たまたま
辻村深月『凍りのくじら』(講談社文庫)
を読む前に、週刊読書人8/31号の8ページに辻村深月直木賞受賞インタビューが載っていた。
なかなか興味深い内容だった。
インタビュアー側の質問文が長くて、微妙に「誘導解説風」だったのはご愛敬か(笑)。
私が読んだのは
『冷たい校舎の時は止まる(上下)』
『名前探しの放課後(上下)』
いずれも講談社文庫の2作品のみ。
今回がようやく3作目だが、どの作品もほぼ一気読みさせられてしまった。
作品の主人公が必ずしも人物ではなく、むしろ作品の主人公は「語り」だからだろう、と思った。
大学一年生の頃、井原西鶴が大好きだった。たいして意味も分からず、あの文章が気持ちよかった。
卒論は石川淳、それもあの文体に惹かれたからだ。
この辻村深月も、「語り」の作家だとつくづく思う。
「語る」ことは一見何かを伝えようとしているかのように見えるけれど、必ずしも伝わっているのはその「何か」だけではないし、その「何か」を伝えるためだけならば、小説なぞ書かなくてもよいし、読まなくても一向差し支えはない。
だが、その「語り」はついつい耳をそばだてて何度でも聞き入ってしまうだろう。
久しぶりに、そういう作家と出会った。
辻村深月『凍りのくじら』(講談社文庫)
を読む前に、週刊読書人8/31号の8ページに辻村深月直木賞受賞インタビューが載っていた。
なかなか興味深い内容だった。
インタビュアー側の質問文が長くて、微妙に「誘導解説風」だったのはご愛敬か(笑)。
私が読んだのは
『冷たい校舎の時は止まる(上下)』
『名前探しの放課後(上下)』
いずれも講談社文庫の2作品のみ。
今回がようやく3作目だが、どの作品もほぼ一気読みさせられてしまった。
作品の主人公が必ずしも人物ではなく、むしろ作品の主人公は「語り」だからだろう、と思った。
大学一年生の頃、井原西鶴が大好きだった。たいして意味も分からず、あの文章が気持ちよかった。
卒論は石川淳、それもあの文体に惹かれたからだ。
この辻村深月も、「語り」の作家だとつくづく思う。
「語る」ことは一見何かを伝えようとしているかのように見えるけれど、必ずしも伝わっているのはその「何か」だけではないし、その「何か」を伝えるためだけならば、小説なぞ書かなくてもよいし、読まなくても一向差し支えはない。
だが、その「語り」はついつい耳をそばだてて何度でも聞き入ってしまうだろう。
久しぶりに、そういう作家と出会った。