力の下り坂にあるから「閉塞感」を感じる、というだけのことではどうもなさそうだ。

そしてその変化はまだ大きな新しいうねりにはなっておらず、宿便をかかえてうんうん唸る便秘状態。

古いものが壊れて、まだ新しい息吹の胎動は感じられない、ぽっかりと時代の狭間にあいた「隙間」にはまってしまったかのような感触なのだ。

初老期鬱病の蒙昧、なら、それでいい。
夜明け前が一番暗い、その時期なのだ、というならそれもいい。

しかし、尖閣列島の漁船衝突の一連の動きも、千島四島のロシアの動きも、アメリカの中間選挙もそうだけれど、簡単に満足のいく答えが出そうにないことが目白押しだ。

世界の動向なんていちいち気にして「閉塞感」を感じているつもりはないが、やっぱり「世界資本主義」の中で、自分の超ローカルな生活もうごめいているのかもしれない、とつい「啓蒙」されてしまいそうだ。

「辺境」でいいじゃないか、と肩を叩かれるとそうか、と思い、
「グローバル化する世界」は不可避の現状だ、と威されるとそうだよな、と身をすくめ
今こそチャレンジだ、と鼓舞されると、もう一踏ん張りしなくちゃならんか、とため息をつき……。

「閉塞感」の中に漠然とへたり込んでばかりはいられない、とは思うのだが、慌てて前後も分からずにどこかへ駆け出せるほど「若く」はない。

まあ、モノは考えようで、年寄りは逃げ遅れるかもしれないけれど、じっくり考えて行動するのが年寄りの仕事、でもあるかもしれない

それじゃあ間に合わないよ、グローバルビジネスの速度は速いのだから、というのなら、そっちの方は若者に任せておけばいい。

日暮れの下り坂であっても、年寄りなりに見聞しつつ、今度は若者であったときのようにではなく、物事をじっくり判断し、バランス良い瞳を鍛えていきたいものだと思う。
間に合わなかったら、次の電車を待てばいいじゃないか。
電車を待っている内にお迎えが来るなら、それもまた、一興。

村上龍が言うのは、50歳過ぎると新しいことをやって一定の尊敬を得るまでの時間も気力も体力もないだろう、ということなんだろう。

だったら、世阿弥の言うように「演じない」より他に道はとりあえずない。
できることを、余計な力を入れずに入念に舞い続けること。
とはいえしかし、「円熟」とか「成熟」の方向など見失った幼稚な50代の一員としては、それでもなお「初老」なりの「花」をふらふらと探し続けるよりほかにないのかもしれない。

ありもしない枯れ木の「花」という妄想。

さてそれにしても、温泉巡りと旅行それに暇つぶしの読書程度で過ごすには、老後は長すぎる。

たしかに現状、勤め人としての仕事は、とりあえず社会の中での役割を与えてくれてはいる。しかし、これから数年後その仕事が与えてくれる役割から解き放たれ、追い出された時、自分はいったいどちらを向いて歩き出せばいいのか。

とすると、仕事においてリスペクトされることが人生の豊かさに繋がるのは、勤め人じゃなくて自営業の人の場合だけかもしれないね。

とすれば、仕事の枠組みに限定されない「花」なり「演技」なりをどこかで拾っておかないと。
もしかすると30年勤続の表彰とは、そろそろいろいろ覚悟して準備しておけ、っていうありがたい「啓示」なのかもしれない(苦笑)。

P.S.
先輩諸氏には、「畑」を借りて野良仕事をする人が意外に多い。
盆栽とか庭いじりではなく、畑。
微妙に実用的、というか、成果が早いというか。

個人的にはもう少し役に立たないものがいいんだけどなぁ。











二週間も本が読めなくて

2010年04月15日 22時09分24秒 | 評論
転勤してから二週間、本を一冊も読めなかった。
書痴&活字中毒としては異常事態である。

特に何が忙しかったというわけではない。

普通の新入生の担任という仕事をこなしていただけだ。
むろん、1年生を迎える4月の担任は、それなりに忙しい。
だが、食後の数時間ぐらい、本を開こうと思えば開けたはずだ。
転勤してすぐの入学式は、職場に馴染む心理的な作業と、新しい顧客を迎える事務の繁雑さ、加えてクラスのメンバーを把握する仕事が重なって、かなりのストレスなのだろう。

思ったより、しんどかった、ということか。

3月まで三年生を受け持っていて余裕がなかったこともあり、今日レンタルショップに足を向けたのが実に半年ぶり、ぐらいだった。
自分のiTunesに入れた曲目を忘れていて、何曲も重複レンタルをしてしまったのがショック。
レンタルをするにも「継続性」が大事だ。
1000曲単位のデータベースになると、細かいところで入れた曲目を忘れてしまう。

いや、それもこれも老化による気力&体力&記憶力の低下現象なのだろうか。

とにかく週末は、新しい曲でオープンエアードライブを楽しまなくちゃ!




小説の面白さとは何だろう

2010年02月22日 23時05分55秒 | 評論
小説の面白さとは何だろう。

 日曜日、比較的高齢の方と一緒に本を読む機会があった。
 本は
 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』
 森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
 の二冊。まあ、当代を代表するエンタテインメントの書き手二人の作品だ。
 わざわざ読んでその「面白さ」をしゃべると、むしろ「面白さ」が逃げるってことはよくある話で、今回もそうなった(にが笑)。

 私にとっては、そして年若い友人たちにとっては間違いなく面白いのだが、50歳から70歳の人には概ね不評だった。

 どこが面白いのか?

 と素朴に問われると、こちらもだんだん不安になってくる。
 むしろ『フィッシュストーリー』や『アヒルと鴨のコインロッカー』の映画が面白かった、という50代の人は一人いたけれど、小説は二度と読む気がしない、とも。

 そんな話を聞いていて、「いや、でも面白かったんですよ」と繰り返し説明していったのだが、「面白さ」を説明するのは、これはもうかなりの難題なのだ、と改めてじわじわ感じずにはいられなかった。

伊坂幸太郎の面白さは、異なったレイヤーに生活していて、どうやっても互いに出会わないまますれちがいつつ、それでもなお、どこかで接点がかすかにあり得るのではないか、というフラットな「諦念」と「絶望」の中のまれな「ポイント」を探していく小さな書き手の、そして登場人物の、さらにはまた読者たちの身振りをそれぞれに(響き合わせて)楽しむことにある……と思うのだが、どうも、その「姿勢」に貫かれた努力の持続は、ほとんどそこに集まった読者にとって(そしてまた当然想定された作者にとっても)徒労に近く見えていたようだ。

こんなにも読みやすい文章なのに、「読みにくい」というのだから、どうにも不思議だ。
スカスカで読む価値がない、という感想ならば、まだ分かるのだが(苦笑)。

森見登美彦の作品はコアな妄想系小説だから、年配の人にもそのあたりはヒットするらしく(好みは別にして)、また、京都の街が持つさまざまな文化的地層の厚みを利用したエンタテインメントになっていることは年配の方にも感じられたようだった。
様式美だしね。

言葉の格子を縦横に張り巡らし、かつ、実体的な疑似的存在を作品中からほとんど排除した希薄な相貌を見せつつ、それでもなおそれが人間によって読まれ得るとしたら、というエンタテイメント的チャレンジの興奮は、「主体」を過剰に求める年配読者の姿勢とは、なかなか相容れないものなのかもしれない。

難しいなあ。
別に好きだと思わない人に、単なるエンタテインメント小説を啓蒙してまで読ませたいと思っているわけではないのだけれど。偉いエンタテインメントだ、といいたいわけでもないしねぇ。でも、非常に「倫理的」な小説でもあると思うんです。だから敢えて奨めてみたいのだが(いろんな意味で間違ってるか)。






今は亡き師匠の教え、もしくは井上光晴の文学伝習所のこと

2010年01月06日 23時26分53秒 | 評論
 だいぶ昔のことになるが、井上光晴という作家の弟子の弟子といった格好で「文学伝習所」というものに参加したことがある。

 井上光晴という作家が地方のグループのところにやってきて、一泊二日とかで小説の講座と酒飲み、そして実作の添削を行うというイベントを「文学伝習所」と呼んでいたのだ。

 だいたい、純文学なんて今時、書く人は好き好きだからまだ残存しているとしても、読む人なんているのか、といわれそうだ。
 だがまあしかし、大江健三郎がノーベル賞を受賞し、村上春樹がその候補に取りざたされ、昨年一番売れた『1Q84』も、まあ一応純文学、なのだろうから、ジャンルが存在しないというわけでもあるまい。

 その『文学伝習所』とやらで、昼間っからオールドパーをぐびぐびやりながら、いささかせっかちで甲高い声で、しかし少々べらんめえ的(これはよっていたせいか?)に、あるいは急き込むかのように、
「あのね、みなさんは一日100ページは読みなさい。私は必ず1日250ページは文章を読みますよ。時間がないときは新しいものでなくったっていい。とにかく毎日読むことです。」

「カメラを持って歩くんですよ。実際の情景とか、忘れちゃいますからね。こういうポケットカメラでいいんだ。見たことは写しておくといいんです」

「説明はしちゃだめですよ、描写しなきゃ」

「叙情的なのはいいんです。ただし、清潔でなけりゃいけない。」

なんて警句を次々にたたみかけながら、小説の書き方を白昼堂々、大人たちに教えていく。
今でこそ評論家や小説家がカルチャーセンターで小説志望の人を「教える」のは日常の光景になっているが、当時は普通に考えれば「奇異」のことだったかもしれない。
私の師匠(大学のセンセ)は「うーん、井上光晴はさすがだよ。国からもらう年金とか出版社だのみじゃなくて、自分自身の手で読者を開拓しようとしていたんだから。彼はもともと共産党のオルグでも能力を発揮していたしね」
とコメントしていたが。

ところで、今日思い出してメモしておきたかったのは、毎日読まなくちゃだめだ、という教えのことだった。

正月2日に、私の小説家志望の教え子と飲む機会があって、「やっぱり書かないとどんどん下手になるよね」ということで意見が一致した。
読むこともまた、読まないと下手になる。

昨年は、読むことも書くこともせず、教えることばかりの「アウトプット」が続いてしまった気がする。

「なに、もともと下手なのだから、何をしなくても変わるものか」

という常識論は、いっけん説得力があるが、行為の実情を知らないものの言だ。
続けたからといって上手になるとは限らないが、下手には限界がないのだ。
ちょうど、頭がよいといっても限界があるのに、馬鹿には限界がないのと同じ。

というわけで、今年はできるかぎり毎日本を1冊読み、それについてメモを続けていこうと思います。
1年続ければ365冊になる。
むろん、そんなことは無理だけれど、せめて100冊は。

そういえば、蓮實重彦も映画のゼミ生には年間映画一〇〇本といっていたそうだし、吉本隆明も20年毎日詩を書けば詩人になる、といっていた。たぶん二〇年後にはもうこの世にいないけれど、1年ぐらいそういうことをやってみても悪くはあるまい。

というわけで、よろしかったらこちらも参照してみてください。

http://blog.foxydog.pepper.jp/