龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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身近に漂う閉塞感について(1)

2010年11月05日 23時11分32秒 | 評論
身近に漂う閉塞感について(1)

30年勤続の表彰を受けた。

県職員が県費を使ってお手盛りの表彰をする、というのが果たして今の時代に適合した振る舞いなのかどうかはなはだ疑問に思うけれど、表彰してくれるというので、されました(苦笑)。
まあ、賞状1枚の話なんですがね。

さて、30年間同じ仕事をしてきて、職業としては十年一日のことをやっているだけ、とも言えるはずなのに、なぜか近年、「閉塞感」を強く感じるようになってきた。

年を取って変化に対応しにくくなったからだろう、と言われればそうかもしれない。
いつだって年配者は「いまどき」をぼやくものだよ、という指摘も当たっているのかもしれない。

だが、自分が若い時には何かもっと「別の未来」がどこかに(そんなものはありゃしなかったが)あるような気がしていて、今日よりよくなる明日(それは自分が成長し、変化する、という自分への期待が大きかったかもしれない)を夢見つつ、現在のつらさを耐えていたような気がする。

今は、それができないのだ。
「50歳過ぎて仕事でリスペクトされない人間は辛い」
と村上龍が言っていた。

別に50歳とは限らない、と思う。
20歳だって「仕事できない」という周囲の評価は辛いだろう。
ただ、20歳なら、今まで生きてきた以上の時間を費やして自分を変えたり磨いたり、新たなチャレンジをしてもまだ40代だ。

私の自営業の友人たちは皆、口をそろえて「30代までの失敗は、40歳からで全部取り返しがきく」と言っていた。
勤め人の40代からは、むしろ死んだふりしてリスクヘッジをしていた「ツケ」を払わせられるのかもしれない。
いや、40代はまだいい。仕事や家庭に夢中になれるだけの状況やプレッシャーや体力など諸々が本人を「必死」や「夢中」に導いてくれるから。

50代になって子育ても一段落し、自分を支えるモチベーションも「右肩下がり」になってきたところで、体力の衰えも自覚させられ、病気の一つも抱えつつ、時代は「閉塞」感を強く抱えている……

そして、求められる仕事の質と、応対するべき状況(若者、というべきか日本人、というべきか、地域のあり方、というべきか、子育ての現実、というべきか、教育に求められる質というべきか)とが、あまりにも大きく変化しようとしている。
自分が体力の下り坂にあるから「閉塞感」を感じる、というだけのことではどうもなさそうだ。

そしてその変化はまだ大きな新しいうねりにはなっておらず、宿便をかかえてうんうん唸る便秘状態。

古いものが壊れて、まだ新しい息吹の胎動は感じられない、ぽっかりと時代の狭間にあいた「隙間」にはまってしまったかのような感触なのだ。

初老期鬱病の蒙昧、なら、それでいい。
夜明け前が一番暗い、その時期なのだ、というならそれもいい。

しかし、尖閣列島の漁船衝突の一連の動きも、千島四島のロシアの動きも、アメリカの中間選挙もそうだけれど、簡単に満足のいく答えが出そうにないことが目白押しだ。

世界の動向なんていちいち気にして「閉塞感」を感じているつもりはないが、やっぱり「世界資本主義」の中で、自分の超ローカルな生活もうごめいているのかもしれない、とつい「啓蒙」されてしまいそうだ。

「辺境」でいいじゃないか、と肩を叩かれるとそうか、と思い、
「グローバル化する世界」は不可避の現状だ、と威されるとそうだよな、と身をすくめ
今こそチャレンジだ、と鼓舞されると、もう一踏ん張りしなくちゃならんか、とため息をつき……。

「閉塞感」の中に漠然とへたり込んでばかりはいられない、とは思うのだが、慌てて前後も分からずにどこかへ駆け出せるほど「若く」はない。

まあ、モノは考えようで、年寄りは逃げ遅れるかもしれないけれど、じっくり考えて行動するのが年寄りの仕事、でもあるかもしれない

それじゃあ間に合わないよ、グローバルビジネスの速度は速いのだから、というのなら、そっちの方は若者に任せておけばいい。

日暮れの下り坂であっても、年寄りなりに見聞しつつ、今度は若者であったときのようにではなく、物事をじっくり判断し、バランス良い瞳を鍛えていきたいものだと思う。
間に合わなかったら、次の電車を待てばいいじゃないか。
電車を待っている内にお迎えが来るなら、それもまた、一興。

村上龍が言うのは、50歳過ぎると新しいことをやって一定の尊敬を得るまでの時間も気力も体力もないだろう、ということなんだろう。

だったら、世阿弥の言うように「演じない」より他に道はとりあえずない。
できることを、余計な力を入れずに入念に舞い続けること。
とはいえしかし、「円熟」とか「成熟」の方向など見失った幼稚な50代の一員としては、それでもなお「初老」なりの「花」をふらふらと探し続けるよりほかにないのかもしれない。

ありもしない枯れ木の「花」という妄想。

さてそれにしても、温泉巡りと旅行それに暇つぶしの読書程度で過ごすには、老後は長すぎる。

たしかに現状、勤め人としての仕事は、とりあえず社会の中での役割を与えてくれてはいる。しかし、これから数年後その仕事が与えてくれる役割から解き放たれ、追い出された時、自分はいったいどちらを向いて歩き出せばいいのか。

とすると、仕事においてリスペクトされることが人生の豊かさに繋がるのは、勤め人じゃなくて自営業の人の場合だけかもしれないね。

とすれば、仕事の枠組みに限定されない「花」なり「演技」なりをどこかで拾っておかないと。
もしかすると30年勤続の表彰とは、そろそろいろいろ覚悟して準備しておけ、っていうありがたい「啓示」なのかもしれない(苦笑)。

P.S.
先輩諸氏には、「畑」を借りて野良仕事をする人が意外に多い。
盆栽とか庭いじりではなく、畑。
微妙に実用的、というか、成果が早いというか。

個人的にはもう少し役に立たないものがいいんだけどなぁ。











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