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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

週刊読書人8/31の辻村深月インタビューが良かった。

2012年09月10日 01時25分01秒 | 評論
たまたま
辻村深月『凍りのくじら』(講談社文庫)
を読む前に、週刊読書人8/31号の8ページに辻村深月直木賞受賞インタビューが載っていた。
なかなか興味深い内容だった。

インタビュアー側の質問文が長くて、微妙に「誘導解説風」だったのはご愛敬か(笑)。

私が読んだのは
『冷たい校舎の時は止まる(上下)』
『名前探しの放課後(上下)』
いずれも講談社文庫の2作品のみ。
今回がようやく3作目だが、どの作品もほぼ一気読みさせられてしまった。
作品の主人公が必ずしも人物ではなく、むしろ作品の主人公は「語り」だからだろう、と思った。

大学一年生の頃、井原西鶴が大好きだった。たいして意味も分からず、あの文章が気持ちよかった。
卒論は石川淳、それもあの文体に惹かれたからだ。

この辻村深月も、「語り」の作家だとつくづく思う。

「語る」ことは一見何かを伝えようとしているかのように見えるけれど、必ずしも伝わっているのはその「何か」だけではないし、その「何か」を伝えるためだけならば、小説なぞ書かなくてもよいし、読まなくても一向差し支えはない。

だが、その「語り」はついつい耳をそばだてて何度でも聞き入ってしまうだろう。

久しぶりに、そういう作家と出会った。

上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』(講談社文庫)を読了した。

2012年05月17日 22時11分52秒 | 評論
上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』(講談社文庫)を読了した。
メディア日記に書くべきところだが、今日はこちらに。

上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀』講談社学術文庫

を本日読了。1999年に単行本として出版されたものの文庫化。去年の暮れの発行だったらしい。

上野修という人に初めて出会ったのは、数年前、スピノザの入門書を二冊買ったら、たまたま二冊とも上野修という人が書いたものだった。

NHK出版 シリーズ哲学のエッセンス『スピノザ』上野修
講談社現代新書 『スピノザの世界-神あるいは自然-』上野修について

過去のブログ(メディア日記)を見るとフーコーコレクションの文庫と同時期、萱野稔人『国家とは何か』のちょっと後に、スピノザの著作とスピノザについての本を10冊ぐらい連続して購入している。

それにしてもなぜ、スピノザだったのだろう。
もうよく覚えていない。自分自身の、「スピノザ以前」を思い出すことがかなり難しくなっている(笑)。

ただ、今回『デカルト、ホッブズ、スピノザ』を通読してみて、なんだかとても懐かしい感じを覚えたのである。
それは明らかに80年代の匂い、といっていい。
ドゥルーズとかラカンに言及しているから、だけではない。
思考のスタイルというか、文体が前提としている「了解事項」を「脱構築」していく、その「脱構築」すべき前提となる「了解事項」自体が懐かしかったのだ。

上野修はスピノザの哲学がきわめて「異様」だ、と繰り返す。
まあ、そうだったんだろう、と思う。
80年代にフーコーやデリダを読んだ時の、脳味噌を裏側から掻いているような不思議な「異和感」もまた、その「異様さ」を身に纏っていた。

何がいいたいか、というと、ドゥルーズを経由したスピノザ「発見」の文脈がそこにあったのだなあ、という感慨を抱く、ということかもしれない。

しかし、私にとってドゥルーズは、遠い存在だった。フーコーは夢中になって「読めなさ」を楽しんで読んでいたし、デリダは「読めない」のではなく「分からない」という感じも持ちつつ、惹かれていた。
でも、ドゥルーズは、ドゥルーズ自身の思想を語らないので、誰かが「利用」したドゥルーズしか知らなかったのだ。
そして、それはほぼ決定的に面白くなかった。
だから、ドゥルーズも「分かりやすい」人なんだろう、とてっきり思ってしまっていたのだ。

ところが、そのドゥルーズ像が、スピノザを読んでいて覆される。それが

ドゥルースの『スピノザ』平凡社文庫

との出会いだった。
上野修さんは入門書本文ではドゥルーズには言及していなかったと記憶しているけれど。
ところが、この『デカルト、ホッブズ、スピノザ』は、明らかスピノザ論が中心になっていて、しかもドゥルーズ的解釈によるスピノザが中核にある。

そういうことか、と今日、思ったのだ。

でも。

入門書2冊の学恩は忘れないけれど、私にとってこの『デカルト、ホッブズ、スピノザ』はちょっと懐かしすぎる。
つまりは、過去のものになっている。
無論、勉強するにはとてもいい本だ。
自分がグルグルしていた80年代の思想シーンの枠組みでスピノザを論じてくれていたことは、そして今それをこうやって読めることはありがたい。

だが、スピノザの哲学が「異端」であり「異様」である、という修辞は、はっきりと私にとっては今のところとりあえず「過去」のものになりつつある。
なにか自分が成長した手柄のように言っているのではない。

自分は時代の空気を吸って生きる以外に空気を吸うやり方をしらず、その時代の空気が、スピノザを「異端」「異様」のままにはしておいてくれなくなった、ということがいいたいだけだ。

吉本隆明が親鸞の「異様さ」的なところに瞳を凝らしていたときも、今ひとつ意味が分からなかった。

だが、今ならそれが分かるような気がするのだ。

蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』から30年。

だいぶ周回遅れでドゥルーズを読み始めた私は、その中でスピノザ読解を進めていくうちに、千葉雅也・國分功一郎という(比較的)若手のドゥルージアンと出会うことになるのだけれど、それはまた別のはなし。

スピノザが「異様」なのはもちろん分かる。
未だに『エチカ』は自力じゃ一行も読めないし……。
でも、書簡集のスピノザはめっちゃ丁寧に「分からなさ」を繰り返してくれるんだよねぇ。
説明になっていないような説明を、あたかも「明快」な説明ででもあるかのように、しかし、分からない人には分からないのだろう、というある種の明るい諦念みたいなものすら感じさせるような調子で。

その粘り強い「わかりにくさ」は、「異様」という言葉だけでは掬い取り切れていない、と思ったのだ。
80年代なら、この上野論文に圧倒されていたことだろう。その手際にも惚れたに違いない。

そういう時代でもあったのです。

(時代のせいとかにするつもりはない。けれど、あのときの「理解」はそういう種類の「理解」でしかありえなかったという意味での「時代」=「思考基盤」が存在したということ)。


上野論文を読んで「へぇーっ」と思う部分は実にたくさんあって、だからぜひにもお薦めなのですがね。

スピノザは意識の価値の切り下げをしている、ってドゥルーズが『スピノザ』で説明抜きでさらっと書くところを、たとえば上野論文ではほんとうに丁寧に、スピノザがその主著『エチカ』の幾何学的秩序において、語りの主体をどれだけ注意深く排除しているか、というアイディアで説明してくれる。

デカルトの説得には「私の語り」が不可欠だが、スピノザはそうではない。
むしろ、主体が生成される差異の欲望の現場を見据えて、その瞳の強靱さをつきつめていったのがスピノザなんだよ、的に説明されると、「おおっ」てなるわけです。

ホッブズとの比較でも、万人の万人に対する闘争という「自然状態」を離脱して秩序が成立するために第三項を排除して高みに置き、そこに権利を委ねるというホッブズの思想展開とはまったく異なり、スピノザは自己の主体が権利譲渡の契約をするなんて話ではなく、「残余の他者」の総和=群衆の力能を意識したとき、すでに主体は一挙に権利の委譲を行ってしまっているのだ、なんて説明されると、むしろ「力学」というか「政治」をそこにヴィヴィッドに感じたりするわけです。

説明がへたくそですいません。本文直接読んで貰った方がずっと分かりやすい。
スピノザの哲学が内包する「構造」の分析としては、素人にとってはもうこれで十分なのじゃないか、ってぐらい書かれています。

ただし、今、スピノザのテキストを読むことからは、ちょっと距離があるかもしれない、とも思うのです。

共に謎を共有して、それを鮮やかに説いてくれる話法は、非常に啓蒙的(でも)あるのですが、そしてだから分からせてもらえる面もあるのですが。

そのあたり、ドゥルーズの「話法」と「上野話法」と、そしてもちろん「國分話法」や「千葉話法」あたりとも比較しつつ、考えていきたい点です。

結論はありません。でも、続く、ですね。




吉本隆明『最後の親鸞』を読み出した

2012年04月15日 18時49分26秒 | 評論
 ちくま学芸文庫の吉本隆明『最後の親鸞』を読み出した。

 これがすこぶる面白い(メディア日記4/15を参照のこと)

 なんだろう、吉本隆明の本を読んでいて、いちいち腑に落ちるという経験をしたのはおそらく今回が初めて、というくらい読みやすかった。

 これもまた「震災・原発事故被害」の影響、といえば言える、のかもしれないが(苦笑)、例の私の持論である、年をとった結果、ボケはじめたために細部が見えなくなって、逆に大きな幹のありかが分かってきたということかもしれない。

 あながち冗談で済ませられないのは、ETVで1年ほど前に吉本隆明の講演を番組で取り上げていて、その中で吉本隆明自身が、どうしても自分の読者ではない人(素人?)に自分の思想を伝えたい、といって、歩くことさえ不自由な身体を押して講演を計画する場面があって、その「気持ち」がとってもよく分かったからだ。

分かった、というのはまあ一義的にはこちら側の「匙加減」に過ぎないのだけれど、それでもその吉本隆明の「気分」は確実に私の側に「感染」したのだ。

例えば『言語にとって美とは何か』指示表出と自己表出、という区分も、だいたいこの「自己」で躓いたまま何十年も読めずにいたわけです。
当時(何十年も前のことです)芸術系の人って、どうしてもこの「自己」という言葉を使いがちで、若い頃の私は、その「自己」に躓いていたわけだから、自分の中の偏見では、どうにも芸術家のいう自己は「動物」としか読めず、結果、だからその自己ってどこで形成された「他者」としての「自己」なの?だいたい「自己」って誰?とか思っちゃうと、もう先に行けなかったのです。

詩とか絵とかの表現者は、そのプロセスにおいて、その語られるべき「自己」とどこかですれ違って「出会い」を果たすのかもしれないけれど、そんなことあられもなく言葉にされてもねえ、というのが正直な感想だった。

「自己」というのは、20歳~30歳そこそこの自分にとって空疎な記号のようなものでもあり、他方空疎であるだけに逆に脱獄不可能な無限のクビキ=牢獄のようなものでもあったわけだから。

でも、ここ(『最後の親鸞』)で語られる「非知」と<無智>の関係は、実によく腑に落ちた。
吉本隆明は(あたかも親鸞の如く)、最初から最後までその「非知」と<無智>の間の淵のぎりぎりの近傍点に立ち続け、実況中継をしようとしていた人だったのかもしれない、ということに、30年も経ってようやく思い至ってきたのだ。

「境界線の近傍に立ちその淵を覗く」、という比喩でいえばここ数年、それが自分にとっても大きな主題の一つだ。
吉本隆明はむしろその淵の底から、のぞき込むこちらに向かって言葉のライトを向けてくる。

それは、かつての私にはまるで深海魚の暗号のように感じられた。
一つ上の世代のたくさんの人間が反応しているけれど、それが分かっているのかな、と疑問も抱いた。

けれど、その淵の側に立ち、覚悟を決めてのぞき込むと、思いの外に「分かりやすい」のかもしれない、とも思うようになる。
ちょうど『小林秀雄の恵み』(橋本治)を読んでから、分からないながらも「小林秀雄が読める」場所に誘われはじめているのと同じように。

どうせ30年も分からなかったのだ。ゆっくりと読んでゆっくりと「分かって」いこうと思う。

親鸞とスピノザを性急に結びつけることもすまい、と思う。

全てはゆっくりと余生全部を通してわかり直していけばいいことだから。









待望の國分功一郎氏「スピノザ入門」講座に行ってきた。

2012年04月10日 23時43分26秒 | 評論
 1年間國分先生のスピノザ講義が聴けるかと思うと、それだけで幸せな気分になれます。
 (第1回目の内容詳細はメディア日記の方を参照のこと。)

一点、興味深かったのは、講義終了後の質問。

國分氏が「できたときにわかる」・「分かるときには分かる」、の例として「自転車乗り」や「水泳」の習得という身体訓練を挙げたのに対して、

そういう身体訓練の場合、手の角度や足の角度をこうして、といった支援・助言が可能なので、ちょっと違うのでは?と質問が出たところだった。

時間の無いところでもあり、噛み合った応答にはなっていなかったようにも思うが、そのあたりこれからじっくり講座の中でそのあたりも聞いていきたいと思うポイントがいくつか見えて、面白かった。

一つは、「身体」の問題だ。スピノザは「コナトゥス」(自己の力能)を私達は自らの内に持っている、という。
この、ある意味では神=自然の「顕れ」でもある「コナトゥス」と身体の関係をどう捉えていくのか。

体験的理解、とは内在的理解、というのに近いようにも思う。
この内在的=体験的な現象の根底に「神様」というか「根源的法則性」というか、そういう風に二つに分けない「表現」された「神の摂理」みたいなものを見る、ということだろうか。

このスピノザの「分かる」+「分かることが分かる」という理解の二重性(そしてそれは無限遡行しない!)は、実は「表現」の問題(ドゥルースにそういう題名の論文があったけれど、その関係もまだよく掴めてません)にもなるんじゃないか、という興味も湧く。

実は國分氏の出した例は、身体内部におけるGの制御、という側面をはらんでいて、私のいうクルマにおけるスポーツ論(論にもなってはいないが<笑>)と他人の空似程度には関係しているかもしれない、とも思う。

身体は自己にとってまず第一の「他者」でもあるだろう。その自己と他者の幸福な出会いの典型的な体験例が「自転車乗り」と「水泳」の習得だったりもする。

単なる身体運動の内面化、ということでいえば、けっこういろいろなスキルというか指導のための言語支援は蓄積がある、とも言える。でも、そっちの方向にこの話を引っ張っていくと、あんまり生産的ではないかもしれないね。

でも、他方、スポーツのコーチングには、「喩」が必須の力だったりもするだろう。
それはスピノザの「知性」とはどこで重なり、どんな距離があるのか。
この辺りも興味は尽きない。

スポーツのコーチングのことばには「喩」が満ちている。
○○を××するように、とか▲▲を描くように、とか、へそを何センチ向こうに、とか、具体的な部分によって全体の動きを「喩」として提示したり、比喩によって運動の形を先取りして提示したりすることは決して稀ではない。
一緒にいった友人(小学校の先生)に教えてもらったのだが、いわゆる「法則化運動」というのは、そういった体育のコーチングのアイディアから始まったのだそうだ。

ここで繰り返し書いてきたクルマの運転は果たしてスポーツか、というテーマにおいても、重心が自分の身体に近くなると、自分自身の身体運動のごときものとしてクルマの動きが感覚される、ということが一つのポイントになっていた。
これは「喩」というより、その逆方向の「手応え」というか、自己身体感覚の「拡張」という「結果」の説明なのだが、そんなことさえ、スピノザの哲学のお話とどこかで交わっているような予感を抱く。

とりとめない感想だが、とにかくとても面白かった。

一緒にいった友人のサイトがこちら(「考えるネコ、走るイヌ」)。よろしかったら是非飛んでみてくださいませ。休眠中の福島在住アスリートが福島で考える、というサイト(不正確な紹介だなあ<笑>)。とにかく、面白いです!




出た!國分功一郎氏の「スピノザ入門」通年講座開講です。

2012年03月27日 22時55分45秒 | 評論
 朝日カルチャーセンター(新宿)で、國分功一郎氏が一年かけて「スピノザ入門」の講座を開講します。

まず1期は3回(4/7、5/19、6/2の各土曜日15:30~17:00)

私は早速申し込みました。よろしかったらご一緒にいかがでしょう。

詳細とお申し込みはこちらのサイトへ。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=154084&userflg=0

以下パンフレットより

---引用開始---

「スピノザ入門」と題された本講座は一年をかけてスピノザの哲学の核心に迫ろうとするものです。最初の学期ではスピノザの人物像を紹介しながら、初期の著作である『知性改善論』(岩波文庫。但し入手困難)をじっくりと読んでいきます。この本は小著ながら、読解上の様々な困難を抱えています。「スピノザの方法」という観点からその困難に迫ります。テキストは適宜コピーを配布します。予習されたい方は講師の著書『スピノザの方法』(みすす書房)をご利用ください。

---引用終了----

以下はついで。

少なくても私は「テキストを読むことがこんなにも豊かな経験をもたらしてくれるんだ!」という実感を、この著者の『スピノザの方法』で手にすることができました。その著者自身にじっくり講義してもらえるなんて、あまりの多幸感で倒れるんじゃないか、と心配です。

スピノザの話を聴いて幸せで倒れそうになるかも、っていうのはおかしいですかね(笑)。


ところで、今日読み始めた『最後の親鸞』の吉本隆明は、親鸞の『教行信証』には彼の肉声が響いていない、と断定しています。むしろ『歎異抄』や書簡でしょう、と吉本は言う。

一見すると國分功一郎氏がテキストを徹底的に読み解くことで『エチカ』の思想に向かって歩いて行こうとするやり方とは、全く正反対の方法を吉本隆明は親鸞に対して用いようとしているかのようにも見えます。

でも、意外にそうでもないかもしれない。
『知性改善論』といういわばぎくしゃくした歩みの中にこそ、本人が完成形だと見なした『エチカ』への道が隠されている、というスタンスは、吉本のスタンスに近いのかもしれない。

また、『教行信証』の「注釈」に徹した書きぶりに対する吉本隆明の「拒否感」は、私(foxydog)にとっての、スピノザの『エチカ』の読めなさと、実は無関係ではないのかもしれない、とも思うのです。

向こう側にいってから還ってくること。

宗教にはその困難さがつきまといます。その困難さを徹底した思考によって跡付けること。その「現場」は哲学がぐぐっと面白くなる場所でもあるような気がして、仕方がないのです。

もう1冊平行して読み始めたD・ヘンリッヒ『神の存在論的証明』(叢書ウニベルシタス)にも通じるかもしれない、容易には触れ得ないものと向き合おうとする「姿勢」を、いずれのホンにも感じています。

ともあれ、






國分功一郎論のための覚え書き(4)

2012年01月02日 11時58分53秒 | 評論
朝日出版社第二編集部さんからいただいたコメント
>先生はえらい+ミメーシスの実践的効用でしょうか
>好悪はあるものの、文体の率直と勢いは大きな魅力です
に反応します。

田吾作を近代市民が誘導するというエリート主義における感染を敢えて論じる宮台真司。
「愛」の不可能性に沈潜して、無力な「サマリア人」から感染を描く大澤正幸。

いずれも垂直性を軸に「公共性」を論じています。

東浩紀の「一般意志2.0」も、現実的な動きとしては学ぶべき点が多々あるにせよ、ネット的言説の広がりを「無意識」に例え、熟議的民主主義の公共を「意識」の側に対置する「例え」からは、どこかで敢えて垂直性を軸に論じている感じが見えてきます。

それに対して、國分功一郎の言説は、すぐれて「私的」な場所に立ち続けようとする姿勢が伺えるのです。
並置的、といってもいい。
「弱い説得」というのはその辺りの事情にも関連します。

強力な状況定義力の私的な発動(権力行使)と、あくまでも弱い説得(上下関係による「正しさの伝達」を行わない姿勢)が両立していなければ、そもそも教育というのは成立しないのではないでしょうか。

さもないと、
支配-隷属
とか、
操作-誘導
とか、の「植民地的心性」の形成こそが教育であるかのように錯誤されつづけてしまうでしょう。
そこでは、あらかじめ教える側が準備した擬制的共同体(小室直樹)の規範を内面化することが「教育」になってしまいかねません。

内面化した規範の遵守が「公共性」と取り違えられ、その結果「私的」権力行使は、だだ漏れ的に「公共性」を僭称していくことになるでしょう。
たとえば、中央でも地方でも展開されてきた原子力「ムラ」(開沼博)の論理が、その結果に他なりません。

生存可能性条件を踏まえて自らの状況定義をする「私的」行為が出発点となってこそ、初めて認識が差異の豊かさを産出しえるのではないでしょうか。

教育を営むということは、ある意味で水平的な多様さ=豊かさを実現するための「差異」を拡大再生産するための貴重な虚構的「インフラ」整備、に他ならないと思うのです。

だから、その「偉さ」はすぐれて演劇的でなければならない。
何かの規範を内面化する動きは、どこかであらかじめ調達された「共同性」であってはならないのです。
規範の正しさの検討が果たして安易か真剣か、を問わず。

教師の状況定義も、あくまで「私的」な権力の行使でなければならない……そんな風に考える理由です。

「公共性」を僭称しない「私的」な権力行使を教師がきちんとできていれば、むしろ「公共性」への道が示されるのではないか。
そんな思いを國分功一郎氏の文章に重ねて読んだ、ということかもしれませんね。


ああ、話が拡散してしまいました。申し訳ない。

この件については、雑誌「atプラス10」の開沼博氏の文章にある「後出しじゃんけん」批判について考える形で、継続思考します。

國分功一郎さんの文章についての考察からだいぶ逸脱してしまったので、この題名でのブログはいったん終了ということにします。

細々と考えていくしかないなあ。



國分功一郎論のための覚え書き(3)

2012年01月02日 00時37分42秒 | 評論
國分功一郎論のための覚え書き(3)

少しだけ補足を。覚え書き(2)で、『暇と退屈の倫理学』における言葉の身振り(文体)について

>「私的」な意味で権力をふるうその状況定義力の行使モデル
である、と指摘した。

けれども、普通「私的」な意味で権力を振るうといえば、それはたんなる「わがまま」ということになりかねない。

筆者はアーレントやパスカルやハイデガーなど様々な哲学者・思想家の考えを紹介し、その意義と重要性、拾うべきポイントを明確に示しつつ、その上で必ず不足するところを批判する。

どの思想家の考えにも「同一化」せず、筆者の立場との共鳴点と差異を同時に(必ず同時に)示しながら論旨を展開していく、という叙述の仕方は、「差異化」の営みそれ自体でもあり、同時にそのプロセスの提示でもあるといっていいだろう。そういう意味では「差異」を重視した論述展開になっていて、正解を提示する「同一性」を招き寄せる記述を注意深くさけている。

だから、ここは「無人称的」とかいったほうがむしろ文意は通りやすいところかもしれない。キャッチフレーズとしてもその方が分かりやすい。

でも、あえてそれを「私的」と言ったのは、

敢えて例えれば、

「学び手に狩りを学ばせるには、まず自ら狩りをして見せねばならない」

ということと大きく関わる。

狩りを成就させるためには、自らが適応してきた「環世界」から、別の「環世界」へと移動するための開かれた「感染契機」が必要だ。

つまり「私的」な状況定義の書き換えという「受動的能動性」がどうしても必要になってくる。

そのためには、まず最初に、「私的」に自分の状況定義力を適切に行使する能力が絶対に必要不可欠なのだ、と『暇と退屈の倫理学』は語っているように思われてならないのである。

そこから始まらなければ「公共性」は「本来性」に回収されてしまうのではないか、という危惧が、「本来性において」ではなく「疎外」=「差異」において逆説として表現されているのではないか、ということでもある。

あくまで「私的」な権力(=状況定義力)の行使は、他者を屈服させたり、他者に隷属したりする「同一化」を招くのではなく、むしろ開かれた次の世界像を作り出す「差異」の力に繋がる、とテキスト自身の身振りがそれを指し示してもいる。

それは白井聡が『未完のレーニン』においていう
「革命」における力の一元論の位相
とも響き合うものでもあり

千葉雅也がいう
う「小人群居してモナドロジー」を前提として、なおもそこに「啓蒙」はア・ポステオリに構築できるのか
っていう課題でもあり、

東浩紀が一般意志2.0にいう
ネット上の言説を「無意識」として捉え、それを熟議的な政治・公共的なるものを構築しようとする選良的な政治に対置すべき「可能性条件」として数値化する
なんて話にも繋がっていくはずだ。

萱野稔人が「ナショナリズムは悪」なのか、において、国家における権力=暴力のマネージメントを真剣に考える必要性を説くことにも大きく問題意識は重なってくるはず。


ただとにかく教育論としては、まず「私的」な場所で「権力」をきちんと振るう仕方を提示しなければ、何も始まらないと思う。

誰かに任せて文句をいう、とか、擬制的共同体(ムラ)の規範が僭称する「公共性」を振りかざして隠れ蓑にしつつ、私的欲望を本音として隠し持つ、みたいな「土人的(大塚英志)」振る舞いから私達が一歩踏み出すためにも。


ことさらここで繰り返す必要もないといえばないのだが、國分功一郎のテキストにおける「教育」の身振りについては、今後も注意深く見守って行きたいと考えている。

敢えてファン的に言っておけば、私は國分功一郎のテキストの身振りにこそ、最も強く「惰夫を立たしめる(石川淳)」文体の力を感じていますけれど。



東浩紀『一般意志2.0』を読む、を書きました。

2011年12月28日 18時50分12秒 | 評論
東浩紀『一般意志2.0』 について書きました。

http://ryuuunoo.jugem.jp/?PHPSESSID=68f60e1e149d4031c96898199dd496f4

正直、どう評価してよいかまだわかりません。
でも、全体とか世界を見通す「公共性」が構想困難で「公共性」が「共有不可能」状態にある「今」においては、東浩紀がいうことも無視できないな、と感じます。
ネットワーク上の有象無象の言説を総体として適切に処理すれば、コミュニケーションなんてものを経由しない一種の「政治的」な基盤がそこに可視化される、というのですから。
あながちほら話といって冷笑するわけにはいかないように思います。

具体例がツイッターとグーグル程度じゃあ海のものとも山のものともわからない。

ただ、東大の3.11以後の公共哲学を考えるシンポジウムに参加したとき、ニコ生のコメントが画面にはだらーと流れている中でシンポジウムが進行していて、そのときネットでライブを見ているだけの感じとはまた違うものを感じました。
私も福島からの参加ということで時間のないなか発言させてもらったのですが、そのとき自分の質問が、パネラーと会場の人に受け止められるというリアクションだけではなく、無責任極まりない垂れ流しであることは百も承知、二百も合点なのに、ネット上の観客からライブで書き込まれるコメントによって受け止められた手ごたえは間違いないものでした。

こちらの気持ちというか思考が緊張と集中、そして快楽をもたらしたのは事実だったのです。

そのときの充実感を踏まえて考えると、可能性はあるかもなあ、とも思うのです。
「選良」を抑制する大衆的無意識の力、みたいな?
ただ単純に、同意はできません。
結局「適切なアーキテクチャ」ってところが心配なんだよねえ。
グーグルに悪意はない。アマゾンはサービスの向上を考えているだけ。ツイッターはその基盤を提供しているだけ、といえばそのとおり。
でも、可視化された情報の総体をきちんと共有し、開かれたものにしつづけるのはけっこう難しいのじゃないか?との疑問もわいてきます。

たくさんの方の意見を聞きたいところです。

個人的にはルソーのテキスト自体に当たったり、アーレントともう少し対話したりしながら考えていきたいですけどね。


現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む

2011年12月07日 02時44分33秒 | 評論
現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む
をJUGEMブログ「メディア日記龍の尾亭」に書きました。

フェミニズムという思想に出会ったときは衝撃でした。
女の子の謎は、女性が女性であることによって引き起こされているのではなく、むしろ男の側の幻想というかホモソーシャルな排除・抑圧の結果なのだ、と突きつけられた「真実」はびっくり仰天。

無論女性性とか男性性とかは「社会的に作られる」
ぐらいのセリフは子どもの頃から知ってはいたし、ジェンダー概念まではっきりしたものではなくても、どうも「女らしい」とか「男らしい」とかいう手合いはおよそ胡散臭いのは分かっていた。

けれど、上野千鶴子が挑発的に論じる「フェミニズム」は、「性なんて単なる役割や幻想なんだよね」的なお話じゃなくて、読者である「男の子」の自分が、女性性に対する男性として「当事者意識」を持たされていく巻き込まれ感がありました。戦闘的だったんだよね。

自分はそんな戦闘の対象じゃないよっていっても、聞いちゃもらえない感じがあって、それはどうにも理不尽だなあ、と素朴に感じていました。

敢えてするカテゴリー優先の議論の戦闘性は、面白くもあり、やっかいでもあったのを記憶しています。
でも、その「訓練」から、カテゴリーの臨界面を教わりました。

「性」は外にあって着脱可能な範疇じゃない。
自分たちが生きる前提となっている引きはがせない「下駄」であって、それらは社会が男や女を追い詰めて抑圧し、あるいは機能させていく内面化されたシステムでもある。

そしてそれは、「性」の問題だけじゃなくて、「政治」・「権力」の問題でもあるのだ、と目を開かされていくことになります。

結局フェミニズムの問題それ自体に対する理解はあまり深まった記憶はないけれど、社会学的な匂いについては教わったことになるのかもしれません。


上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』講談社学術文庫を読む

2011年12月07日 00時44分03秒 | 評論
上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』講談社学術文庫を読む
メディア日記龍の尾亭」に書きました。

上野修センセの文章が頭にすっきり入ってくるようになったのは、時代の変化かこちらの脳味噌が変質したのか(進歩したと言うより、むしろ惚ける一瞬前のクリアさ、という意味で)。

國分センセがデカルト読みというスタンスからスピノザを丁寧に読んでいったと言っていたのに少し近い感じで、この本での上野センセは、ホッブズからスピノザに接近している。

その中でスピノザがデカルトやホッブズから「異様」にズレている様を描き出していく。

まあ、スピノザっていう人をデカルトの延長戦上の言葉で語ろうとするとどうしてもそうなっていくのだろう。
もう一つの「近代」の可能性をはらんでいた17世紀、という視点。
そして、私達がその説明として使用している近代的な「論の前提」それ自体が反転していく形で示されていくスピノザ像。

かつては「近代的思考」を自明の前提としている、ということを前提としてスピノザの「異様さ」を描出していたのだろうな、と上野論文を読んで感じた。

それは上野センセが、というより、時代がっていう感想ですが。

だから、今読むと分かりやすい。
その場所から距離を持つようになったから。

じゃあ、「今」私は私達はどこにいるのか?
「本来性なき疎外」(國分)や、「一元論的<力>」(白井聡)という言葉がその場所を指し示しているようにも思われる。

今はもっと様々なところからのアプローチが始まっている、という感じもある。
そういう意味では上野修のこの論文集は、ちょっと息苦しい生真面目な感触もないではない。

偉そうにいうなって話ですがね。
いや、その「生真面目」な感じに導かれてやっとぼんやりと話の輪郭が見えてきたってことなんですけれど。

面白いです。お薦め。



『「物質」の蜂起をめざして-レーニン、<力>の思想』白井聡を読み中。すげえ。

2011年11月25日 20時53分16秒 | 評論
『「物質」の蜂起をめざして-レーニン、<力>の思想』白井聡を読み中。すげえ。

読む前に想像していたものよりずっと腑に落ちるし、なるほどそこかあ、とも思う。
しかし、それにしてもレーニンを、ソビエト連邦の誕生→終焉→資本主義の全面化まで来てしまったこの「今」において研究対象とする知的膂力というか、へそ曲がりさ加減というか、そこに痺れながら読み進めている。
カントとレーニンは「モノ自体」に対する姿勢として奇妙な「近さ」があるっていう言及にやられた、と思う。

やられたもなにも、レーニンのことなんてからっきし知らないで「旧世代の遺物」と思っていただけなのだから、何もやられてさえいないただの「無知」というべきなのだが、それにしても、この白井聡という人の「暗い情熱」というか(笑)、もとい、凄みのある切れ味というか、それでいて「まっとうな感じ」がする不思議さというか、國分さんとのトークイベントがなければ絶対手にも取らなかった、と思うと、それもまたびびることではある。

全然分かっていないので解説めいたことは言えないが、それでも、今、脇において併読している東浩紀『一般意志2.0』のリーダビリティの高さとは全く違うのだけれど、そこに引用されているルソーの思想を読みながら、白井さんの「近代における人間=主体」を壊す力としてのレーニンの思想を、2011年の「今」として同時に、肌のひりひりした部分で受け止めている。
それはもちろん「本来性なき疎外」っていう國分さんの提示とも呼応している。

残念ながら「リトルピープルの時代」(宇野常寛)は私にはよく分からないんですが。
村上春樹体験も違う感じだしね。ま、村上春樹自体に対する私自身の齟齬とのねじれた感じもあって、最初でつまずいちゃったから、こちらはとりえず保留=宿題。

この週末は白井聡の「レーニン」にかなりやられています。